藤田直哉『文化亡国論』

例えば、エヴァンゲリオンとか伊藤計劃でもいいのだが、こういった作品が実際に何を描こうとしていたのかと考えてみると、なんらかの意味での、ペシミズム、つまり、悲観論なんですよね。
それは、人間への悲観論。人間をそれそのものとして評価できなくなった。人間が生きていること自体がすばらしい、と言えなくなった。
例えば、医療を考えてもいい。ある薬を飲むと、長生きする。ある薬によって、肉体そのものになんらかの作用をおよぼすと、人間が「なにかそれあらざるもの」に変わる。こうして変わったものを、それそのものとして「肯定」するということは、人間が人間でないものに変わることを肯定している、と解釈できる。
これはなんなのか、と考えてみると、つまりは、人間の「単純化」だと言うこともできる。人間を単純にする、ということは、人間を「機械」にする、と言うこともできる。人間を、プログラミング言語にする、と言ってもいい。
もっと言えば、人間が生きていることの「神秘」を、非神秘化する行為だと言うこともできるであろう。ヴィトゲンシュタインは、世界があること自体が神秘だ、と言ったが、こうして、世界があると言っているのは、人間くらいしかいない。しかし、コンピュータだって、その意味を分からず「世界がある」と言うくらいならできるわけで、そう考えるなら、人間が「世界がある」と言うことの意味を分かっていると言うこと自体も、なんだか怪しくなってくる。
さて。人間とコンピュータの違いってなんだろう? 人間はコンピュータと違う、なにか「神秘」的な存在なのだ、事実、そのコンピュータを生み出したのが人間なのであって、反対ではなかったのだから、と言われると、確かにそんな気もしてくるが、ここで考えようとしていることは、そういうことじゃない。
毎日、薬によって、体を変えられて、だれかにコントロールされ、

  • 管理

されるようになった「人間」。これが、エヴァ伊藤計劃の考える未来社会であった。そこにおいては、もはや、人間は過去の人間ではない。この人間が生活する社会とは、あらゆる人間が生活している周辺にある「対象」を

している社会となった。それらがそのようにあるのは、人間がコントロールしているから、ということになった同様に、人間そのものも、ある人間が「コントロール」しているから、このようにある、としか言えない、なにものでしかない、ということになった。
人間が人間を管理するということは、人間を「単純化」することだと言ってもいい。それが「動物化」の意味であるが、そのように変えるということは、単純に人間が人間を「支配可能」なものとして、一つの「共存形態」として選ばれたなにかであったとしても、それは、動物化というよりも、

  • 機械化

の方がより正しい表現だということになるであろう。文明の発達によって、人間が人間についての「知識」を蓄積すればするほど、人間の「アルゴリズム」に人間自身が精通していく、ということを意味する。
人間が人間をコントロールする、ということは、別の言葉で言えば、人間が人間を麻薬漬けにする、と言っていることと変わらない。つまり、これは、ある意味で、第二の阿片戦争なのである。阿片戦争は、その麻薬を使って戦争を仕掛ける側が、その国家の「外側」に想定されていたが、第二の阿片戦争は、自分の中から麻薬戦争を仕掛ける。つまり、自分が自分を麻薬漬けにするわけである。つまり、麻薬漬けにされることを、

  • 自分の意志で選ぶ

という構造になっている。
人間はノイズの産物である。なぜなら、私たちはその人の人生を生きてきたわけではないのだから。つまり、その人の人生を選び直すことができないのだから。つまり、不透過なのだ。必然的に相手に「共感」できない、なにか「おぞましい」ものを相手の中に見出してしまう。しかし、それは人々を「不安」にさせる。
近代国家は、「安心」革命である。あらゆる「不安」は、大衆の反乱に結果すると考えるなら、それが想定される事態は、「エリートパニック」になることを意味する。よって、あらゆる情報は、国民を

  • 安心させるための手段

といった様相を示すことになる。すべての情報は私たちが「気持ちよく」なることを結果しない限り、フィルタリングされ、淘汰されることになる。私たちを不安にさせ、体調を崩させることになる可能性のある情報は、結果として、表に現れることはない。そういう意味において、近代国家は必然的に

