エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

こういうと変に聞こえるかもしれないが、なぜ子供たちは勉強をするのだろうか。別に学校に行くことが変だと言っているわけではない。学校には友達がいるわけであるし、子供が学校に行くことは本能のようなものであろう。しかし、なぜ勉強をするのだろうか。この場合、学ぶことが正しくないと言いたいわけではなくて、そういった自然な楽しさを超えてまで、マゾヒスティックに偏執するから異常だ、と言いたくなるわけであるが。
こう考えてみよう。子供が学校に行き、勉強をして、高校に入り、大学に入り、大学院に行き、結果的に大学教授になったとする。その場合、この一連の過程において、この子供は一体なにに向かって、自らの「努力」であり「才能」を、

  • 承認

してもらおうとして、ここまで頑張ってきたのだろうか、と。言うまでもない。「国家」だ、ということになるであろう(もちろん、近年、小学校、中学校、高校、大学、大学院と、必ずしも国立ではないものが多くなる。私立の学校も少なくない。しかし、この「学校制度」ということでは、これは国の制度であるわけで、ある程度の濃淡はあるとしても、同じような精神が流れているとは考えられる)。
この場合、これを子供による一種の「丁稚奉公」の過程と考えると、子供の雇い主は一貫して「国家」だということになる。つまり、子供は必死で、

  • 国家に気に入られるため

に、がんばっている、ということになる。

人間性のなかには、固定した変化しない要素がある。それは生理学的に規定された衝動を是が非でもみたそうとしたり孤立や精神的な孤独を極力さけようとするものである。

近代社会とくらべて、中世社会を特徴づけるものは個人的自由の欠如である。当時ひとはだれでも社会的秩序のなかで、自分の役割へつながれていた。社会的にいっても、一つの階級から他の階級へ移るような機会はほとんどなく、一つの町や村から他の場所へ移るという地位的な移動さえ、ほとんど不可能であった。わずかの例外をのぞいて、生まれた土地に一生踏みとどまらなければならなかった。またときには、自分の好む衣装をつけることも、好きなものをたべることさえも自由ではなかった。まだときには、自分の好む衣装をつけることも、好きなものをたべることさえも自由ではなかった。職人はその製品を一定の価格で売らなければならず、百姓も町の市場という一定の場所で、売らなければならなかった。ギルドの成員は、他のギルドの成員にたいし、生産の技術的秘訣を一切もらすことを禁止され、同じギルドのメンバーにたいしては、原料を買うためのあらゆる便宜を提供しなければならなかった。個人生活も経済生活も社会生活も、すべて規則と義務とにしばられ、実際に個人が自由に活動する余地はまったくなかった。
しかし近代的な意味での自由はなかったが、中世の人間は孤独ではなく、孤立してはいなかった。生まれたときからすでに明確な固定した地位をもち、人間は全体の構造のなかに根をおろしていた。こうして、人生の意味は疑う余地のない、また疑う必要もないものであった。人間はその社会的役割と一致していた。かれは百姓であり、職人であり、騎士であって、偶然そのような職業をもつことになった個人とは考えられなかった。社会的秩序は自然的秩序と考えられ、社会的秩序のなかではっきりした役割を果せば、安定感と帰属感とがあたえられた。そこには競争はほとんどみられなかった。ひとは生まれながら一定の経済的地位におかれ、それによって、伝統的に定められた生活程度は保証されたが、同時に、より高い上層階級の人間にたいする経済的義務は果されなかった。しかしこのような社会的地位の限界を破らないかぎり、自由に独創的な仕事をすることも、感情的に自由な生活をすることも許されていた。いろいろな生活様式をあれこれと自由に選ぶという、近代的な意味での個人主義(しかしこの選択の自由は非常に抽象的なものであるが)は存在しなかったが、実際生活における具体的な個人主義は大いに存在していた。

