井崎正敏『吉田松陰』

例えば、日本の頭の良さげな人たちの議論として、憲法第九条に対して、自衛隊は矛盾している、という認識から、一気に、

を目指すという議論をする人たちがいる。しかし、ここで私がこだわっていることは、そういうことを言っている人にとって、ここで言う「自衛隊の軍隊化」とは、具体的に何を意味しているのか、ということなのである。どうも彼らには、「軍隊」という言葉は、世界一般共通の意味が必要十分にあり、

  • それ

にする、という以上のことを言っているつもりもない、という「能天気」な印象を受けるわけであって、非常に彼らの「素朴さ」はやっかいだな、という印象を受けざるをえない。
つまり、彼らには「歴史」がない。この日本において、「軍隊」を復活させるということは、言うまでもなく

  • 戦前の日本の軍隊を復活させる

ということを意味するに決まっているのであって、そうした場合に、どうしてその「戦前の日本の軍隊」が、

  • 一般的

に世界中で言われている「とかなんとか」言っているところの軍隊であろうか、ということなわけであろうか。つまりは、

を復活させる、と言っているわけである。そうじゃないと考えることの方がどうかしているわけである(こういった言葉の感性も共有することなく、欧米思想ばかり研究してきた「素人」がナイーブな議論をするから、さらにややこしくなるわけである)。
こういった連中に見られる特徴は、例えば、吉田松陰にしても、別に、全否定するわけでもない。全肯定するわけでもない。徹底した「無関心」に貫かれていて、あくまでも

  • 僕が勉強してきた西洋思想の観点から

「ここ」は良い属性で、「ここ」は悪い属性で、といった形で、「相対的」に評価をし続けることによって、吉田松陰主義者と喧嘩することを避けつつ、さらに、吉田松陰否定主義者と喧嘩することを避けつつ、どっちもどっち。つまり、

  • 吉田松陰がなんだろうが、素晴らしきかな西洋思想

というわけである。彼らが関心があって、なにかを言いたいのは、その西洋思想にすぎず、それらが日本に流入してくる前の日本人が何を考えていたのかとか、それがどう普遍性と関係していたのかとか、なんの関心もない。つまり、彼らにとって

  • 思想

とは西洋思想のことなのであって、彼らにとって日本という概念自体が「不要」なのであって、なぜ日本が西洋でなかったのか、なぜ自分は西洋に、白人として産まれなかったのかを、どこまでも恥じている、といった感じなのであろう。
よくよく考えてみると、明治以降の日本の植民地主義、つまり、侵略戦争は、ほとんど、吉田松陰が言っていたことを、そのまま「辿って」いるように思われる。そういう意味で、戦前の日本は「吉田松陰主義者」であった。吉田松陰が「侵略しろ」と言ったから、日本は唯唯諾諾とそれに従ったのである。