をとりつくろうことになり、現実との差異に悩まされるようになる。見たくないものを見ず、見たいものだけを見る。これはむしろ、人間の麻薬化の一つの過程を意味しているとも言えるであろう。つまり、人間の精神が現実に耐えられないわけである。
それは言わば、人間の「共感」能力に関係しているとも言える。アイドルの自殺によって、そのアイドルの信者たちが次々と自殺をするように、人間はハーメルンの笛吹きによって、集団自殺によって滅びる。
人間の機械化とは、人間の概念化と言い換えてもいい。人間が「測定可能」である限り、人間の終わりは避けられない。人間の終わりとは、人間の機械化のことである。もっと言えば、人間の

  • フラット化

と言い換えてもいい。この時点においてもう、なにか人間を特徴づけるものは存在しなくなる。人間と人間以外のその他を、なにかで区別できることが不可能になる。つまり、人間とは

  • ただの情報量

を言い換えただけのなにかでしかなくなる。

藤田 多分、神や超越性を失ってきたときに、新しい人間観や、アイデンティティの安定感の基盤として、そのような身体に期待が集まっているのだと思います。そこから新しいアイデンティティを立ち上げようとする試みがサブカルチャーの一部の先鋭的な作品で行われてきている。
集合的無意識」の話に戻りますが、データの集まりが超自我的に機能して、気づかないあいだに自分を動かしているという感覚が浸透しているからこそ、伊藤計劃さんの作品は広範に受け入れられたのだと思います。「虐殺の文法」が自分を虐殺に向かあせるという『虐殺器官』、そして etml という感情を操るタグが出てきたり、体に埋めこまれた医療機器がネットを通じて行動を指示する『ハーモニー』、これらは二つ合わえて百万部近く売れて一つの時代区分を生みだす存在になりました。それは多くの人たちが、身体にたいしてプログラムを埋め込まれるような社会に生きているといううっすらと感じていたことを、伊藤計劃を読むことではっきりと掴み取ったからではないでしょうか。つまり、広義の「ゾンビ感覚」を、伊藤計劃は捉えていた。

未来社会とは何か?
それは、あらゆる「理念」の実現を意味する。その一つが

  • 外延と内包と<統一>

である。つまり、

  • フラット化=概念化

である。世界は、概念で記述可能になる。それは、実際に、そういった事態が生まれることを意味していない。そうではなく、それは

  • 国家の全体化=国民の麻薬漬け化

が「完成」するという形で生まれる。つまり、人間の「敗北」という形で。
この事態をなにか「悲劇」のようなものと考えてはならない。私たちは、自らの意志で、自らの内なる声に導かれて、主体的に「奴隷になる」ことを選択する。人間が人間でないものになることを選ぶわけである。
ハーメルンの笛吹き。自殺という悲劇が、人間が全員で死を選ぶ。それは、人間がもう「生きていない」という形でしか示されない倫理をそこに見出そうという行為。私たちは過去、悲惨な人生を受け入ることしかできなった

  • 彼ら

のために、自死を選ぶ。なぜなら、それしか、自らの「共感」に答える手段を見出せないから。
死は倫理的に正しいだけでなく、倫理的に美しい。私たちはその魅力に逆らえない。私たちは、死という光に包まれて、納得の中、そういった「進化」を生きるわけである。
ところが、この人間の「死」の後とは。なんなのか?
それが、「ゾンビ」である。
ゾンビは人間の「未来」の姿である。人間は「人間」であることに耐えられなかった。人間が人間であることが倫理的に許せなかった。もしも君が正しいなら、僕は「ゾンビ」になるべきだ。「ゾンビ」は、あらゆる答えとして、私たちの前に現れる。私は自分の真実をゾンビになることによってしか示せない。
ゾンビはプラトンの言う「イデア」である。
人間はあらゆる「恩讐の彼方」において、死=ゾンビという「答え」を見出すわけである...。

文化亡国論

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