若田部昌澄『ネオアベノミクスの論点』

経済学って、ほとんど人口に膾炙していない理論であるけど、そもそも、金相場制と固定相場制と変動相場制って、まったく違うんですよね。つまり、このそれぞれによって

  • お金の「定義」が違う

わけです。これって、よく考えたら、すごいことですよね(そういう意味では、世界中のほとんどの人の感覚は今だに「金本位制」なんだろうな、と思うわけだが)。それで、なぜその「違う」ということに、人々が驚かないかというと、その差異を国家という「巨大な<安心>装置」が吸収しているから、なのであろう。
そして、今ほとんどの国家が採用しているのが、変動相場制なのであるが、この場合に、なにが変かって、その一番、典型的にあらわしているのが、「国家の借金」ですよね。

ちなみに、メディアの報道などでは、国債の発行額を「国の借金」と呼ぶ表現が定着していますが、通貨発行権のない民間主体の借金と、発行権のある統合政府の国債発行額は、本来同じ比喩で語ることはできません。さらに言えば、もし「借金」にたとえるとしても、借金経営よりも無借金経営が優れているという根拠は薄いと言わざるをえません。重要なのはどれだけの利益を生み働く人たちにどれだけ配分しているかではないでしょうか。それは国家も同じで、適正な範囲の「借金」でそれに見合ったサービスが提供できているのであれば、それは望ましい状態なのです。

そういう意味において、国家の借金を「借金」と呼ばない方がいいのかもしれない、とも思わなくもない。例えば、このように考えてみるといい。国が借金をするということは、そのお金を貸している、つまり、国家からの利子で利益をもらっている国民がいる、ということを意味する。もちろん、その人は「得」をしている。利子をもらっているんだから。そして、言うまもでもなく、その借りたお金で、公務員の給料は払われているのだから、公務員には不満はない。さて。一体、だれが損をしているんでしたっけ?
つまり、どういうことか? もちろん、国家が好景気で、国に入ってくる税金が多ければ、借金なんてする必要はない。しかし、国は「国民ではない」ということなのだ。つまり、国が借金をもっていても、国は国民じゃないのだから、国民の生活とは、ひとまず分けて考えられる、ということである。
どうしてこういうことになるのか。それは、変動相場制と関係している。

金融政策とは、実質金利を動かす政策のことです。金融政策は人為的に行われるものにほかなりませんから、インフレもデフレも言わば人為の結果です。十五年以上続いた日本のデフレは、自然現象や歴史の必然などではなく、金融政策によって人為的にもたらされたものだったことを強調しておきます。
通常ならば、実質金利を下げるためには、金融政策で名目金利を下げることになります。しかし、日本の場合は長きにわたって名目金利がほぼゼロの状態、いわゆる「ゼロ金利」状態でした。金利はゼロからさらに下げることはできませんが、このとき予想インフレ率を上げることができれば名目金利はゼロのままでも実質金利は「マイナス」(銀行に預けておいたり、現金のまま保有しておいたりすると価値が目減りする状態)にすることができます。実質金利がゆるやかなマイナスの状況が続けば、お金を銀行に置いておくよりもモノやサービスと交換したほうがトクになるので、退蔵されていたお金が人々の間に回り出すようになります。これがすなわち、デフレ脱却に必要なことなのです。