中世社会と現代社会の決定的な違いは、モノや情報の流通の速度だと言えるであろう。例えば、現代社会では、自動車やトラックや電車や飛行機によって、あらゆるモノは、あっという間に各所に運ばれる。
他方、中世の村は、基本は自給自足だと考えるといいのではないか、と思う。そんな簡単に、よそから、都合よく、欲しいモノが運ばれて来ない、ということである。つまり、なにかが簡単に外部から入手可能だという「保証」がないのだから、最低限自分たちが生きていくために必要なものは、自分たちの「中」で調達できなければならない、という基本があった。
これが、その村社会の中での、各家ごとの「役割」という考えに続いていく。ある家が、ある種類のモノを生産していたとすると、大事なことはその生産を、たとえ、親が死んだからといって、簡単に止めてもらっては困る、ということなのである。それでは、この村のそのモノに対する需要が満たされなくなるのだから。他方、次のように言うこともできる。この村の他の人が、その人と同じモノを作って、この村の人に売れば儲かると考えたとき、この村社会の情報ネットワークはその行為を排除しようとするようになる、ということである。なぜなら、この別な人がその人と同じモノを作ったことで、その人の生活がままならなくなってしまったら、結果的にお互いが共倒れになって、やはり村のこのモノへの需要を満たせなくなる危険があるから。
中世の村社会は、言わば、小さな村人同士による相互監視社会だということになる。もっと言えば、一種の民主主義だと言うこともできる。こういった村のいい側面は、このようにして、この村に生きている人たちが、それぞれ「自分が行う」ことが、この村にとって必要であり役立っていて、感謝されている、といったような「認められている」という感覚を、実際に行っている内容から感じられるところにあったと考えられるであろう。つまり、生きている、村のために生きている、という実感を得ることができた。
ところが、現代社会の物流革命がまずもたらしたのが、

  • 都市

である。都市とは、とにかく、人が大量に集まるところであり、その人々の「需要」を、この都市の「外部」から調達して流入させるシステムになっている。ここにおいて、住んでいる人たち同士には、なんの精神的なつながりがなくなる。村人はもういない。だれも、自分に役割をくれない。自分に生活の糧を要求してこない。そのかわり、自分を守ってもくれないわけである(本質的に、自分が頼られない、ということである)。
ここにおいて、人は、一人の起業家となる。自分が生み出すサービスが、単純にこの都市の中で「競争力」があれば、そのサービスは「生き残っていく(進化論的に)」ことになるだろうが、その生き残るということ自体には、なんの意味もない。その生き残っている間に、どれだけお金を稼げるか、というモノサシしかなく、そもそも、そのサービスをだれも必要としなくなった場合、または、自分よりうまくこのサービスを提供する人があらわれたら、たんに自分の提供していたサービスは用済みとなり、店仕舞いということになる。
この一番分かりやすい例が株式会社で、どんなに儲かるビジネスモデルを発明しても、自社の株を買い占められ、自社が乗っ取られれば、必然的に会社は「他人」の意志によってコントロールされることになり、それはもう、

  • 自分のモノではない

ということになる。
しかし、いずれにしろ、「どうなるのか」は隅から隅まで「確率論」的にしか決定しない。
ここに、現代社会を生きる人たちの「不安」がある。
自分が、この世に生を受けてから、年を取り死ぬまで、自分の行うことにはどこにも「確実」なことがない。徹底的に回りに流され、自分が「これ」に執着して生きようと決意をしてみたところで、社会の流動性がそれをさせてくれない可能性がある。つまり、なにか

  • 確か

なよりどころとなる、自分を支えてくれるモノが見出せない社会となっている。
このように、現代社会においては、人は「必要」であることは間違いない。だれかが、これらのサービスを提供してくれなければ不便になるであろう。しかし、

  • この私

である必要はない。つまり、「だれでもいい」わけである。誰がこのサービスを提供してくれてもいい。もちろん、このサービスを提供するのに有能な人とそうでない人の差異はあるであろう。しかしそれも、競争の中で序列化されているにすぎず、本当の意味での「この人」ではない。その序列化の中での「相対的な、この人」にすぎず、本質的には「誰でもいい」のと変わらないわけである。
こういった都市生活者は、なぜ「活動」しているのかと問うたとき、ひとまず言えるのは、その都市機能を「維持」するため、というくらいの意味しかなくなる。つまり、だんだんと、人間ではなく、

