「終わり」というイデオロギー

一般に、ヘーゲルというのはカントの後に現れた哲学者として「カントを超えた」業績を残した人といった解釈をされる。つまり、ヘーゲルはカントの上を行っているのだから、カントなんて読む必要がない。ヘーゲルさえ理解すれば、歴史の最先端に行ける、みたいな話である。
しかし、そのように言われると、そもそもヘーゲルの何が新しいのだろうか、という疑問がわいてくる。というのは、むしろヘーゲルは、カントの「革新=左翼」に対して、「保守反動=右翼」を当て付けた

運動と受けとれないのか、という疑問があるからである。例えば、実践理性批判において「自由」の問題が語られるが、その場合、その自由とは「すべての人々に担保されなければならない」なんらかの、リベラリズム的な命法という形で呈示されているわけで、どこか理念的というか、理想主義的な色彩をもっている。
もちろん、多くの人が言っているように、ヘーゲル市民社会の自由の問題を考えたということが間違っていると言いたいわけではない。しかし、そうした場合に、ここで言うヘーゲルの「市民社会自由論」は、どこまでヘーゲルの主張の核心なのか、もっと言えば、それは

  • 新しいのか(=彼が生み出したと言えるようなものなのか)

というふうに考えたとき、どうも彼の主張の重点は違うのではないか、という印象がぬぐえない。
ヘーゲルはカントの何に不満だったのか。それをここでは、彼の有名な命題

  • 現実的であることは合理的である

に見出すことはどこまで整合的か、といった方向で考えてみよう。言うまでもなく、こういった主張はまったく、ヘーゲルの独自なものではない。昔から、こういった主張はむしろ、哲学の主流だったと言ってもいい。もっと言えば、これはキリスト教神学のドグマだとも考えられる。
笑っちゃう話であるが、新国立競技場のキールアーチを含めた今の設計が膨大な金額にふくれあがっていることも、安倍政権による今の安保法制の強行採決にしても、

  • 社会学者が、それが進められる「現実」に対して、「分析」的にその「理由」を探せば

いくらでも「護教論的」な「言い訳」って

  • 見つかる

わけである。これが「現実的であることは合理的である」という意味なわけである。どんな独裁政権も、必ず、それを「御用学者的に擁護しよう」とする議論が現れる。つまり、全部

  • しょうがない

になるわけであるw
しかし、これを逆説的に言うなら、それが「神学」だと言うこともできるわけである。神を信じている限り、どんな現実だって、それは「神のおぼしめし」なのであって、なんらかの神がそうせざるをえなかった理由があるということになるのであって、よって

  • しょうがない

というわけである。しかし、どうであろうか。もしも、今から、新国立競技場の建設が、世論の強力な反対を受けて、自民党が引っ込めたら、これが「現実」だと、たかをくくっていた御用連中が、梯子を外されて、醜い醜態をさらすことになるであろう。
ヘーゲル哲学は「現実的であることは合理的である」という「現実法則」という保守思想を全面に出す、古典的な哲学のスタイルだと言えるであろう。しかし、これを突き詰めて行った先には何があるのであろうか。それが

  • 終わり

の思想である。終わり(end)というのは、英語を考えれば分かるように「目的」と同じ意味になる。つまり、ヘーゲル哲学は現実の中に、「合理」性を発見し、「のがれられない運命」をそこに見出す。未来は今を変えることによって作るものではなく、今の「現実=合理性」が、より強化され、白日の下にさらされるという意味であり、リチャード・ローテイが言ったように、その「現実」を発見するのは、一部の

  • 天才

によって、まさに神の啓示と同じように、大衆に示される。よって、その天才の啓示は、大衆には理解されない。しかし、ヘーゲル哲学にとっては、どんなに低知能の大衆がたくさんいても、その「価値」において、一人の天才とは比べものにならない、ということになる。
安倍政権による安保法制であってもそうで、きっとそこには、なにか「秘密」があるに違いないと考えて、非合理な安倍政権を擁護することが「天才」の神の啓示ということになる、とヘーゲルに言わせればなる、というわけであるw
しかし、言うまでもなく、この安保法制なるもの。たとえ、自民党が今の与党の多数を使って通したとしても、次の選挙、さらに次の選挙で、野党による暫定政権を結成することで、自民党を少数政党に落とすまで、徹底的に叩きのめす結果になれば、当然、その野党連合が第一に行う政策は、この憲法違反法の「破棄」ということになるわけで、まあ、政治的コストは大きいということになるとしても、こういった自民党という馬鹿な人たちに政治を任せた日本人が馬鹿だったとあきらめるしかないとしても、いずれにしろ、なにも

  • 終わっていなかった

ということで、なにかが終わったとか、それが現実で避けられないとか、こういう保守思想家たちの、こういうことを言うことで、隠微にどういったステマ的効果を狙っている連中なのかが怪しい、というわけであるw いずれにしろ、こうやって、未来においてはこの憲法違反法は破棄されるわけであるから、ヘーゲルが何を言おうが、ローティが何を言おうが、まあ、「現実=合理的」といったような神学的説教を鼻で嗤ったのが、カント哲学だった、ということになるのであろう。
対してカントにおける「大衆政治」においてどうなるかと考えると、まさに、晩年のハンナ・アーレントが分析したような、まったくもって、現代の大衆民主主義の基本形態になる、というわけであるが、ようするに、ヘーゲルはこういったリベラル思想が気に入らなかった、ということになるのかもしれないが、あまり素人の床屋談義で決めつけてもどうかとは思うので、この辺りで...。