多くの人が勘違いしているが、そもそも、民主党政権のときだって、基本的に日本は金融緩和政策を行っていた。それで、不十分かどうかという差異があっただけであって、基本的な金融緩和の方向は変わっていない。
金融政策の特徴は、それが一体、だれにとって得であって、だれにとってそうでないのか、といった議論が可能なことであろう。つまり、ある解釈によっては、金融緩和は、お金持ち優遇なんじゃないのか、と言うこともできる。
そもそも、円安になっているということは、国力の低下と言いたくなるであろう(実際、GDPは少なくなる)。日本人が海外旅行を躊躇するかもしれない。海外からの輸入が高くなるのだから、人々の生活もそれに伴って苦しくなる。また、退蔵されていたお金が向かう先は、言うまでもなく、株やFXなどとなるわけだが、一般庶民ばそもそも、株なんてもっていない。つまり、恩恵を受けない。そもそもお金が余っているわけで、それでも株にお金が向かうということは、危険なリスクの高い株に向かうということであり、必然的に「バブル」を結果する、と考えることもできる。
しかし、考え方ではあるが、「雇用対策」としては、一つの「ショック療法」としては、分からなくはない気はしてくる。今まで、日本は「失われた20年」として、悲惨な新卒採用の買い手市場が続いてきた。それが、少しでも緩和されると考えるなら、これは、一つの

  • ショック療法

としては、理解できるのではないか、という意見もあるのであろう(日本のさまざまな福祉政策が、新卒一括採用を前提に作られていたことを考えるなら、この変化は重要である)。
しかし、そのように考えてくると、ある疑問がわいてくる。なぜ、リフレ政策はここまで「毛嫌い」されてきたのか、という。

しかし二〇一〇年ごろから、海外各国では対GDP比での債務残高や財政赤字の大きさの増大を受けて、緊縮路線への転換が始まります。特にユーロ圏ではギリシャやスペインなどで国債金利が急上昇し、財政危機が取り沙汰されたことで、緊縮政策への転換が加速しました。
その結果どうだったか。緊縮政策は各国のGDPを低迷させ、失業率の上昇につながり、思うような財政再建をもたらしていません。おのために二〇一二年ごろになると、緊縮政策に対する批判が強まり、これまでは緊縮政策の推進者であった国際通貨基金IMF)ですらも、緊縮政策が行きすぎると財政再建がうまくいかなくなる危険性について警告し始めます。
さらに象徴的な事件が二〇一二年四月中旬に起きました。これまでの緊縮政策の論拠の一つとされてきたのは、カーメン・ラインハートとケネス・ロゴフハーヴァード大学教授)が二〇一〇年に発表した論文(Reinhart and Rogoff 2010)で、「債務残高の対GDP比が九〇%を超えると、実質経済成長率が急激に減少する」という相関関係を示したことから大きな話題を呼んだのですが、この論文のデータ処理に重大な誤りがあることが判明したのです。
実際のところ、ロゴフとラインハートのデータ処理の誤りを正しても、債務残高対GDP比と経済成長率のあいだに負の相関関係が、つまり一方が増えると他方は減るということがよく起こるという関係があることは変わりません。ただ、その程度は実質成長率が急激に減少するというものでもありません。
しかし問題は、各国の政策担当者の多くが、この相関関係をあたかも因果関係であるかのように理解していたことにありました。つまり、債務残高対GDPが九〇%を超えることにより、経済成長率が下がると解釈されていたのです。論文の欠陥が明らかになったことは、緊縮政策歓迎のムードを変えることになりました。

まあ。言うまでもなく、IMFとは財務省が多くのお金をだして支えている機関であり、そのようにして財務省の本音をIMFが代わりに代弁してきた関係が、現在の日本の消費税増税戦略なわけであろう。
リフレ政策を財務省が嫌がるのは、この政策が本当の意味での「財務省益」と関係ない関係があることに、薄々気づいている、というところにあるのではないか、と思っている。つまり、リフレ政策なんてやっても省益にならない。だから、やることへのモチベにならない。
おそらく、リフレ政策というのは、数学の解析学を実数の範囲で行っていたのを、

の範囲に広げる「理不尽さ」のようなものを、どこかに感じさせるのであろう。普通に考えて、こんなものが成功するはずがない。そう「直観」が告げている。まあ、実際に今の状況をどれだけ、世界的な石油安が救っているのかを考えると、あながち間違ってはいないのかもしれないが、私たち素人にとって、なにか結論めいたことを言うには、そこまで専門家ではない、といったところであろうか...。

ネオアベノミクスの論点 (PHP新書)

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