山形石雄『六花の勇者』

私たちは、性善説性悪説の違いを、なにか「文学」における

  • リアリティ

の問題だと勘違いしているふしがある。つまり、性善説的文学は勧善懲悪で「価値が低い」となり、性悪説的文学は「現実のリアルをより正確に記述している」ということで「価値が高い」というわけである。
しかし、そういうことではないわけである。
社会学者のルーマンが言ったように、社会が「縮減」によって、制御可能な様相を呈すのは、人々の間に

  • 信頼

があるからと言ったように、「性善説」的な外挿は、社会的な

  • コスト

を外在的に削減可能にする条件だったわけであろう。

もともと統治システムの中には内閣が独走できないように、いろいろな統制と監督の仕掛けが内蔵されているわけですね。ところが、安倍政権は、政権にとって歯止めをかける対抗的な役割を果たしかねない要所要所に、ことごとく「お友達」を送り込んで、対抗勢力の芽を摘んでいく----、そういう手段を駆使していると思います。故・小松内閣法制局長官の人事がそうでしたし、日銀総裁、NHK会長もそうです。
石川健治集団的自衛権というホトトギスの卵」)

世界 2015年 08 月号 [雑誌]

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言うまでもなく、今回の安倍政権になっての内閣法制局長官人事、NHK会長人事は、別に、法律違反を行ってのものではない。しかし、今までの自民党政権は、こういった「野蛮」なことは行わなかった。なぜなら、行ってしまったら、内閣法制局憲法監視の機能や、NHKの報道による政府の監視機能が十全に機能しなくなることは自明だから、であろう。つまり、こんなあからさまな「社会的機能の健全化装置」をわざわざ明示的に破壊するようなことは、頭がおかしい為政者でもない限り、やるはずがなかったわけである。
ところが、安倍政権は行った。ということは、今後、今の

  • 法律のまま

では、こういった政権のチェック機能を健全に維持するための法的な担保が、働かない、ということを実証してしまった。
ということは、どういうことか? つまり、ここで

  • 国会

の作業が生まれた、ということを意味するわけである。今まで、なぜ内閣法制局長官人事や、NHK会長人事が政権から独立性を保っていた、どんな政権も、「法的に規制されていなかったのにもかかわらず」この人事に介入しなかったのは、そんなことをやったら、自政権の健全性を自ら放棄していると世間から解釈されるため、世間から、わざわざ

  • 自分たちは危険な人たちで〜す

と暴露しているのと変わらないから、恥かしくてできなかったわけである。ところが、安倍政権はそれを恥かしげもなくやった。ということは、今後は、こういった

  • 馬鹿な人たち

が現れて政権を奪われた場合を想定して、今後、絶対にこういうことが起きないようにと、法律で厳重にチェックするように、そういった行為を禁止する法律を作らなければならなくなった。
(言うまでもないが、日銀総裁の人事も、まったくこれと同じと言わざるをえない。一部でリフレ政策は正しいのだから、安倍政権の今回の「クーデター」は英断だとか言っている愚か者がいるが、もしも日銀の政府からの独立性が重要だと考えるなら、どうして、日銀総裁に対してだけは「英断」などということになろうか。リフレ派は、日銀コミュニティを今まで

  • 説得

できてこなかった。その自分たちの「力不足」を呪うべきであって、「場合によってはクーデターもありだ」となるわけもないわけである。)
例えば、今回の新国立競技場のゼロベースでの見直しにしても、「走り出したら止まらない」が止まったから、あっぱっれじゃなくて、文部科学省やJSCといった「当事者」たちが、どのような意志決定過程において、手続き的な行為の遂行最中であろうが、

  • 安倍首相が「やる」と言ったら「やる」し、「やめる」と言ったら「やめる」

という完全なる「トップダウン」の意志決定過程が、今回においても、まったく変わっていない、ということは自明なわけであろう。
つまり、なぜ、安保法制が廃案にならないのかは、「安倍さんが止めると言わないから、続いている」ということに過ぎない。99・9%の憲法学者が「違憲」と言っても、この法律が今、成立しようとしているのは、「安倍さんが<やる>と言っている」からにすぎない。そういう意味で、まったく、本質は変わっていないわけである。
こういう安倍総理のような「国家の憲法を破壊する」ことをなんとも思わないような人が、総理大臣に

  • もしもなることがありうる

と考えるなら、今後、国会は

  • こういった人が総理大臣になっても「大丈夫」なような、チェック機能が働く法律の制定が必要とされている

ということになる。つまり、こういった「性悪説」的総理大臣の登場によって、国家は

  • 不要なコスト

を払わなければならないことが認識される。なにをやるにも「こいつは性悪説的な悪人なんじゃないのか」と疑って、そのチェックを合格したかどうかを確認しなければならなくなる。つまり、それだけ社会は

