石川健治「集団的自衛権というホトトギスの卵」

今回の安保法制が「合憲」と言って、官房長官が挙げた三人が、三人とも「徴兵制は合憲」と以前から持論にしている人であったことは、多くの人に

  • あ...(察し

となったわけであるw そこから、一気に、

  • 徴兵制問題

がクローズアップされるようになった。政府が「徴兵制は現政権は違憲と考えているし、徴兵制を目指しているなんてデマだ」と言えば言うほど、その言外のメッセージは「徴兵制のなにが悪いのか」といった内容を人々に強く感じさせることになり、そもそも今回の法改正の「意図」が疑われている。
もし政権が、自分たちの今回の法律改正が、将来の徴兵制を意図したものではない、と言いたかったなら、三人ともが徴兵制合憲論者の名前を挙げること自体がナンセンスであろう(しかも、三人が三人、日本会議という自分の身内というのが、どうしようもないが orz)。自分でそういった「疑われてもしょうがない」行為をして文句を言われたらブチ切れるって、意味不明ということなわけである。
今の安倍政権が徴兵制を悪いと思っているわけがない。彼らが言っているのは、それが「憲法違反だから」と言うわけだがw 今回の法改正が憲法学者の99・9%に憲法違反と言われていながら、安倍政権は「憲法違反じゃない」と言っているわけで、ようするに、あなたたちは憲法を守るつもりはないってことが、これだけ国民に知られまくっている中で、「憲法違反だから」とはよく言えたものだ、と感心するわけである(やる気があるなら、今回の法改正の内容を、日本のほとんどの人たちが納得する憲法学者を交えて、だれもが納得するような合意内容に至るところまで話をつめてからにしてもらえませんですかね。こんな暴論を国民に問う以前の状態でしょう。なんで分からないかな)。
おりしも、選挙権が二十歳から十八歳に下げられ、この問題はそういった若者の「権利」に直結する、非常に重大なアジェンダとしてせりあがってきている。言うまでもなく、戦場に行くのは

  • 若者

である。国会の中でくだをまいている、年寄たちは戦場に行かない。つまり、彼らには「関係ない」わけである。これは、若者たち自身の問題であって、彼らが選ばなければならない。
よく民主主義のパラドックスということが言われる。大衆は「それ」が「何」かを知らない。知らないのに選べるわけがない。ゆえに、民主主義は間違っている、というあれである。しかし、そんなのことを言うなら、陪審制も間違っているわけで、なんで陪審制にしたがるのか、というわけであろう。
おもしろいのは、こういった「概念」的な機能主義は、そもそもとしての

  • 事実性

をまったく理解していない。言うまでもなく、民主主義は今、「採用されている」政治制度である。それが間違っていようが、間違っていなかろうが、実際にこのシステムは

  • 動いてしまっている

わけである。たとえ民主主義が間違っていようと、今の私たちが民主主義を採用している限り、それを「生きる」しかない。民主主義を「やる気がない」なら勝手にそうだと言っていればいいのであって、それと人々が民主主義を生きることとはなんの関係もないわけである。
おそらく、今回の法改正にともなって、多くの十八歳の子どもたちは、自分たちで今回の法改正に関する

  • 学習会

を各地で開いていくことになるであろう。それは、各地でのデモやストライキが行われるのと、平行して進むことになる。民主主義のパラドックスがなんだろうと、大衆が知らないとか余計なお世話なわけである。大衆は知らない。知らないのに、選択して、なにが悪いんだろうねw 悪いと言うんだったら、知らなければ、投票できないシステムにしてみろっていうんだよ。やりもしないで、他人の行為を嘲笑するって、なんなんだろうねw
私たちは今、民主主義を生きている。それを侮辱したいならすればいい。しかし、そういったお前の行為も、この民主主義の世界が担保しているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
言うまでもなく、徴兵制は今、直近で迫っている若者たちの問題である。その利害当事者の若者がこの問題を考えないと思う方がどうかしている。民主主義のパラドックスを盾にして、衆愚政治を嘲笑して、エリート独裁を礼賛している連中に、若者の当事者性を理解できるわけがない。