  • 都市機能

の方が、むしろ「主体」になっていく感覚が強くなっていく。たしかにこの都市機能によって、その都市に住む人々か快適な生活を維持しているわけであるが、別に、その都市機能の一つ一つの機能が、本当に「自分」にとって得なのかどうかは自明ではなくなる。なにか統計的な損得の計算があって、その都市に住む人の大勢にとっては有意義なのかといった漠然とした意味しか示せない。
こういった社会の変化に、もっとも敏感に反応したのが、宗教勢力であった。

ルッターは、人間の性質には生まれながらの悪が存在すると仮定し、そのために人間の意志は悪にむかい、どのような人間も本性のままでは善行をすることはできないと考えた。人間は悪い有害な性質をもっている。人間の本性は自然的不可避的に悪であり背徳的である。

自分の努力ではどのような善もなしえない人間の腐敗と無力とを確信することが、神の恩寵の成立する本質的な条件である。みずからをけなし、個人的意志とおごりとを打ち破るときにのみ、神の恩寵は訪れてくる。「なぜならば、神はわれわれの正義と知恵によってではなく、われわれのみしらぬ(remde)正義と知恵とによって、われわれを救おうとし給うのである。われわれ自身からでてくるのでもなく、われわれ自身のうちに潜むものでもなく、どこか外からわれわれにやってくる正義によって、神はわれわれを救おうとし給う。......いかえれば、正義は、もっぱら外部からやってくるものであり、われわれとはまったく縁がないということが、教えられなければならない」。

カルヴァンの予定説には、ここではっきりと指摘しておくべき一つの意味が含まれている。というのは、予定説はもっともいきいきとした形で、ナチのイデオロギーのうちに復活したからである。すなわちそれは人間の根本的な不平等という原理である。カルヴァンにとっては二種類の人間が存在する。------すなわち救われる人間と永劫の罰にさだめられている人間とである。この運命はかれらの生まれてくる以前に決定され、この世におけるどのような行為によっても、それを変化させることはできないというのであるから、人間の平等は原則的に否定される。人間は不平等に作られている。この原理はまた、人間のあいだにどのような連帯性もないことを意味している。というのは、人間の連帯性にとって、もっとも強力な基盤となる一つの要素が否定されているからである。すなわち人間の運命の平等である。カルヴィニストはまったく素朴に、自分たちは選ばれたものであり、他のものはすべて神によって罰を決定された人間であると考えた。この信仰が心理的には、他の人間にたいする深い軽蔑と憎悪とをあらわすことは明らかである。------実際には彼らはその同じ嫌悪を神にたいしても抱いていた。近代思想は人間の平等をますます肯定するようにはなったが、カルヴィニストの原理はけっして完全に黙してしまったわけではない。人間はその人種的背景によって根本的に不平等であるという原理は、合理化された同じ原理の確認である。心理学的意味はったく同一なのである。

ルターやカルヴァン宗教改革の特徴は、それが上記の意味での都市中間層をターゲットにした運動であったというところにある。彼らが訴えていることは、ようするに、

  • 都市生活者の「確率論」的にしか決定しない生活作法への<不安>

に訴える、というところにポイントがある。ルターが言う「人間絶対悪論」とは、

  • 絶対的に決定論的に「あなたの天職は<これ>である」というものは存在しない=絶対的に「善」であり続けることは不可能である

といったアナロジーによって関係づけられている。
この「絶対的な善」の不存在が、

  • 神の恩寵

  • 人間の善行為

との完全非相関性を主張することになる。神の恵みは、人間が善を行うかどうかと「関係なく」、神の単純な(確率論的な)気まぐれによって、配剤されるにすぎず、その神の「承認」と、自らの「良い行いをしよう」とする努力が、完全に離される。
この論理の必然的帰結として、カルヴァンの予定説がある。つまり、神は「最初」から、だれとだれを天国に入れるのかを、産まれる前から決定している。つまり、世界は