  • 多くの確認作業に多くの労力と時間をかけなければならなくなる

わけである。つまりは、「国家の亡びの始まり」というわけである。
掲題のラノベは、今、アニメが放送されているが(私はまだ、原作の一巻しか読んでいないが)、非常に重要な場面として、今アニメで放送されている、主人公のアドレットと、フレミーとの出会いの場面だと思うわけである。
というのは、この場面の前までアドレットは、同い年の姫君のナッシュタニアと、いい感じの二人きりの旅の途中であったと記述されていながら、ここで、始めて会ったフレミー

  • 恋愛感情

が生まれた、という描写が求められているから、なのである。このフレミーという、自分が生き続けるという希望を失っている女の子に対して、徹底してアドレットを「信用しようとしない」彼女に対して、徹底して自分を嫌い続ける彼女に対して、なぜ恋愛感情を抱き続けられるのか、なぜ

  • ナッシュタニアではなくフレミーなのか

を説得的に描かなければならない。そういう意味で、このアドレットとフレミーの出会いの場面の描写は非常に重要なわけである。

「あいにくだけど、あなたが私を守るなんて不可能よ。私はどうせ、魔神を倒したら死ぬ」
「なぜ!」
「魔神を倒したあと、私はどこで生きればいい? 凶魔のところには帰れない人間の世界に住む場所はない。死ぬしかないのよ。魔神と相討ちになるのが、私の理想よ」
「......それはだめだ」
アドレットは首を横に振る。
「今は復讐が全てかもしれない。だけどそれは今だけだ。復讐が終わったら、次の人生を始めなきゃいけない」
「そんなものは私にはない。人間は決して私を受け入れない。凶魔の娘で六花殺しの私を受け入れることはない」
「心配するな。俺が何とかしてやるよ」
「......何を言っているの?」
「世界は広いんだ。お前一人を受け入れる場所ぐらい作れるさ」
「馬鹿なことを言わないで。できるわけがない」
「馬鹿なことを言ってるのはそっちだぜ。俺を誰だと思ってる。地上最強の男アドレットだ。お前の居場所一つ作れねえなんて、あるわけがねえだろう」

レミーはこのように人間を信じないし、社会を信じない。つまり、「性悪説」的な作法を生きている。そういう意味で、フレミーは「トラブルメーカー」と言っていい。彼女が近くにいることによって、さまざまな手続きのリスクは高くなる。いつ裏切られるか、その困難さは、彼女が近くにいないことに比べて、はるかに高い。
しかし、アドレットは、たとえそうであっても、彼女と行動を共にすることを選ぶ。それは、次の二つの差異に関係している。

  • 他人が信用できない ... 存在論
  • 「他人が信用できない」と言う ... 行為論

前者は、本当の意味での「性悪説」である。つまり、そういう「状態」だという意味で(実際に、なんの悪気も感じることなく、内閣法制局長官人事権や、NHK会長人事権を破壊した安倍総理のように)、一種の「状態=存在」のレベルで、そうであることである。
他方後者は、「他人が信用できない」と言うという「行為」をしていることを意味しているにすぎない。つまり、パフォーマティブなのだ。行為として、そう言っているということが、実際に本人がそうであることを必ずしも担保しない。そう言うということは、なんらかの

  • メッセージ

を聞いている相手に送っていることを意味している。つまり、それを聞いている人に、「それ」を聞いてもらうことに<意味>があると、まだ、かろうじて考えている。つまり、彼女はまだ、生きることを

  • あきらめていない

のだ。

「......なあ、フレミー。俺のこと好きか」
マントの中を探る手が止まった。フレミーはアドレットを見つめて言った。
「嫌いよ」
レミーは目をそらしながら言った。だがそれは、悪い響きではなかった。
「なんでさ」
「あなたといると、生きたくなる」
アドレットはその言葉を聞いて微笑んだ。

アドレットにしてみれば、自分が彼女を好きかどうかは、たいした問題ではない。それは、彼女が自分を嫌いかどうかも同じだと言える。彼にとって重要なのは、彼女が「生きたくなる」ことだと言える。つまり、彼女が「結果」として、彼との共同行動において、性善説的行動をしてもらえると確信できることが、今後のさまざまなコストを削減する。
そういう意味で、信頼のない共同行動は、無際限のチェック作業を必要とするという意味で、事実上、不可能なのだ(早晩、安倍政権は終焉を迎えることを予言しておこう...)。

六花の勇者 (六花の勇者シリーズ) (集英社スーパーダッシュ文庫)

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