山形石雄『六花の勇者6』

哲学者のヘーゲルを、カントの保守反動、つまり、バックラッシュとして解釈することは、ある程度、合理的なんじゃないのかと考えるわけだが、その場合、問題とされたのは、

  • 現実的であることは合理的である

という「現実法則」についてであった。こういった認識は、一種の「悟り」のようなもので、つまりは、

  • 神学

として解釈したとき、これを「信じる」人たちというのが一定数いることを疑っているわけではない。そういう意味で言うなら、ヘーゲル主義者とは、一種の「超越的な信仰に生きている」人たちだと解釈できるわけで、たとえそれを、宗教と呼ばなくても、文学や哲学や科学と呼んでいようと、それが「信仰」であることには変わりがない、ということになる。
こういった文脈で考えたとき、むしろ、ヘーゲルという人は「文学の人」だったのではないか、と考えられるのではないかと思うわけである。彼の有名な精神現象学という本を読んだとき、最初に受けた違和感は、この本全体を通して、彼が「文学」に非常にこだわっていることなのである。つまり、彼は最初から最後まで

  • 文学論

をやっていた、と考えられないだろうか。
そのように解釈したとき、上記の「現実法則」は意味のあるものとして解釈される。
どういう意味か?
文学においては、書かれる物語は常に、「最後」において、読者に示される。つまり、読者が読むことになる物語は「完成」している。それは連載型であろうが、読切型であろうが、同じであって、いずれにしろ、なんらかの「完成型」を読者は読むのであって、読者が読むとき「すべて」は終わっていて、その推敲過程を追体験するわけではない。つまり、上記の命題を書き換えるなら

  • 「文学の中において」現実的であることは「文学の外からその文学を指示する場合において」現実的である

ということになる。たとえば、ヘーゲルといえば「歴史哲学」で有名だが、これを、「歴史物語」と解釈することができるであろう。歴史とは常に「過去」についてのなにごとか、である。つまり、すでに終わった何かが「何か」であると言う行為であるという意味で、歴史とは常に「物語」として人々に提示される。
ヘーゲル哲学の全てを「文学論」として再解釈すること。このことは、基本的には、

  • 神学とは文学論である

というふうに言い換えることができる、とも言うことができるであろう。
人はなぜ文学を読むのだろう。また、なぜ、常にどの時代においても、物語が存在するのか。そこには、

  • 物語とその読者の諸関係

が存在している。そして、この「関係」を生産することになる

  • 作者の意図

が問題となる。つまり、なぜ人は文学を読むのかは、なぜ作者は文学を書くのか、に還元される。

だが誰かを愛するとはどんな気持ちなのかテグネウにはどうしてもわからなかった。どれほど愛したいと願っても、誰も愛することはできなかった。

だがその時、テグネウはふと思った。
凶魔たちが、嘆き悲しむさまを見てみたいと。

昔から誰も愛せない自分自身が、嫌いでたまらなかった。だが今は、自分の全てを肯定できる。自分は愛を得られない。だが、愛よりもずっと素晴らしいものを手に入れられる。
この、愛を踏みにじる快楽を得ることができる。

テグネウとはなんだろうか? テグネウとは一種の「ヘーゲル哲学」なのだ。つまりは、サディズムであり、もっと言えば、テグネウとは「文学」であり「哲学」なのだ。
テグネウは「愛」が分からない、と言う。しかし、彼は「愛」ではなく「愛を踏みにじる快楽」は分かった。そして、彼はこの「快楽」に自らの生涯の全てを賭けることを生き甲斐とした。なんだろう? 私たちはこれによく似たものを、みんな知っているのではないか。
私は「真実」は知らない。でも、「みんなが真実だと言っているもの」については、完璧に百点で答える。つまりは、

  • 勉強バカ

のことである。彼らは「クイズ」の回答の「丸暗記」が得意なのだ。人間が生きるには何が大切なのか、なんて考えたことはない。でも、

  • どう答えれば皆が「お前は人間が生きるには何が大切なのかに正確に答えられるな」と言ってくれるかのアンチョコを徹底的に暗記してきた

というわけである。言わば、学校エリートなんていうのは、こんな連中ばかり、ということになるであろうw
テグネウは「愛」を理解できない。しかし、「メタ愛」についての世界中の言説を隅から隅まで「暗記」している。彼は愛についての「回答」をすべてに対して、提示することができるが