  • 不平等にできている

と言うわけである。一人一人がこの地上に産まれて何をするのかに関係なく、どんな悪をしようと、どんな善をしようと、だれが天国に行き、だれが地獄に行くのかは、最初から決定している。
つまり、カルヴァンは何が言いたいのかといえば、今、このカルヴァンキリスト教の「信者」集団は天国に行き、それ以外は地獄に行く、と。だから、彼らは、このカルヴァンキリスト教の信者集団以外の人たちを、徹底的に

  • 差別

し始めるわけである。なぜならすでに、その教義において「地獄へ行く人たち」と差別されているわけだから。
このように、現代の都市社会における、人間の統計的にしかその必要性が担保されなくなり、平均的にしかその価値を理解されなくなり、だれとでもとりかえ可能となっていった都市社会の中の個々人の人間は、いかに「自分が<平均的>にしか必要とされていないか」を理解するようになり、不安になる。その不安を、宗教は、人間の「絶対悪」性と「選民」性によって、

  • 救済

しようとする。
この構造を、最初に言った子供たちにとっての学校社会から考えてみよう。都市社会においては、一人一人は「平均的」な存在にすぎない。つまり、いくらでも「代わり」がいる、いてもいなくても、たいして違いのない存在にすぎない。しかし、そういった子供たちは、では自分はどうすれば

になるのかを考え始める。この都市社会は、何を求めているのだろうか、と考え始める。すると、まず気づくのが、なぜか国家は「自分を学校に通わせて、勉強をさせている」ということに気づき始める。そして、この子供は考えるわけである。「なぜ国家は自分を学校に通わせて勉強をさせているのだろう」と。そこではたとこの子供は気付くわけである。「もしかして、ここで<いい点数>をとることには、国家が自分を<スペシャル>に扱ってくれるための、通過儀礼的な意味があるんじゃないのか。これは一種の印付けであり、フレームアップのためのパフォーマンスの場なのではないか」と。
子供を学校に行かせ、勉強をさせるということは、国家はなんらかのことを、その子供に求めている、ということになる。もっと言えば、すべての子供がその国家の要求に答えられないレベルでもいい。何人かが、その隠されたメッセージに気付き、国家のために働こうとしてくれるでもいい。
つまり、である。上記のカルヴァンの予定説でいうなら、この過程を通して、

  • 国家の側の子供 ... 天国に行く人種
  • 国家に敵対する子供 ... 地獄に行く人種

を選別する、あぶりだす過程だと考えられる、というわけである。お分かりであろうか。ここで問われていることは、現代の都市社会が、究極的な確率論的な価値の「不安定さ」を条件としているために、ここに住む人々の

  • 安心

が得られない、というところにポイントがある。それに対して、上記の国家宗教的な保守反動は、いわば

  • 国家そのものに、中世社会の「村」をヴァーチャルに復元する

ことを意図しているわけである。つまり、究極的な「選民」である。

  • この国家を動かしている人(国家エリート)=中世社会の(一つ一つの役割を与えられていた)村人

  • その他大勢のモブキャラ=ノイズ

という形で、この都市社会を分割することによって、ヴァーチャルな「村」を、選民的に成立させることによって、

  • 国家エリートの安心

を人工的に作り出す。これによって、確かに、ここで選ばれた勘違いエリートはずいぶんと「安心」するのであろうw しかし、彼らは言ってみれば「裸の王様」である。彼らは自らのその選民思想から

を生きることになる。大衆が苦しんでいるのを見ると自然と喜悦の感情が湧いてくる。他方、前回言ったような、日本国家が国民主権を否定してまでパターナリスティックに進めようとする「国策」政策、つまり、

  • 外交、安全保障、治安維持(、もう一つ言えば、原発推進

はまさに、自らのご主人様の「ご命令」として、マゾヒスティックに唯唯諾諾を平伏し、従う。彼らは理性的で合理的なのではなく、常に国家の「ご機嫌」を伺いながら、常に国家の意に沿うように振る舞うことに「自らの全ての才能」を注ぎ込んでいる。彼らの本当の才能とは、この「国家のご機嫌伺い」の能力だと言えるだろう。彼らは言ってみれば、自分の「ご主人様」が誰であるのかを、よく分かっているのである...。

自由からの逃走 新版

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