明治憲法からの連続性

新国立競技場の白紙撤回のとき、安倍総理が記者会見で「新国立競技場は、国民の皆さんと選手の皆さんのためのものですから」と言っていたのを聞いたとき、私は少なからぬ違和感を覚えた。
というのは、なぜわざわざ、新国立競技場の場合は、みたいなことを言うのかが分からなかったからだ(言うまでもなく、内閣が行うことは全て、国民のためのものでなければならない。そうでないものがあるということ自体が、国民主権を否定する考えであろう)。
なぜか。
それは、彼が今行っている直近の問題に関係していたのではないか。つまり、安倍総理は「安保法制は例外だ」と言いたかったのではないだろうか。

三木由紀子 なかなか難しいんですけど、情報公開をやっている立場から見るとですね。結局、自分たちがやっていること、特に、安全保障の分野なんかそうなんですけど、自分たちがやっていることが正しいんだ、つまり、誰かに評価されたりするよりは、自分たちがやっていることそのものが国益とか公益であるという感覚はすごく強いと思うんですね。政府の側が、先程外交安全保障の不開示規定を見ていただいたんですけど、情報公開法の規定って、外交安全保障と治安維持に関する規定以外は一応、正当性ですとか、適当かどうかっていう、つまり、公開することによる不利益が、単に不利益なんですっていうだけでは駄目で、正当性があるかとかそれが適切なのかということとか、法人に関する情報も、やっぱり、法人の正当な権利、利益を侵害するかという、ある種、出すことによる公益と、非公開にすることによる公益との、一応、比較考量をするという仕組みになっているんですけど、外交防衛に関していうと、そうなってないんですよね。
つまり、安全保障分野、外交分野については、自分たちが正当性を体現している、と。なので、自分たちの判断で、出す出さないという、高度な専門性で判断をするのだから、その判断に相当の理由があれば、それで非公開を認めると、実はなっているんですね。外交、防衛、治安維持に関しては、少し、非公開規定の扱いも違うんです。なので、その規定を見ていつも思うのが、やっぱり治安維持と外交防衛、安全保障分野については、自分たちが、公益であり国益であり正当性を体現しているっていう、そこの考え方が根強いんだなっていうのを思うんですね。
それ以外の分野もそうなんですけど、特にこの分野は強い。かつ、素人が分からないだろうって。その結果なにがどうなっているかというと、やはり、説明責任を果たさなきゃいけないとかですね、自分たちがやった正当性を説明して、理解を得る努力をするとかですね。あるいは、自分たちの正当性について批判をされた時に、きちんと説得力のある検証をするとかですね。そういう文化から一番離れた所にずっと身を置いていると、いうことだと思うんですよね。なので、以前に知人が言っていたのは、外交、安全保障、治安維持に関しては、民主化が遅れている、というふうに言っておられて、その通りだと、いうふうに思ったんですけど。やはり、民主的なコントロールとか、民主的なアカウンタビリティとか、そういう所はかなり遠いですよね。で、その文化のまんま、この先、外交政策とか、安全保障政策について、かなり厳しい国際社会の中で判断していくことは、実は非常にリスキーだなと。やはりそれは中身を知らなくても、形式的にそういうふうに思うと思うんですよね、多くの人が。なので、情報公開でも、そこの仕組みとか、枠組みをほんとは変えたい、と。安全保障であっても、外交であっても、公益との比較考慮をして、出すか出さないかということをですね、判断する、あるいはそこを追求される、というふうにならないと。これはですね、自分たちが、正しいんだという前提から、なかなか抜け出せないんじゃないか、と思うんですね。
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みなさんは、今この国が、どういう「からくり」によってできているのかを調べようとしたら、まず最初に、どこを見ますでしょうか。私は非常に単純で、

  • だれがだれに命令されているのか

というところを考えるんですね。たとえば、私たちがどこかの現場で、仕事をするとします。その場合、私を必要だと、面接で最終的に判断した人は誰なのか、とか、結果的に、それによって自分にその仕事の対価を払ってくれている人は誰なのか、とか、非常に重要になってくるわけです。なぜなら、その評価によって、仕事の継続とか対価とかが決まるわけですから。
そのように考えてくると、日本国憲法第七条というのは、非常に重要だということが分かるわけです。
ここは天皇の役割についての場所であるので、ほとんど戦後の民主主義においては「形式的」な意味しか、世間的には、考えられていません。つまり、こんなもの、なくても国は回ると。別に、天皇がやらなくたって、総理大臣が代わりにやればいいことであって、なんで、わざわざこんな面倒なことをしてるのか、別にいいけど、くらいの感覚だと思うんです。
しかし、例えば、認証官というのを考えてみても、どうして、多くの「庁」があるのに、幾つかの数える庁のトップしか、天皇は任命をしないんでしょうかね。

あと、今は防衛省になっていますので、なくなりましたが

ということですよね、つまり、こういった「庁」は他の庁と「違う」と考えられているわけです。これらは「特別」だと、自他ともに、認めている、ということなのです。
今回の安保法制の特徴はなんでしょうか。それは、安倍総理を始めとして、まったく

  • 国民の説得について「やる気がない」

ということなのです。つまり、彼らは国民になぜ説明しなければいけないのか、なぜ国民の納得を得なければいけないのか、まったく、同意していないわけです。かったりーなーと思っているわけです。まったく、国民の同意が必要だと思っていない。つまり、外交、安全保障、治安維持は、

  • 国民に関係ない

と「本気」で思っているわけです。これは、政府が勝手に決めてやることであって、国民がなぜ知らなければいけないと思うのか、国民が納得しなければやってはいけないのか、彼らはまったく、それに同意していないわけです。
一番分かりやすい例が、戦争中の、大本営ではないでしょうか。大本営は、徹底して、最初から最後まで、国民に嘘をつき続けました。そして、どうなったでしょうか。戦後、この関係者は処分されたのでしょうか。言うまでもありません。