まず太華の松陰批判を見ていこう。
「道は天地の間一理にして、其の大原は天より出づ。我れと人との差なく、我が国と他の国の別なし」とまず基本原理を提示してから、君道についても同様だとして、以下のように説明する(「講孟箚記評語」安政三年)。
村のレベルでも領国のレヴェルでも、能力と人徳に秀でた人が、人びとの信望を得てその長になった。天下についてもおなじことである。堯・舜は天下第一等の人物であったから、衆人みなこれに服し、天子となった。しかし舜の子は出来が悪かったので、また別に天下第一等の人物を選んで、これに天子の位を譲った。夏王朝を建国した禹である。
その子は父親ほどには優れていなかったけれども、それなりに賢かったので、人々が認め、天子の位を世襲した。代々つづいたこの夏王朝も、しかし暴君の桀の時代になって、ついにその位を失った。これが「天」というものである。
「天は知るべからず。然れども天人一理なるゆうえ、衆人の心の向背を以て天を知るなり」。このあたり孟子の正統的な理解である。そして太華は、日本においても、その理法は変わらないと説く。「我が邦にても、神武天皇西偏(日向の地)より起りて、諸州の服せざる者を平げて天下を一統し給ひ、都を中国(国の中央)に立て給ひしより、世々聖賢の君出でて天下を治め給ひ、偶々、武烈の如きありといへども御世も短く、其の後も賢明の君絶えず出で給ひ、其の徳沢、民の骨髄に洽うして、愈々久しく愈々厚く、天下奉戴二心なきこと、前の禹の所にいへるも、理は同じことなり」。
日本においても武烈天皇のような暴君は登場したけれども、さいわい在位も短く、その後は賢明な君主がつづいたので、民もこれに服して、皇統は継承された。漢土の禹が建国した夏王朝に当てはまったのと同じ理がはたらいたのである。
しかし後白河法皇が君徳を失ったので、源頼朝が現われて天下を治めた。「而して朝廷は唯だ至尊の位を守りて、天下の事に与り給わず」。以後、朝廷は神聖な位に留まり、天下は武家政権が治めて今日に至った。こうして見れば日本も漢土も理において変わりがないではないか。
これが太華の言い分であった。どのような支配であっても、被治者の同意なしには存続できないこと、この同意を失えば政権を失うことが、古今東西に通ずる理法として主張されたのである。
この儒学的合理論に立つかぎり、太華は創世神話に基づく国体論を認めるわけにはいかない。上古の話は「奇怪の説」が多いと一蹴しただけでなく、『日本書紀』についても、「神代の巻は、皇朝の御先祖を記したる書なり。其の上古の事詳かに知るべからあるを以て、是れを神代と名づけ給ふなり」、と解釈した。
太華は長州藩を代表する儒者であったが、とくに全国的に名が知られたり、著書が読み継がれたりした学者ではなかった。それにしてはなかなかの学識と見識である。江戸時代の教養水準の高さを示しているといっていい。だがこの水準の合理主義は、結局のところ、現状肯定の論理として回収される。対米条約問題では、太華は現状を後追いする論理しか提供できなかった。
しかし松陰の反論は、反論になっていない。太華の保守的で正統的な論理を新たな論理で覆すことができないのである。「漢土には人民ありて、然る後に天子あり。皇国には神聖ありて、然る後に蒼生(人民)あり。国体固より異なり。君臣何ぞ同じからん。先生神代の巻を信ぜず。故に其の説是くの如し」と、自説を繰り返すばかりである。
ついには、「論ずるは則ち可ならず。疑ふは尤も可ならず。皇国の道悉く神代に原づく。則ち此の巻は臣子の宜しく信仰すべき所なり」と、みずから信仰であることを告白した。と同時に、「鴻荒(大昔)の怪異は万国皆同じ。漢土・如徳亜(ユダヤ)に怪異なきは、吾れ未だ之れを聞かざるなり」と、漢土のみならずユダヤまで引き合いに出して(聖書の知識はどれくらいあったのだろう)、多文化主義的な弁証を試みている(「講孟箚記評語の反評」)。

私たちはやはり、今においても、どこかしら「明治の皇国史観タブー」の影響圏の中で考えているように思われる。それは、上記の吉田松陰の持論を見ても分かるわけで、私たちはこういった松陰の主張には、そうはいっても、それなりに「説得性」があったんじゃないのか、と考えがちな側面を否定できない。つまり、日本の天皇制は、神武天皇から連なる万世一系で、その「やんごとなさ」は、中国の孟子が主張した、易姓革命は日本にはあてはまらない(それだけ、日本の方が、統治の正統性が中国より優れている)くらいに、日本独自に日本の「名分」となっている、と。
しかし、上記の山縣太華の主張を見ると、むしろこのように考えていた江戸時代の儒者は多かったのではないのか。それくらいに、自然な解釈であることが分かるであろう。
さて。孟子易姓革命と、松陰がこだわっている「日本独自の名分論」の違いとはどこにあるのだろうか。孟子が言っていることは、どんな国家であろうが、大衆の支持なくして立たない、ということである。そういう意味で、大衆と一体となった政治以外の政治を認めていない。
他方、松陰の言う「日本独自の名分論」は、大衆などという愚鈍な連中によって、国家の正統性が左右されるなどということはあってはならない、というところに尽きている。とにかく、天皇の「統治の正統性」は、なにによっても揺ぎないものがあるのであって、その根本が揺るがされることなどというものが、どういう形であれ、主張されてはならない。それは畏れ多いわけである。

