四書「大学」と一般意志2.0

最近の若者は朱子学における四書五経など読まないのだろうが、四書の中でも「大学」は、たんに記述が短いだけでなく、儒教であり朱子学のエッセンスがつまっているという意味で、その中身を通覧しておくことは、これから社会に出ていく上で、多くのことを考えるきっかけを与えることが分かるのではないか。
言うまでもなく、孔子の「論語」は重要である。これを読んでいないという奴で、なにかを考えていると言っている奴は、一種の「もぐり」である。他方、「大学」はそういう意味では読むことが必要ということではない。そうではなく、

  • 国家

などの、社会システムがどのようにあるのかを考察する上で、この短かい文章が、どういった役割を果たしてきたのかについて考えるのに重要だということなのである。
「大学」の特徴は、パブリックな国家の「秩序」の発生を、

  • プライベート

な個々人の私生活での「徳」行為に求めている、ところに特徴がある。つまり、国家の「安寧」の発生は、個々人のプライベートな世界での、さまざまな倫理的行為を

  • 媒介

して出現する、と定義している。つまり、

  • 行為:子供 --> 親

  • 行為:国民 --> 国家

が「等価」に並べられる。このアナロジーによって、国家を「定義」する。「大学」においては「子が親を大切に思う」ことと「国民が国家を大切に思う」こととが「区別できない」わけである。常に、この二つは「入れ替え可能」なものとして、概念が変換されて解釈される。
この「変換」メソッドが強力なのは、多くの人にとって「国家」というのは

  • 抽象的

なところにある。つまり、具体性がない。なにを国家と言っているのかが、だれにも分からない。しかし、支配階級にとってはそれは、非常に「リアル」に存在しているのであって、その支配階級の「考える」通りに、被支配階級が動いてくれるかどうかは非常に重要なわけである。
この場合、私たちにとって「親」がなにかは、非常にプライベートな範囲において、明確にリアルに理解できる。つまり、国家をそれとの「アナロジー」で説明をされると、それが理解できているかそうでないかに関わらず、なんらかのリアルな「イメージ」を提示される、ということになるわけである。
これが、国家と親のアナロジーの強力なところである。本来、国家とは自分とは縁の遠い、もっと言えば、自分に関係ない組織の話であるのに、この儒教ストラクチャーにおいては、国家が「親」に媒介されることによって、まるで

  • プライベート

ななにかであるかのように解釈される。つまり、強力な国家求心装置が実現される、ということになる。
このシステムが「強力」なのは確かである。プライベートなものによって、支配階級の「リアリティ」を媒介することは、人々に支配階級が「まるで自分の家族のような」感情を抱かせることに成功するのだから。
しかし、である。
これが強力であることを理解しながら、このシステムには、少なからぬ「欠陥」がある。それは、国家の側は、その「意味」に曖昧さがないのでいいのだが、問題は「親」なのである。
つまり、世の親と言ってみても、千差万別なわけで。まあ。いろいろな親がいるわけである。よって、それぞれの親によって、その子供がもつことになる親のイメージはそれぞれ違っている。つまり、それによって、媒介される国家のイメージも、猥雑な差異を内包することになる。つまり、

  • 国家イメージの「ノイズ」

を避けることができない。このことへの認識から、東浩紀さんの一般意志2.0は、次のようなアーキテクチャを夢想することになります。

  • 行為:子供 --> 親=国家

これが一般意志2.0です。集合知としての一般意志2.0においては、「大学」における、親と国家の分裂は存在しません。それは、そのものの意味において「同一」になります。これはなんでしょうか? 一番分かりやすい例は、彼自身が構想したアニメ「フラクタル」における、フラクタルシステムが雄弁に語ります。
このアニメの最も重要なポイントは、主人公のクレインの「両親」にあります。この両親は、ロボットです。この世界では、「ドッペル」と呼ばれていますが、ようするに、フォログラフィによる「幻想」として、両親が提示されます。この両親は、つまりは

なわけです。つまり、国家そのものが文字通りの「親」であるわけです。一般意志2.0は、さまざまな人々の「つぶやき」を「計算」して、

を人々にサービスとして提供します。これは、学校におけるテストを考えてみると分かるでしょう。一番の理想は「全国模試のトップ」の人だということになります。この人が「理想」なのです。よって、世界中の子供の親は「この人」になります。世界は

  • 金太郎飴

になります。最も「優秀」な親に育てられることは、だれにとっても最も「幸せ」な子供なのですから、それは必然です。問題は、親の差異による、子供の人生の「確率論的な不幸」を回避することだからです。堕落した親に育てられることほど、不幸なことはありません。堕落した親だから、子供は不幸になるのです。よって、堕落した親の抹殺、つまり、

  • 親の「一元化」

こそ、究極の「幸せ」ということになります。一般意志2.0は、すべての世界中の「いいとこどり」をすれば、究極の幸せが世界中の子供たちにもたらされる、という認識に導かれます。

  • 最高は唯一

だから、世界はフラットになるわけです。世界中がマクドナルドで覆われたように、ショッピングモールで覆われたように、世界中のどこで売っているものも同じだし、そもそも、親が「同一」になるわけです。
...まあ、究極の共産主義社会ってことなんでしょうね。
大事なことは、一般意志2.0は、「一つ」だということです。この計算主体は、「同一」なのです。ということは、同じ問題を投げ入れれば、

  • 同一の答え

が帰ってくる、ということです。つまり、世界は金太郎飴のように「同一」になる、ということです。
言うまでもなく、こういった世界は「鬱」になって、ハーメルンの笛吹きのように集団自殺をするでしょう。なぜなら、多様性がないからです。自ら多様性が生み出される「可能性」の芽を摘んでいるのですから、

  • 「全員が幸せ」になって「全員が滅びる」

というわけです。そもそも、この世界には「人間」がいらない。両親がホログラフィの幻想であるように、子供も「ホログラフィの幻想」で必要十分です。もっと言えば、フラクタルシステム自体が「ホログラフィの幻想」でいいわけです。だって、それで誰も困らないのですから...。