概念の帝国

アニメ「バケモノの子」は、映画としての興業的には宮崎アニメを継承するような、大成功と言えるのだろうが、作品の評価としては、多くの人が指摘しているように、監督の「エンターテイメント」性としての<分かりやすさ>志向の意図ばかりがめだち、正直、食傷ぎみといったところであろうか。

信用されてないのは、僕ら観客もそう。冒頭にナレーションでバケモノ界と人間界の関係、熊徹が弟子を取らないと宗師の後継者になれない事情まで、セリフで一から十まで説明ばっちり。熊徹が慣れない子供に戸惑ってること、弟子から学びつつあること、九太が人間的に成長したことも百秋坊や多々良が口に出します
そんなのは画面を見れば分かります。作り込まれた絵や実力ある声優・俳優の演技からしっかりと。なのになぜ、「言わないと分からない」表現力不足の作品と同じ振る舞いを?
「バケモノの子」細田守監督は、そんなに観客の理解力が信用できないんでしょうか - エキレビ!(2/3)

数学における集合論において、よく「外延」的と「内包」的という言葉が使われる。外延的とは、その集合の要素を一つ一つ例示していく記述方法で、対して、内包的とは、その要素に何が入るのかを例示しない代わりに、「文章」で必要十分に「定義」する場合を言う。たとえば、

  • 日本人={山田太郎山田花子、...} ... 外延的
  • 日本人={a; a は日本国の国籍をもつ} ... 内包的

といったように。この二つを比べたとき、問題は後者であることが分かる。つまり、内包的=概念的ということは、問題はその「定義」が十全に記述可能なのか、ということろにある。つまり、ここで一度、たちどまって考えてほしいわけである。
外延的とはなんだろうか。この場合、その要素は常に「指示」されている。つまり、これは一種の「固有名」となっているわけである。他方、内包的の方は、その「指示」性がはっきりしない。むしろ、その「概念」が、

  • 状況=世代論

によって、その概念に「言及する人のパフォーマンス」によって、ぐだぐだに意味がゲシュタルト崩壊してしまう。その概念を「発言」する人の、その時々のステマ的な野望が、常に、その概念の指示性を左右してしまうために...、まあ、簡単に言ってしまえば、日和見的に意味が変わってしまう。
これは、一種の「神学」だと考えてもいい。概念は「神」と似ていて、常に、教祖が「そうだ」と言うものが神だという定義しかなく、昨日は教祖は「これが神だ」と言っていたと思ったら、今日はどうも気分が変わったらしく、別のものを「これが神だ」と言い始めた、みたいなことである。
もちろん、後者にも、なんらかの「リアリティ」はある。しかし、そのコンテクストにどこまで、人々はコミットメントしなければならないのだろうか?
私はマルクスの言う「唯物論」というのも、こういった意味で考えている。「唯物論」とは、一種の「指示性をもたない概念を懐疑する」という倫理的態度を言っているのであって、最終的に「固有名」的な指示性をもたない、どうしても恣意性をまぬがれない概念的な記述を疑う、ということなのではないか。
アニメ「バケモノの子」を見ていると、とにかく、次から次へと、九太の「父親」があらわれて

  • 今、九太は「なんとか=概念」だ

といった「説明」が繰り返される。すると、これを見ている世の「父親」たちは、

  • 安心

するわけである。なぜなら、今の子どもの「状態」がそれによって、必要十分に「定義」されているから。親が不安なのは、子どもが「今、何になっているのかが分からない」ことだということになる。
しかし、そうであろうか?
世の父親が子どもを分からないのは、その子どもの「何か」を<指示>できるほど、実際に「見ていない」からではないのか? いつも会社にいて、子どもが学校で友達と「具体的」に何を話しているのかを知らない。いつも部屋でなにをしているのかを知らない。そもそも、知らないのに、「今、うちの子は<何>だ」と言えることの方が、どうかしていないか?
作品の最後の方になると、この九太も思春期を迎えて、彼を