さて孟子の論理では、桀紂のような暴君が現われた場合には、湯武のように放伐することが正当化された。革命の容認である。日本においても、征夷大将軍がその職務を果たさない場合には、天朝にそれを解任する権限が担保された。それが松陰の論理であった。
では天皇のなかに暴君が出現した場合には、どうしたらよいのか。皇統には暴君など現われないという無理な前提でもなければ、この問題は避けて通ることができない。山縣太華は武烈天皇の例を挙げていたし、後白河院も君徳を失った例に数えられていた。松陰も『孔孟余話』のなかで、後白河・後鳥羽両天皇の非を認めていたのである。ではどうするか。
「本邦の帝王或は桀紂の虐あらんとも、億兆の民は唯だ当に首領を並列して、闕にして伏し号哭して、仰いで天子の感悟を祈るべきのみ。不幸にして天子震怒し、尽く誅したまはば、四海の余民、復た孑遺あるなし。而して後神州亡ぶ。若し尚ほ一民の存するものあらば、又闕に詣りて死せんのみ。是れ神州の民なり」(「斉藤生の文を評す」、安政三年)
もし天皇桀紂のような悪虐な振舞いがあったときには、民衆はすべての首を並べて、宮城の前にひれ伏し、泣いて、天皇が誤りを悟るのを祈るだけである。不幸にして天皇が激怒して民衆すべてを誅した場合には、それは神州の亡ぶ時である。もし一人でも生き残りがあれば、また宮城の門の前で死ぬだけである。それが神州の民というものだ。
恐ろしい思想である。私はこの文章を読む度に、尊王などと軽々に言うべきではないとつくづく思う。尊王を主張するなら、ここまでの覚悟が要求されるのである。

この記述を見て、私は漫画家の小林よしのりが、戦後左翼の憲法第九条原理主義的な一切の戦力の不保持を皮肉って、他国が攻めてきたら、戦後左翼はガンジーの無抵抗主義で、何人殺されても、丸裸で敵に向かっていくんだろ、と描いていたのを思い出すが、おそらく、小林は、吉田松陰がこう言っていたことを知らなかったのであろうw
ここの記述はなんのことはない。太平洋戦争そのものではないか。天皇が命令したら、たとえ、ほとんど全員が飢えて死んでも、敵に突撃していく。神風特攻隊になる。まったく兵站という考えのなかった、大本営によって、次々と飢えて殺される。生きて虜囚の恥かしめを受けることなかれと、捕虜になる前に自殺させられる。このどれも、

ではないか。天皇が国民に「死ね」って言ったから、みんな死んだんだ。
そもそも、吉田松陰兵学者である。ずっと武器とか、どこの国の軍隊が一番強いかとか、そんなことばっかり考えていた人なわけでしょう。彼に言わせれば、中国は易姓革命の国「だから」、日本より「弱い」と考えたわけである。なぜなら、日本は上記にあるように、天皇が国民に「死ね」と言われれば死ぬ「名分」があると彼は考えたから。というか、彼はこの延長で、日本は世界中のどこの国よりも強いと考えた。もちろん、今は武力も含めて、体力で世界中の国々を凌駕する水準には至っていないが、条約を結んで、相手を油断させている間に、いずれ、経済力を発展させて、世界中を征服できる体力に至れる。そうなれば、上記の理由から、日本は世界最強なんだから、世界征服も夢ではない。

世界史を振り返ってみれば、どのような侵略のモチーフも、ただたんに軍事的・経済的欲望の発露であることはない。西欧の植民地獲得競争も、「文明化」の理念によって正当化されていた。アジアやアメリカやアフリカの野蛮な土人どもを、西欧の進んだ文明によって向上させてやろうという「高尚な」理念である。
松陰のように潔癖な人格が露骨な侵略思想を語ることができたのも、国体の理念によって侵略の意志が正当化されていたからである。鬼ヶ島に鬼退治に出掛けた桃太郎とおなじ健康さで、松陰はアジアの地図を眺めていた。だからこそ、「神州を興隆し四夷を撻伐するは仁道なり」(『講孟余話』)とまで言うことができたのであった。
九州や東北を遊歴していた時代は、欧米列強に皇国が侵されるという危機意識が、若き兵学者の心を衝きうごかしていた。いわば専守防衛の意識であった。ペリー来航に際会すると攘夷の意識が煮え立ち、敵情を偵察するための「用意」の必要がつよく意識された。その一方で国体の自覚が昂進した。
和親条約がその後イギリス・ロシア・オランダと締結され、当分戦端が開かれる可能性がなくなると、まず国力を充実させ、挙国一致の体制を整え、雄略の時を待つという戦略が選択された。否定的な状況を積極的な機会に転化しようという意図であった。
幽室の孟子講義では、従弟相手の気楽さからか、玉木彦介にこんな怪気炎も吐いていた。ただし駄法螺ではなく、本気である。
「余をして志を得せしめば、朝鮮・支那は勿論、満州蝦夷及び豪斯多辣理(オウストラリ)を定め、其の余は後人に留めて功名の地となさしめんのみ、如何如何と」(『講孟余話』)。
松陰の世界地図はもっぱら侵略用であった。ついにアジアを越えて豪州もその候補になった。それだけではない、幽室想像力が留まるところを知らず、ついに世界制覇にまで謀略をめぐらせた。「余一間の室に幽閉し、日夜五大洲を併呑せんことを謀る」(同)。
その手始めが朝鮮である。たんに隣りにあるからではなく、朝鮮を服属させるのは、天朝を中心とした国体の本来に立ち帰ることを意味したからであった。
三韓任那の諸藩は、地脈接続せずと雖も、而も形勢対峙し、吾れ往かずんば則ち彼て必ず来り、吾れ攻めずんば則ち彼れ必ず襲ひ、将に不測の憂を醸さんとす。是れ合はせざるべからざる者なり」(「外征論」、安政三年)。
このような地政学的な理由から、大和政権は朝鮮を攻めた。それが国体の本来として松陰に認識された。いま一度朝鮮を服属させなければならない。

