セーラームーンとエヴァ

90年代アニメは、そもそも子どもが見るものであった。つまり、小学生くらいまで、ませていて、中学生くらいまでが見るものであった。それだから、夕方にやっていた。こういった視点で見たとき、まさに、90年代はセーラームーンの全盛期だったことが分かる。
この時代に、熱狂的に見た子どもたち(視聴率の高かった)が、今のアラサー女子だと考えたとき、この世代の特徴をどのように考えるのかにセーラームーンの特徴を読むことはどこか合理的なのであろう。小学生くらいまでの多感で影響を受けやすい時期に、人格形成が行われると考えるなら、彼女たちはセーラームーンによって、この社会とはどうなっていて、どんな「からくり」によって成り立っていて、どういった倫理的資質が求められているのかを血肉化していった、というわけである。
この前紹介したセーラームーン本が注目していたように、なぜ今、セーラームーンが重要なのかは、今の時代を牽引するアラサー女子が、もろ、このセーラームーン世代だからである。そのことは今の日本が「どうなっているのか」を理解するのに欠かせないわけである。これがなぜ、今、90年代論が重要なのかを意味している。
(例えばそれを、女子サッカーの「なでしこ」が、W杯で準優勝していることにも見出せるであろう。)
しかし、改めて、こういった視点で見たとき、つくづく、セーラームーンエヴァは、その構造が似ていることに気づかされる。というか、このことは、実は一部のマニアの間ではよく知られていたのではないか、と思うのだが(私はあまりこの事情を知らないので)、その基本的な枠組みだけでも検討しておくことは意味があるのではないかと思っている。
一応確認しておくと、この二つの作品の時間軸は以下となっている。

この前の本にも指摘されていたように、セーラームーンのRとSは、最も視聴率の高かった時期のわけである。そして、その時期にエヴァが構想され制作されていたことが分かるであろう。つまり、圧倒的にエヴァセーラームーンを意識して作られていた、ということなのである。
次に、どういった形で作品の構造が対応しているのかを見ておこう。

  • 月野うさぎ(主人公) - アスカ(少し遅れて登場)
  • 水野亜美 - レイ
  • タキシード仮面 -シンジ(主人公)

こうやって見ると、ある「差異」が見受けられるであろう。つまり、主人公が女の子から男の子に変わっていることと、エヴァのアスカの登場が、作品の中盤になっていることである。
つまり、どういうことか?
エヴァは最初から、セーラームーン世界の「批判」によって始まっている。つまり、セーラームーン世界はエヴァによって「批評」される形になっている。セーラームーンの世界は、エヴァによって

  • 現実世界の<リアル>

を対置される形になっている。エヴァの世界を特徴づけているのは、その登場人物たちの「病的」な性格にある。つまり、彼らはこの「世紀末」において、精神的に病んでいる。このことを象徴するのが、セーラームーンの世界では主人公の位置にあるはずの、アスカが遅れて登場するところにある。
なぜアスカは遅れて登場するのか。それは、アスカが「主人公であってはならない」からである。そこが、このエヴァの世界を決定的にする。主人公のいない世界。そこにおいては、誰かが主人公を代替しなければならない。それが、この世界における、タキシード仮面の位置を占めるはずだったシンジだというわけであり、その「狂い」が第二話における、エヴァに乗ったシンジの「狂気」を思わせる使徒を何度もナイフで刺し続けて殺す場面に象徴されている。
言うまでもなく、セーラームーンの世界はフェミニズム的な価値観を非常に強く体現している。セーラー戦士たちが「変身」するとき、それは「メークアップ」と呼ばれる。つまりこれは、女性たちが男のサラリーマンの中で、女性用のスーツを着て、

  • 化粧

をして「戦闘態勢」に入る比喩的な表現を意味しているわけである。他方、シンジがエヴァに乗る意味とはなんであろうか? 先ほども言ったように、このエヴァの特徴は、セーラームーン世界を

  • 批判

するために作られている、ということである。つまり、セーラームーン世界は、この日本社会の「真実」を描いていない。つまり「リアルでない」から、間違っている、ということを主張するために作られた保守反動イデオロギー作品だということである。つまりこれは、

だということである。フェミニズムなんていうものを突き進めたら、日本が滅びてしまう。その恐怖を描写するために、エヴァは作られた。はっきり言ってしまえば、エヴァ

なのだ。
この関係を、作品世界に人物描写において確認していきたい。綾波レイは確かに、エヴァの前半でシンジにとって重要な存在として描かれる。そして、その関係の記述が完成した後に、アスカが登場する、という「遅れて来た主人公」としてアスカが描かれている。しかし、セーラームーンの世界においては、そもそも、タキシード仮面と水野亜美は、ほとんどデタッチメントといった形で記述されている。というのは、水野亜美は、浦和良という成績優秀な同級生との関係を示唆して描かれているからであるが、このことは、エヴァにおいては、綾波レイとシンジの父親の碇ゲンドウとの関係において示唆されている、と言ってもいいであろう。また、そもそもセーラームーンの世界では、もう一人の「レイ」として、神社の娘の火野レイが存在する。彼女は作品の最初の方で、タキシード仮面の実社会の正体である地場衛と関係がある存在として描かれていたわけで、エヴァの世界はこの火野レイの不在という形においても、なんらかの「欠損」が示唆されている。
他方、アスカはどうか。エヴァのアスカは、とにかく、シンジを前にしてずっと「いらだっている」存在として描かれている。この彼女のいらだちがなんなのか、が一つの謎として存在している。
セーラームーンの世界では、うさぎはタキシード仮面とゲームセンターで働いている古幡元基の二人に恋している、いわゆる「二股」の関係が示唆されていて(元基には別に恋人がいるのであるが)、木野まことというもう一人のセーラー戦士と恋路を争うような関係で描かれていて、無印版の最後まで、うさぎは木野まこととずっと口喧嘩の相手として、ある意味での「精神的なバランス」がとれるような関係になっていることが分かる。
そういう意味では、エヴァにおいては、アスカに対応する「木野まこと」がいない。アスカはその「ストレス」をずっと、シンジに向け続ける形になっている。アスカの態度は、一種のフェミニズムの女性学者たちの一種の

