山形石雄『六花の勇者5』

人間には生きる本能があるという場合、それは、実際に進化論ではないが、こうやって人間が今に至るまで生きてきたのだから、それを疑う人はいないだろう、ということになるのではないかと思われるが、逆にこう問うてみることはどうであろう。つまり、

  • 人間には死ぬ本能があるのか?

と。この問いは一見すると、前者と矛盾しているように思われる。しかし、戦争神経症などの「PTSD」の症状などを見ていると、人間には、死という、高度な生命体から、それらの「還元」された、無生物に近い状態に「戻りたい」といった「欲望」のようなものが、実は、だれでももっているのではないか、と疑いたくなる。
こういった一見すると、矛盾した二つの「衝動」を、心理学の文脈では、サディズムとマゾキズムという形で整理されてきた。
人間が生きようとするその姿勢を「サディズム」と呼ぶことは、多くの人に違和感をもたれるかもしれない。しかし、ここで大事なことは、サディズムは他者攻撃的な快楽を意味しているわけで、つまりは、他者へ介入している状態ということが、反転して、

  • 自己が攻撃されていない

状態であることを意味しているに過ぎない、ということなのである。つまり、ここに大きな意味を読みとってはいけないわけである。
むしろ重要なのは、後者であることが分かる。後者は、自己が攻撃されていることに「快楽」を見出すという、言わば、「倒錯」した状態を意味する。こういった状態は、本来の生物なら、ありえないように思われる。つまり、自分が攻撃されているということは、自分は今、死と直面していることさえ含意するわけであるから、その態度は刹那的にしかありえないという意味で、本質的ではないと判断せざるをえないんじゃないのか、と。

「ねえ、素敵だと思わないかい?」
「......何ガでしょうか」
「自分を心の底から愛してくれると思った人が、ただ一人信じられると思った人が、ぼくに操られていると知った時、フレミーはどんな顔をすると思う?
何もかもに裏切られ、それでもなお愛されることを願っていたのに、手に入れた愛すらぼくの策略に過ぎなかったと知った時、フレミーは何をすると思う?」
楽しそうにテグネウは話し続ける。
「フレミーはきっと自殺する。その時彼女は、二度と見られない素敵な顔を見せてくれるよ。アドレットこそが、フレミーを自殺に追い込んでくれる。ぼくの望む、究極の絶望をみせてくれるんだ!
それだけじゃあない。きっとアドレットも最高の顔を見せてくれる。自らの愛、命を懸けて守ると誓ったその思い。
それ自体がぼくに植えつけられたものと知った時、彼はどんな表情を見せるのか!
ああ、想像もつかない! 見せてほしいよ、もう待ちきれない! 君は何をぼんやりしているんだ! 彼らの見せてくれる顔を、素晴らしいと思わないのか!」

サディズムとは、相手を「攻撃」することによって、相手にダメージを与えることに

  • 自分が快楽を感じる

ところに本質がある。つまり、ポイントは相手が感じることになる「失望」が大きいと思えることが、自分は「楽しい」と言っている。ここにパラドックスがある。
つまり、サディズムが成立するためには、相手は「幸せ」に一度はならなければならない。つまり、「今俺持っている」というところから、「全てを失くしてしまった」というところまで

  • 落差

をもって、つきおとさなければ、相手は「喪失感情」をもってもらえない。それは、相手が実際に幸せであってもいいし、その幸せだと思っていた感情が「偽り」だったと気付かせるでもいいが、いずれにせよ重要なのは、その「落差」だというわけである。
このように、サディズムは徹底して「対象」の中で閉じている。これは、カントの崇高の概念に似ている。自分は、徹底して、相手の状態からのデタッチメントを貫く。相手の状態から

  • 安全な場所

から、高見の見物をしているにすぎない。もっと言えば、テレビのブラウン管の向こう側を、テレビの画面ごしに「覗いている」状態だと言ってもいい。サディズムの特徴は、たんに相手が、さまざまな攻撃によって苦しんでいるところにあるのではなく、その相手の苦しみを