このように国体論的な大義名分を得て、朝鮮に進出し、やがて世界に版図を広げていこうというのが、松陰の構想であった。古代日本は三韓を服属させていたという日本書紀などから得た知識によって、松陰は名分を獲得した。
たとえそれが歴史的事実であったとしても(現在の知識からすれば事実ではなかったが)、それは「事実」であって、すぐさま行動の理由にはなり得ない。だが松陰はその事実を名分にした。詭弁を弄したのではない、そう頭から信じたのであった。初めに名分ありき。松陰の雄略思想は大回転を始める。

私たちは、そうは言っても、吉田松陰にも一部の理があるんじゃないのか、と考える。それは、実際に欧米列強による「植民地主義」が、東南アジア、東アジアにおいて迫ってきていたのだから、それへの

  • 対抗措置

はそれなりに過激になるんじゃないのか、というわけである。しかし、ここで私たちがこだわっているのは、そこにおける「差異」なわけである。この差異が、そうやって「一般論」によって無視できるような範囲のことではないんじゃないのか、と考える。それは、ポツダム宣言で無条件降伏を受け入れ、戦後のGHQによる占領国家となるに至るまで、なぜ、ここまでボロボロになるまで、戦争の継続をさせられることになったのか。なぜ、現地の「歓迎ムード」も期待できないような、かなり強引な植民地拡大路線を進めてしまったのか。こういった「強引」な侵略政策をなぜ採用することになったのか、なぜ、こういった強引な政策が、いずれ、限界に付き合たると考えられなかったのか。こういった指導層の

  • 愚かさ

の原因に、どうしても吉田松陰の「狂気」を読み込まずにはいられないわけである。
吉田松陰は上記の引用にもあるように「世界征服」を考えていた。

  • 本気で世界征服をしようとしていた

わけである。これは「厨二病」であろうか? 日本は確かに、欧米列強の黒船到来によって、さまざまな不平等条約を押し付けられようという、かなり厳しい状況に直面していた。しかし、ここで大事なことは、欧米列強の「植民地主義」と、松陰の考える

  • 日本独自の名分

である、四夷への侵略との「差異」なのである。日本が直面していた危機は、欧米列強による「植民地主義」であった。しかし、それを松陰は「勘違い」していたのではないか。つまり、どういうことか。
松陰が考えていた「侵略戦争」は、日本という国独自の「名分」がその「正統性」を与える侵略である。それは、日本書紀にあるような、「神話」時代の、

  • 日本は韓国を「支配」していた

ということから導かれる「正統性」に関係している(もちろん、その延長に朝鮮半島を越えた世界侵略の「正統性」も、言わば、このアナロジーで考えることができる、というわけである)。つまり、昔、朝鮮半島は日本の占領地だったんだから(あくまで、神話の中の夢物語に過ぎず史実でないわけだが)、今、もう一度、その

