中原圭介『格差社会アメリカを追う 日本のゆくえ』

早い話が、経営者と株主が、半期ごとに

  • 利益をあげたい

と考えたときに、一番、簡単な方法は「会社を売る」ことであろう。株主はどうせ、会社が傾きだしたら、その株が高止まりしている間に売り抜ければいい。経営者も、その間に「トンズラ」すればいい。
さて。
それで困るのは誰であろう? 言うまでもない。労働者である。労働者は、自らの技術で、賃金を稼いでいかなければならない。その手段である会社がなくなるわけにはいかないのだ。

イギリスは、かつて「ゆりかごから墓場まで」と言われたほど福祉が充実した国でした。この福祉政策は19世紀の労働者の参政権の拡大によって始まったもので、第二次大戦後には一段と制度が充実し、労働規制・所得税の強化とともに、イギリスにおける格差を著しく縮小させる役割を果たしました。
しかし、自分で稼がなくても生活に困らないという福祉政策が、国民の勤労意欲を低下させたとみなしたサッチャー首相は、福祉予算を削減し、労働規制を緩和して企業が人員削減を行うことを容易にし、減税で企業や個人の勤労意欲、投資意欲を高め、官営部門を次々と民営化して、競争を促進しようとしました。
レーガン大統領の政策も同じです。とりわけ経営者と労働者が対立したとき、はっきりと経営側についたのがレーガン大統領でした。
1981年、アメリカ全土の民間空港で航空管制官がストに入った時、レーガン大統領は「連邦政府の職員である航空管制官には、ストライキ権はない」として、ストに参加した管制官全員を解雇し、組合員ではない新しい管制官を大量に新規採用しました。
これをきっかけとして、アメリカの経営者は組合に入っていない労働者を利用し、平然とスキャッブ(スト破り)をするようになっていきます。

これが、いわゆる新自由主義と呼ばれる「ビジネス・モデル」である。どうやって、お金を儲けることが、「合理的」か。それは、よりドラスティックに、急激に「変化」「差異」を生み出すことである。つまり、より急激に会社を傾かせることが、最も

  • インサイダー

にとって儲かる、ということになる。しかし、よく考えてみると、株主にとっては、それで十分なわけである。だって、なぜ「その会社」なのかの、合理的な理由などないのだから。儲かるなら、別の会社の株でもいい。彼らは儲かるかどうかにしか、関心がない。儲かった後に、勝手に倒産してくれることは、まったく無関心。
こうして、アメリカの企業は、急激に「持続可能性」において、不安定な経営が増えていく。
少し冷静になって、冷戦終了以降の世界経済を考えてみると、まず、冷戦中には「経済外」地域として無視されていた、旧社会主義圏の労働市場が大量に資本主義市場に入ってくることによって、アメリカや日本といった国々の労働市場が徹底的に破壊される。
世界的に、経営者と株主による「談合」によって、ジャパン・パッシングならぬ、

  • 国内労働者パッシング

が起こる。労働力は国内市場から調達するものではなくなり、旧社会主義圏を中心とした発展途上国が青田買いされていった。
それが、いわゆる日本における「失われた20年」と呼ばれていた時期ということになるであろう。
この、ほとんど未来永劫に続くと思われた時期の間に、一体、何が起きたか。
まあ、言うまでもなく、中国の経済発展が起きた。中国は世界の工場と呼ばれるようになった。しかし、それだけで終わるわけがない。働いた労働者には、それに見合った「賃金」が払われなければならない。中国国民は当然、それ相応の「賃金」を、グローバル企業に要求するようになる。
つまり、中国は確かに物価も相応に上がったのだが、それ以上に「賃金」が上がった。
では、そんな「厳しい時代」に日本企業は何をしていたのか。

コマツに見るように、日本型経営では企業は不況時には利益を犠牲にしても雇用を守ろうとします。これは、株主の力の強いアメリカでは難しい対応です。
板垣さんが指摘されているように、不況のときにも雇用を守ろうとする日本企業の行動が、好況時における思い切った設備投資や新規雇用の遅れにつながり、日本全体としての成長率の低下を招いたということは、確かに事実であろうと私も思います。
言い換えれば日本では、いわば官民が株主を無視して雇用を優先した結果、利益と成長率が慢性的に下がったのです。そう考えると、バブル崩壊後の20年は決して「失われた」わけではなく、むしろ日本企業が自らの成長を犠牲にして会社の、そして日本社会そのものの連帯を懸命に守った20年だったお言えるのではないでしょうか。
この間の日本人の努力を無視して、これを「失われた20年」と呼ぶのは、欧米の価値観に基づく経済史観の押しつけに他ならないと、私は感じています。
日本企業が事業縮小の後ろ向きだったのは、社員は一つの会社を定年まで勤め上げ、会社はその貢献に報いて解雇はしないという、一種の社会的あ契約があるからです。日本企業の経営者はこの従業員との信義を重んじ、短期的に赤字に陥ったり、景気低迷でゼロ成長にとどまろうとも、完全雇用を維持し続けたのです。
欧米のエコノミストが、バブルが崩壊し日本の経済成長率が低下した1990年代以降の20年を「失われた20年」と呼ぶのは、日本人の価値観を無視して欧米の考え方を押しつけているにすぎません。日本企業にとって雇用を維持するために成長を犠牲にすることは、株主を儲けさせる代わりに自分の仲間を売ることであり、決して時間を無駄に過ごすことなのではなかったのです。

私はこの通りだと思っている。しかし、そうだとすると、私が話が通らないと思っているのは

つまり、ベビーブーマー・ジュニア世代だと思っているわけである。確かに、日本の企業は雇用を守った。それは立派なのであろう。しかし、よく見てみると、どこの企業も、バブル崩壊後の混乱期から、ここで言う「失われた20年」の間、非常に新規採用を制限した。どこの会社も、ちょうどその「世代」が抜けている。数えるほどしかいない。
というかさ。
そうなることは分かっていたはずだよね。日本の国家だけでなく、日本社会が。そういった厳しい状況をとらえて

  • 今は「サバイバル」の時代なんだ

って、この本が示唆しているような、アメリカの雇用状況と比較して「啓蒙」した議論が流行した。なんか、ちょっと「甘ったれたことを言うな」みたいな、厳しいことを言うと「うける」みたいな、ふわっとして曖昧な議論が、もてはやされた(ゼロ年代なんて、典型的にそうですよね)。
ばかばかしい話だな、と思ったわけである。
なんのことはない。私たち日本社会は、この世代を「見捨てた」のであろう。彼らをスケープゴートにして、まるで、こんな世代なんていなかったかのように、無視して、今の「栄華」を謳歌している。そして言うのであろう。「かわいそうな人」
果して、こんな非倫理的な日本社会なんてものが、この先、生き残っていく「価値」があるんですかね...。

格差大国アメリカを追う日本のゆくえ

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