集団的自衛権は、特定の仮想敵を念頭に置いて同盟を組み、その抑止力によって戦争を防ぐ、かつての同盟政策の末裔です。同盟政策は、もちろん一定程度は有効に機能し、第一次大戦前には、比較的長期の平和をヨーロッパにもたらしました。ドイツの場合なら、普仏戦争(一八七〇 ~ 七一)以来、戦争は止まっていました。同盟政策とその抑止力が機能したのです。しかし、常に仮想敵を想定する同盟政策は、戦争に至る敵対関係を潜在的に抱え込んでおり、結局は第一次世界大戦という未曾有の惨禍を引き起こしてしまったのです。
その反省から生まれたのが、安全保障という考え方です。同盟政策と安全保障政策とでは、規範論理的な構造が全く違います。簡単に言えば、敵を想定するかしないかの問題です。敵を想定しない安全保障政策にとって、理想は国際連盟にみられるような集団安全保障体制ですが、二国間の安全保障条約もあり得ます。もっとも、国家に個別的自衛権があることは、否定されません。想定外の侵入者に対する自衛行為は、仮想敵との敵対関係とは次元を異にしているからです。
日本国憲法が想定するのは、安全保障、それも集団安全保障の体制でしょう。それは憲法前文や九条を見ても明らかです。集団安全保障は、特定の仮想敵をつくらないで安全保障の体系をつくり、乱す者がいたら全員でそれをつぶすという考え方です。これは、第一次世界大戦前の日英同盟国際連盟脱退後の日独伊三国同盟にみられたような、同盟政策の排除を意味しています。
この点、そもそも国際連合自体が、戦争中の「連合国」の末裔としての正確を残していることは、旧敵国条項の存在が雄弁に示しています。他方でサンフランシスコ会議以前に成立していた、米州の同盟条約を温存するために、主として米州サイドの働きかけで国連憲章五一条の起草過程で挿入されたのが、集団的自衛権でした。同盟政策の末裔であり、蓬莱の(個別的)自衛権とは論理構造を全く異にする異物です。
したがって、同じ国連憲章五一条でともに固有の自衛権と規定されているからといって、両者を同根であるかのように説明するのはフェアえはありません。敵を想定しない個別的自衛を理由に、専守防衛という例外領域を、九条二項の戦力不保持原則のもとで認めるのであれば、意見は分かれるでしょうが論理的には可能です。しかし、同盟政策としての集団的自衛権の容認に踏み切ることは、九条の前提にある安全保障の考え方と正面から衝突し、その論理的矛盾は一見極めて明白です。
この点、日米間の安全保障条約を結んだ当初は、あくまで二国間の安全保障を考えていました。しかし、二国間の安全保障は容易に同盟に転化しうる性質があることは、早くから指摘されていたところです。実際、日米安保条約も次第に同盟に転化していったのは、紛れもない事実。でもそれが、同盟条約ではなく「安全保障」条約であることの最後の一線は、日本側が集団的自衛権を行使しないという選択に示されていました。首の皮一枚であれ、九条につながっていたわけです。
これに対して、昨年七月一日の閣議決定は、それを完全に同盟政策に切り替える、ということを意味していました。日米同盟の抑止力で、中国や北朝鮮に戦争を思いとどまらせるということですから、「首の皮一枚」は切れ、日英同盟や日独伊三国同盟の頃の考え方に戻ったということになります。だからこれは、法学的な意味でのクーデター、法の破砕といえるのです。

カール・シュミットは、戦前のナチス時代に有名な政治の定義として、敵と味方のカテゴリー分類を提唱したが、これは上記の文脈においては「同盟」概念を想定している。しかし、彼は晩年、この同盟の問題から、上記にあるような、

  • 安全保障

のような、リージョナルな安全圏の構想に自身の関心の焦点を移していく。ところが、多くの識者はなぜか、ナチス時代のシュミットには言及するのに、晩年のシュミットには関心を示そうとしない。
最近でも、アメリカでのゲーテッド・コミュニティを、「棲み分け理論」だとか言って、東京の高級住宅街や日本や韓国や中国といった「棲み分け」とのアナロジーで、ゲーテッド・コミュニティをまるで「理想」の姿のように描いていた人たちがいたけど、明らかにこういった考えは「同盟」とか「敵味方」のアナロジーなわけでしょう。つまり、

  • 安全保障

のようなアイデアへの理解が足りない。そもそも、今の日本の憲法がこういった「安全保障」の考えをベースにして作られている、ということをどれだけの人たちが理解しているのであろうか。この憲法の基本理念に対する、真っ向からの

  • 対決

が今回の法改正であり、言わば「憲法 vs 安保法制」のガチンコの勝負になっていることを、どれだけの人が理解しているのであろうか。これからは、「憲法」を憲法にするのか、「安保法制」を<憲法>にするのかの二択を迫られている、ということに、どれだけの人が気付いているのであろうか...。

世界 2015年 08 月号 [雑誌]

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