  • 正統なる支配

を再現する(「名分」を立てる)というわけである。つまり、ここで松陰が言う「侵略」は、いわゆる、欧米列強が世界の国々で行っていたような、

による、東インド会社的な企業利益に従属したようなものではなく、松陰が独自の解釈によって考える、「日本独自の名分(=儒教的正統性)」によって与えられる、

  • 侵略の正統性

に関係していたのであって、それを「(欧米的)植民地」と呼ぶには、それ以上の、なんらかの「暴力」的なものへの正統性(野蛮であることへの無関心さ)を内包したものだったわけで、より「危険」なものだったと解釈せざるをえない代物だった、というわけなのである(つまり、生きて虜囚の恥かしめを受けずとかも同じであるが、日本は自分たちが他のアジアの人たちを非人道的に扱うことを、「当たり前」のように思っているから、きっと、欧米列強もそうして来るという前提で考えている。つまり、捕虜を人道的に扱うという「慣習」を、日本の文化として「内部」に見出せない。そういう、自分たちが野蛮「だから」きっと、相手もそうだ、という延長でしか考えられないから、なにもかもをまるで最終戦争であるかのように、考えずにいられない)。
上記の議論から分かるように、松陰の「ロジック」には、どこかしら彼自身でも気付いているように、彼が自分で自分を信じさせているような、もはやそう呼ばずには説明のできないような「欺瞞」がある。
吉田松陰の「心理学」的な分析として、どのようなことが言えるだろうか。彼はまず、武士の家に育ち、兵学者になるための、エリート教育を幼ない頃から、長州藩から受けていた。そこから、彼には、

  • 武士の使命

のような観念がある。常に、武士にはその「存在意義」がなければならない。私たちの今の視点では、不要になったのなら、たんに亡びればいいんじゃないのか、と思うわけが、彼はそう考えなかった。武士は常に存在意義がなければならない。「ただ飯」を毎日喰っているような存在であってはならない(それくらいの方が、社会にバッファーがあって、健全だと思うのだが)。武士が存在しているということは、なにかしら「使命」があって、それを行え、と天が命令しているということなのだ、と考える。
つまり、どういうことか? 武士は、とにかく、彼らに「暇」を与えると、必ず余計なことを考え始める、ということである(それは、今の国家官僚が、仕事がなくなって暇になると、必ず、法律のどこかをいじって、

  • 国政改革

だとか

  • 地方改革

だとか、なんだかんだで法律をいじりたがるのと同じだ、ということである)。そういう意味で、「武士」にしてみれば、そもそもこの世界は、なんらかの武士の目の前に「試練」を与えていなければおかしい、ということになるわけである。
つまり、今、自分という「武士」がこの世界に<存在>するということが、つまりは、今日本は

  • 危機

なんだ、ということを「証明する」というわけであるw 今、この世紀末、なんらかの「ハルマゲドン」が迫っている。しかし、国民のだれも気付いていない。だったら、自分がこの世界を変えるしかない。つまり

  • テロ

である。

しかしいまにも出撃できる体制を整えた松陰の村塾と、密勅をめぐる対応の検討に時間のかかる藩府とのあいだに、次第に溝が出来つつあった。焦った松陰は、九月九日に江戸にいる門下の松浦松洞に手紙を送り、最初のテロ計画を示唆した。
紀州藩付家老(幕府から派遣された家老)の水野忠央暗殺の計画である。当時松陰は、この水野が堀田正睦松平忠固に違勅調印をやらせ、形勢が悪くなると二人を罷免、間部を出して天朝を脅しつけ、さらに井伊をも裏で操っている黒幕と睨んでいた。
したがって狙いは水野一人。殿中で斬り捨てるのが上策、屋敷を襲うのが中策とされた。

この水野黒幕説は早とちりであったことはのちに判明するが、それくらいなにかに踏み切らずにはおれない心境であった。松陰の実践計画にテロルという手段が浮かび上がってきた。
この計画は松洞が乗らなかったため不発に終わった。

以後松陰は矢継ぎ早に過激行動計画を繰り出し、それに付いていけない門下生たちとのあいだに、次第に亀裂を深めていった。

こうやって見ると、吉田松陰と、オウム真理教の麻原は似ている。麻原は、世紀末のハルマゲドンにおいて、自らの部下に命令して、坂本弁護士を殺害したり、地下鉄にサリンをばらまいたりした。他方、吉田松陰も、松下村塾の塾生に「命令」して、江戸幕府政府の要人を次々と殺すように