  • 自分は安全な場所にいて見物している

というところにポイントがある。もしも、それによって自分「も」さまざまなリスクに直面しているとなると、崇高の感情と同じように、そんな高見の見物のように、悠長なことを言っている場合じゃない、ということになる。
レミーは、産まれたときから、テグネウのある計画のために育てられる。彼女の親や身の回りの世話をした人たちは、ある日を境にして、それまでの愛情たっぷりの養育方針がすべて

  • 偽物

であったことを示すために、フレミーを徹底して言葉でいじめ、体罰によって攻撃する。
このことは、例えば戦前の、徳育教育を考えてみるといい。確かに、儒教道徳は、親子の愛情を重視する。ところが、そこには別の価値観が等値されていることが分かる。つまり、主従関係が親子関係に「優先」して、重要視されている。親は子どもへの愛情に優先して、天皇への信仰や、国家への忠誠が求められる。子供はその

  • 中間

において、存在が許されているにすぎず、いざとなったら、国家は親に子供への愛情に「優先」して、国家への忠誠を求める。親は、国家の命令によて、子に死を選ぶことを強いる。親にとって子供は、自らの国家への「忠誠」の手段としてのみ意味を見出されるにすぎず、つまりは、

  • 国家存続のために子供を産むことを推奨されるが、あくまでその子供の成長の権利は、国家が生殺与奪を握っている範囲にすぎない

というわけである。
もしも、その国家の王様が、上記のようなサディスティックな性格をしていた場合、この暴君は次のような「ゲーム」を楽しみ始めるとする。つまり、各家庭の親は、産まれた子供を、ある一定の年齢までは。目に入れても痛くないくらいに、

  • 溺愛

をさせる。そして、ある年齢に達したときに、突然、その親たちに「子供が嫌い」であることを、これでもかという暗いに、サディスティックに表明させ、暴力的に扱うようにさせる。そして、ほとんどの子供たちが、結果として「自殺」をするようになるその姿を「楽しむ」というわけである。
この暴君のサディズムは、この場合、実際にそれらの親が実際に子供が嫌いかどうかは問いていない。ここで問われているのは、それらの子供が、「ショック」を受けるところにポイントがある。そういった子供たちが、まさか「今までの自分への愛情が嘘だった」と思わさせられることのショックを「快楽」としている、というわけであるが、よくよく考えてみると、上記の例もそうなのだが、どうもここで問われている状態の曖昧さが気になってくるわけである。
子供が親に裏切られてショックを受けることは、これも一種の「戦争神経症」であり、PTSDだと言うことになるであろう(一種のマゾキズムだということになる)。
しかし、この両方が変なのは、実際にこういった奈落の底に突き落とすためには、それ以前の

  • 嘘偽りのない愛情

が徹底的になされなければならない、というところにポイントがあるわけである。ということは、どういうことかと言うと、もしもこの奈落への突き落としのポイントにおいて、なんらかのトラブルによって、その突き落とし作業がスキップされた場合、たんに

  • いい愛情だった

というだけで終わってしまう、ということなのだ。上記の引用の例がどこか変なのも、もしもその術をかけた側が、最後まで相手にその真実を伝えることがなければ、たんに仲のいい恋人同士で終わってしまうかもしれない。
ようするに、なにが言いたかったかというと、サディズムは、いったん対象がハッピーな状態になって、それを見ている自分が

  • 苦痛

な感情にならないと(リア充爆発しろ、みたいな)、そこから不幸のどん底に落ちて、自分のルサンチマンが満たされないのであるから、いったん、「マゾキズム」的な状態を経由しなければ成立していない、というところにあるわけである。
上記の引用の場合にしても、そもそも若い二人を出会わせている時点で、

  • これは俺の能力で二人に恋愛感情を植えつけた

と主張してみても、

  • そもそも若い男女が出会った時点で、お前の能力があろうがなかろうが、男と女が出会ったら勝手に惚れ合っちゃうもんじゃね

という素朴な疑問とともに、だとするなら、そもそもお互いを出会わせている時点でお前の負けなんじゃねーの、という実に単純な関係がどうしてもぬぐえないわけで、いやはや、サディズムっていうのも、ここまで嗜好をこじらせてしまうと、大変ですねー、と...。

六花の勇者 5 (ダッシュエックス文庫)

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