  • 彼らは今も同じことを続けている

のです。だから、今の安保法制は嘘ばかりなわけです。安倍総理は少しも、国民に嘘をつくことに、悪気を感じていません。今日も、徴兵制は憲法違反だとか言っていましたが、こんなの「嘘」にきまっているわけでしょう。これから、軍拡しないといけない法律を提出しているのに、兵隊が足りなくなれば、半徴兵制的なことをやらないわけがないじゃないですか。ことごとく、安倍さんの言っていることは、この繰り返しでしょう。正直に言えばいいじゃないですか。国民の皆さんの力が必要なんです、と。なんでそう言わないんでしょうか。彼は嘘をつくことに「平気」なわけです。それは、

  • 外交、安全保障、治安維持

は「国民を騙してでも実現しなければならない」と思っているからなんですね。もちろん、これは矛盾です。しかし、彼にとっては矛盾じゃないんです。
安倍さんはそもそも、戦後憲法を憎んでいる人です。明治憲法に戻す、または、戦後憲法を破棄して、自民党憲法草案のような恐しい悪法にとりかえることを野望しているような人です。そんな人が、どうして、戦後憲法を守ろうなんて思うでしょうか。
彼は常に、戦後憲法を守る「ふり」をして、心の中で舌をぺろっと出しているわけです。
上記の引用にもあるように、そもそも、日本の今の法律で、

  • 外交、安全保障、治安維持

は、「特別扱い」されています。まったく、国民へのアカウンタビリティが果たされていません。つまり、これらについては、「国民主権じゃない」んです。あいかわらず、明治憲法における

だと、安倍首相は言いたいわけなんです。つまり、「国体」ってやつです。
日独伊三国同盟の中で、唯一日本だけが、戦中から戦後にかけて、「政権」が連続して維持されました。つまり、日本の政治体制は確かに憲法は変わりましたが、それを担った、テクノクラートは基本的に継承されました。
つまり、どういうことか?
日本は変わらなかったのです。彼らは戦後憲法を「なんちゃって」で馬鹿にしていました。こんなものは、日本が再度、経済的に復活して、大国に戻ったら、いつでも捨ててやると思っていたわけです。今はまだ戦争で負けたばかりで、アメリカに逆らえないから、面従腹背している、と思っていただけなのです。
彼らは、表では戦後憲法に従っていながら、その

  • 精神

明治憲法に殉じていました。
さて。
その場合、「国体」とはなんだったでしょうか?
私は、こんなふうに考えるといいのではないかと思っています。まず、WW2で日本がポツダム宣言を受諾しなかった場合を考えてみてください。アメリカ軍は、沖縄占領の後、九州から北上して、地上戦を続けることになります。九州からずっと、アメリカ軍はさかのぼってきて、沖縄と同じように、日本人は殲滅されたでしょう(沖縄は、四分の一が戦死しました)。もちろん、原子爆弾は、広島、長崎だけでなく、日本の主要都市、全てに落とされます。
この場合、次のような思考実験をしてみてください。

  • 日本国民の全てがアメリカ軍に殺されて、皇族の方々「だけ」が生き残った場合
  • 日本国民の全てがアメリカ軍に殺されて、皇族の方々はアメリカ軍の「捕虜」になった場合

この二つの場合に、なにが興味深いかというと、こう考えてみましょう。戦後、

  • 国体が保持された

と考えるわけです。意味不明だと思うでしょうか。だって、日本人の全てが殺されているのですから。しかし、そうではないわけです。戦後、まず、天皇制が「維持」されます。つまり、日本列島の日本政府が「復元」されます。日本人も復元されます。では、その日本人とは誰がやることになるのか。言うまでもありません。

  • 戦利品

として、日本列島の土地を奪った、アメリカの白人たちが、日本列島に移住してきて、日本列島で過ごすことになります。しかし、大事なポイントは、「国体」は維持されるのですから、彼らアメリカ人たちが、この天皇制を守る、ということになるわけです(言うまでもなく、皇室典範を見ても、天皇家の家系は、日本人でなければならないなんて書いてありません。アメリカの白人の血が入ることは、今後も普通に想定されることであり、結果として、天皇家の血統が続くことにしか、興味がないのですから)。
もちろん、多くの人は上記の想定は極端だと思うでしょう。しかし、このマイナーヴァージョンを考えたとき、少しもこういった想定は無意味でないことが分かるはずです。
まず、皇族の方々は、この「国体」のために生き残ってもらう必要があることは分かるでしょう。では次は誰でしょうか。上記では、日本人は全員、死んだ、ということになっていますが、仮に、天皇家が「これらの人たちは自分たちが生き延びるのに欠かせないので、生き残らせたい」と主張する人がいるとしたら、誰でしょうか。
言うまでもないでしょう。憲法第7条で、わざわざ、天皇が「任命」している人たち、ということになるでしょう。

  • 自分たち天皇家の存続のため(国体のため)に、君たちに、この役職についてほしい

とお願いしたのですから。彼らの「雇い主」は天皇です。つまり、天皇に認められるから、彼らはこの役職をずっとまっとうすることになるのであって、国民がなにかを言っているとか、関係ないわけです。彼らが役職から開放されるのは、天皇が「お前はもういらない」と言うときですから、そうでない限り、彼らは、

ための「手段」を尽すわけです。こう考えたとき、上記の例を思い出してください。果して、国民は生き残る必要なんてあるのでしょうか。

  • 国民の代わりがアメリカ人でなぜ悪いのか

に、一体、誰が答えられるでしょうか...。