  • ポアしろ

と命令した。自分が手を汚さず、である。あいつは君側の奸だから殺せ。まさに、2・26事件そのものである。松陰はそんなことばかり繰り返していた。そして「あれ?」「あれ?」とか言っている間に、塾生は回りから離れて行き、彼も江戸幕府に犯罪者の嫌疑をかけられ、江戸の独房に入れられる。
自分たちエリートが社会のお荷物なわけがない。ということは、自分たちにはなんらかの「使命」が天から与えられているに決まっている。そう思って、今の政治情勢を見ると、日本は西欧列強に開国を迫られていて「危機」だ、ということになる。この日本のピンチを救えるのは、自分しかいない。今、この社会のピンチに、いち早く気付くことのできている自分が、世間の無理解をごり押ししてでも、大義を果さなければならない。
今、世界中はISの猛威に対して、これをどう考えたらいいのか、と悩んでいる。もちろん、こういった過激な暴力集団は、ボコ・ハラムなど、辺境の無法地帯においては、少なからず存在した。しかし、ここで問題としているのは、その勢力の拡大を防げていない、というところにある。
例えばこのことを、中国の言論統制的な社会秩序で考えてみてもいい。おそらく、中国であれば(今の中国でさえ、このSNSの時代にあっても、言論統制が激しく行われていることからも分かるように)、吉田松陰のような人物は「危険人物」として、非常に早い段階で国家の管理下に置かれた(当然、言論の自由を奪われた)、または、面倒になり、さっさと死刑にした、ということなのではないか。
それが、なぜ行われなかったのか。
結局、貴族制がなぜ、世界の政治制度において衰退してきたのかを一言で言うなら、貴族がもしも

  • 逆賊

になった場合に、その役割を代わりうるテクノクラートを調達できなくなる、という欠点があったから、ということではないか、と思っている。
ようするに、貴族制は、根本的に、慢性的な「人材不足」に悩まされることが必定なのだ。
非常に不思議なのは、吉田松陰はあれほど、江戸幕府転覆をたくらむような、それどころか、朝廷さえこの国の命運に邪魔するなら、功利的に打算的に扱っていいとも読めるようなことを言っておきながら、そういった手紙なり文章なりが、発禁処分がされることもなく、普通に流布していたことではないのか。
吉田松陰は、死ぬ直前、江戸幕府にとらえられ、その最初の尋問の最中に、自分から、自分がテロ計画の首謀者であることをばらすことで、それが直接の原因となって、死刑が実行されている。
そこで私は、はた、と疑ったわけである。
もしもこれが、吉田松陰の「策略」だと考えたなら。もちろん、彼が「誠」の人なら、そんな策略じみたことはしないであろう。しかし、彼は「兵学者」である。戦争とは、人と人とのだまし合いである。相手をだますことができたから、相手の大量の戦力を破壊することができるのであって、彼を「誠」の人と考えるのは、あまりにナイーブすぎる。
吉田松陰は、自らが計画したテロリズムに、多くの塾生が距離を置き始めていることに不満を覚えるようになった(それは、オウムの麻原が信者たちに覚えた何かだったのかもしれない)。彼は今さら自分を避けようとする「良い子ちゃん」たちが許せなかった。彼が「ポアしろ」と命令しているのに、それを実行しようとしない「弟子」たちがにくにくしかった。
そこで、である。
彼は考えたわけである。つまり、自分を仲間外れにして、自分だけをスケープゴートにして、自分たちだけで安穏を余生を過そうとしている弟子たちが許せなかった。そこで、最高の復讐を考えた。自分がテロの首謀者であることを、幕府に自白することで、自分に関わった全ての人へ

  • 復讐

を行うことを。自分がテロリストということは、自分に関わった全ての人は、テロリストの「関係者」として、テロリストの疑いがかかる。ということは、どっちにしろ、そういった危険人物を野放しにしておけない、ということなのだから、いずれ政府は自分たちの手足を縛るような行動にでてくる。
だったら、
自分たちは、反政府軍として、やっていくしかない。つまり、弟子たちの退路を絶ったわけである。
もしも、弟子の将来に対して、少しでも思いやりがあったなら、松陰は最後まで口を閉ざして、全ての秘密をあの世までもって行ったであろう。しかし、彼はそうしなかった。つまり、彼は彼なりのやり方で、自分を避けて安穏とした将来を過そうとしていた弟子たちを、自らが構想する侵略戦争スキームに突き進むしか「選択肢がない」ところまで追い込んだ。
松陰が多くの言葉を残したということは、松陰は自分の信者たちに、

  • これから何をしなければならないか

を残した、ということである。なぜ松陰の弟子たちは、この松陰の「未来計画」に従わざるをえなかったのか。それは、松陰が自ら幕府に自分がテロリスト宗教教団の教祖であると密告したことで、彼自身が、キリストの十字架となったことで、回りは、

  • 吉田松陰教の信者さんたちは、どうせ教祖の命令に従うのだろう

と「期待=予測」の目で見られることになったから、どうしても「それ以外」の道を選ぶことがやりづらくなってしまった(教祖の命に背く行動ができなくなる)、というわけである...。

吉田松陰 (言視舎 評伝選)

吉田松陰 (言視舎 評伝選)