  • それが何を言っているのか

は死ぬまで一つとして分からない。テグネウは自分が愛を知らないことが恥かしいが、だれからも自分が愛を知らないことをばれないようにできることには絶対の自信がある。
これはなんだろうか?
やはり、ヘーゲルというのはカントの「崇高論」の延長で考えているんだろう(ということは、マルキ・ド・サドサディズムも、カントの崇高論の延長の議論だ、ということになるであろう)。
なぜテグネウは愛が分からないのだろうか。それはつまりは、彼が「危機を生きていない」から、と言うしかないであろう。つまり、彼は常に「安全」なところにいる。そういった、安全な場所から、他人をボロクソにケナしている。つまりは彼は、生きるとは苦しみの中で生きることである、という最低限の倫理を理解していないのだ。
毎日を生きることが苦しくない人に愛など分かるわけがない。愛が分からないなんて言える人間は、産まれてから今に至るまで一度も「不幸になったことがない」ような連中の言うことであって、貧乏人の家に産まれなくて良かったーとか朝から晩まで言っているような、お金持ちの子供の一種の「戯言(ざれごと)」なのだ(苦しみの中で生きている人なら、だれでも他人の温かさを感じない日はないわけである)。

「......俺はずっと、嘘ばかりついていた。自分こそが、世界を救う勇者だと言った。お前を本心から愛していると言った。自分が地上最強の男だと言った。
どれも......どれも嘘だったんだ」
「......アドレット」
凶魔たちが、楽しそうに笑っている。アドレットが諦めたと思っている。だがアドレットは知っている。最大の隙は、勝利を確信した時にできると。
「だけどな......フレミー、俺は......」
アドレットはよろけながら、フレミーに近づく。
「いつだって、嘘を真実に変えてきた!」
その言葉に、凶魔の群れがわずかに動揺した。その隙を、アドレットは待っていた。残った力を振り絞り、凶魔たちに突撃する。凶魔たちの一斉攻撃が、アドレットを狙うだが、一瞬の動揺が、アドレットに避ける隙を与えてくれた。
アドレットは凶魔の群れの中を走る前後左右から、凶魔の攻撃が襲ってくる。
無謀な突撃だ。だが、アドレットはフレミーを信じた。何も言わなくても、何の合図もしなくても、必ずフレミーは自分を援護してくれる。
レミーの放った銃弾が、凶魔たちを吹き飛ばした。爆風が、強引に背中を押してくれた。
「お前を幸せにしてみせる!」

生きることは全て嘘だ。でも嘘が恥かしい人は、そもそも生きることが恥かしいのだ。恥かしくない人なんていない。恥かしさに向きあえない人が「愛が分からない」という<正しい>ことを言う。つまりはそういう人は、どうしてもクイズの「正解」を言わないということができない。それは、学校のテストでいい点数をとっていないといつも「不安」でしょうない。いい点をとらないと「生きていられない」という意味で、一種の「心の病気」なのだ。

「テグネウ。お前は言っていたな。俺はお前の玩具(おもちゃ)だと。お前のために、俺はいたと。だがな、本当のところは逆だったんだよ」
「......何を言っている」
「俺のためにお前がいた。俺をフレミーに出会わせてくれるために、お前は生きてきたんだ」

言うまでもなく、善悪は「科学」ではない。つまり、善悪は「存在」しない。つまり、善悪は嘘なのだ。じゃあ、善悪は「悪」なのか? 善悪について語ることは、非科学的なことを語ることであって、トンデモ科学なのか? 非科学は「悪」なのか? カントが理論理性批判と実践理性批判を区別したのはそういうことであって、ようするに、ヘーゲルはそういう「倫理的態度」が許せなかったのであろう...。
(いやー。この前、第5巻について書いたブログの最後の結論そのものが、6巻の結論になってしまいましたねー。)

六花の勇者 6 (ダッシュエックス文庫)

六花の勇者 6 (ダッシュエックス文庫)