  • ヒステリック

に反応する態度の「パロディ」になっているわけである。
このように見てきたとき、エヴァはある一点において、セーラームーンの世界の対応物としては、中途半端な構成になっていることが分かる。それは、つまりは最終回の描かれ方なのだ。セーラームーンは最終話において、全セーラー戦士たちが相手との戦いによって「死ぬ」ことが描かれる。つまり、子どもたちの戦いの果ての「死」が、非常に重要なポイントとなっている。
他方エヴァは、テレビ局側の要望によってか、テレビシリーズにおいて、主要人物たちの死を描くことを禁止されていたということもあって、セーラームーン世界の対応としては不完全な印象を受ける(もちろん。綾波の死が描かれたりと、必ずしも、その示唆がなかったわけではないが)。その不完全さが、映画版の最終回がどうしても必要とされた理由と分かる。
セーラームーン無印は、こうして次々と死んでいったセーラー戦士が、プリンセスとしてのうさぎの能力によって、この「世界の復元」として戻される、という形でエンディングを迎える。つまり、彼女たちセーラー戦士は、全員今までの戦いの記憶を失い、普通の女子中学生だったという記憶しかない彼女たちの「日常」という形で、作品はいわば

  • ハッピーエンド

を迎える。他方、エヴァにおいてもこの対応物が必要とされる。それがテレビ版の最後で、シンジが空想する、シンジ、レイ、アスカが普通の現代世界における中学生の学校風景を思わせる「学園物」の一風景のシーンであることが分かるであろう。
つまり、この構造を整理すると、以下の二つになる。

  • セーラームーンの世界は、言わば、ファミニズム的なリベラリズムの理想を徹底させた世界の「素晴しさ」を示唆する作品だったとすれば、エヴァは、こういったフェミニズム的なリベラリズムの徹底が社会の病的な結果に導くということを示唆する(=リアルな世界はむしろ、こういったフェミニズム的理想を徹底することによって破壊されてきた)セーラームーン世界を糾弾する保守反動の作品だったことが分かる。
  • セーラームーンの世界の最終回における、彼女たちセーラー戦士がその記憶を失い、普通の日常に戻る「ハッピーエンド」に対し、エヴァの最終回は、そういった「日常というハッピーエンド」がシンジの「空想」としてしか与えられず、いや、むしろ、その「ハッピーエンド」が、人格改造セミナー的なものによる<解決>として示されることによって、日本の右派宗教教団に対する「家族」信仰への親和性を強く感じさせる形の「解決」を示唆するものになっている、

という二つの特徴が言えるであろう。最近の自民党政権の特徴として、自民党憲法草案が示しているように、日本会議勝共連合といったような、戦前の生長の家統一教会といったような右翼宗教団体が昔からずっともっているような、「家族の理想」を彼らの運動の全面に出す

  • ファミニズム批判

イデオロギーとして位置付けられるわけで、エヴァンゲリオンという作品は言わば、こういった系統に位置付けられる「バックラッシュ」作品だ、ということである。
私がなぜここで、90年代論として、セーラームーンでありエヴァをとりあげているのかは、今の自民党政権が行っている政策(安保法制から、憲法改正)の、その目的を分析していく過程で、どうしても、

  • 戦前の亡霊

の問題を避けて通ることはできないと考えるからなのである。なぜ日本は太平洋戦争の惨事を通して、無条件降伏という敗戦に至ることになったのか。そこには、間違いなく、神仏習合としての、右翼宗教団体の「天皇=神」化の過程を経ての、宗教的熱狂があったし(言うまでもなく、戦中、もっとも熱狂的に天皇集権的イデオロギーに求心された集団こそ、日本の当時の新宗教と呼ばれたような、宗教運動だったのであり、そもそも、そういった人たちと、陸軍や海軍の軍人の一人一人は区別できなかったのだ)、そこでの「神」と「家族」の構造は、不可分の関係として受けとられていた。言わば、その関係が、もう一度、

  • 家族論

という形で、自民党イデオロギーとして復活してきている。その場合に、フェミニズムが代表するような「リベラル」思想は、いわば「家族」の保守という命題によって、徹底的に叩き潰されなければならない、と彼らは考える(その結果として、戦前のように、徴兵制によって強力な軍隊をもつ「普通の国家」へと変貌する思想的基盤が提供される)。それは、立憲主義を破壊することと矛盾しない。立憲主義といったような、リベラリズム的理想は、むしろ、宗教的狂熱の中で、国家に収斂していく。家族はそういったイデオロギー装置としてのみ意味のあるものへと再定義されるわけである...。