  • 理解

するヒロインがあらわれるが、これがまた、

  • なんでも九太を<理解>する超越的(=まるで、神のような)ヒロイン

として登場する。九太とは一種のこの世界の「なにものでもない」なにかの象徴であるわけだが、その九太の「あらゆる」すべての「承認」してくれるなにものかとして、この女子高生の女の子は現れる。こんな奴、そんな都合よくいるかー、と思った人は正しくて、つまりは世に言う「リア充」って奴なのだろう。
しかも作品の最後には、おきまりの「心の闇」まででてくる。つまり、ここで言う「心の闇」とは、こういった概念での

  • 説明の外

にあるものを「指示」する便利なツールで、まあ、キリスト教で言う「悪魔」みたいなものなわけである。
これと同じようなことを、ディズニーアニメ「インサイド・ヘッド」に対しても思ったわけである。11歳の少女が家族と引っ越すことになって、新しい環境にまだ慣れていないことを、

  • 喜び、怒り、嫌悪、恐れ、悲しみ

のうちの「喜びと悲しみ」を失った、いわば「不感症」的な無表情の態度を、こういった上記の五つの感情をいわば「擬人化」して表現した、ということなのだろうが、つまりは親の前で、幼い頃から育った土地を離れることが嫌だ、という、

  • 悲しみ

を親に言えないことを、子どもの「無反応」という態度で「説明」している、というわけであろう。しかし、そういうことが分かると何が起きるのか。

  • 親が安心する

わけである。あー、うちの子の「非行」の原因はこれだったのねー、と。ごめんねー、ごめんねー、というわけである。しかし、別に作品の最後は、地元に戻るわけじゃない。なんかわかんないけど、子どもは新天地で、がんばって根付いて生きて行こうとしている。そうすると、なんなのかなーという感想をもたざるをえない。
しょせん、子どもは親の「奴隷(=もうちょっと表現を柔らげれば「ペット」)」みたいなもので、親の都合で引越しをすることになるのは当たり前。この作品は、ようするに、

  • 親が子どもの「喜びと悲しみ」を知った<から>ハッピーエンド

で終わっているわけで、ようするに、上記の「バケモノの子」も「インサイド・ヘッド」も両方とも、

  • 世の父親<慰撫>アニメ

なわけである。これを見て「救われている」のは、世の父親の方で、ほとんど、子ども自身には関係がない。世の父親が会社にいりびたって、子どもが学校で何をしているのか、自分の部屋で何をしているのかを知らなくても、こうやって

  • 「概念」によって説明してくれる

便利なツールとして、「父親」に万能感情を与えてくれるエンターテイメントというわけである。
こういった「くだらない」説明的映画の対称にあるのが、映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」だと言えるであろうw この映画は、まさに「唯物論」的世界だと言える。くだらない「説明」は極力排除されていて、この映画の視聴者は、徹底して、主人公のマックスの視点で描かれる

  • その姿

を指示され、見ているに尽きている。子どもたちは親たちに「あんな暴力的な映画を見ちゃいけません」と言われているであろう。だったら、逆に見るしかない。そうでなければ、

  • 子どもは親を理解できない

わけである。親は子どもに何を「強制」しようとしているのか。何を「暴力」しようとしているのか。子どもは親の隠微な「暴力」から、自分を守らなければならない。そうでなければ生きていけない。子どもは、親たちが「心の闇」と言って、子どもたちの複雑な「唯物論的な心の領域」に、暴力的に介入して自己の欲望を満たそうとしてくる。むしろ、子どもに必要なのはその親の

  • 暴力

に対する<抵抗>なのである。子どもは親を「拒否」しなければならない。そうしなければ「自分を守れない」から。むしろ、子どもにとって、親は「戦い」の相手なのであって、上記の二作のような

  • 親が子どもを支配するためのツール

によってマインドコントロールされてはならない。むしろ、子どもこそ自ら「唯物論」を学ばなければならない...。