『ガルパンの秘密』

文化というのは、突然、私たちの前に現れる。
つまり、「突然」ということは、これは、「時代」なのだ、ということになる。コンテンツは「事件」として、顕現する。
これが「文化論」というわけである。しかし、こういった視点においては、ある意味において、一部の「天才」が、この時代を「解釈」するといった、どこか、リチャード・ローティのような「エリート」論の臭いがしてくるわけである。
文化とは「天才」による、時代のスナップショットだ、と。
しかし、こういった視点に欠けているのは、「集合知」だ、ということになる。ということはどういうことか、というと、単純に「科学」だ、ということになる。もう少しくわしく言うなら、「統計学」であり「経済学」だ、と。
つまり、最初に戻るなら、

  • なぜ、その作品は「私の目の前」に現れたのか?

を真面目に考えていない、ということなのであろう。
つまり、私たちはここで「深夜アニメ経済学」を行わなければならない。

それまでも深夜にアニメが放送されることはあった。だが、現在の深夜アニメにつながるスタート地点はこの1996年だった。それは現在の深夜アニメのビジネスモデルが確立したのが、1990年代半ばのこの時期だったからだ。
従来のアニメは、玩具会社などがスポンサーとなって制作費と放送料を支払う仕組みで作られていた。番組内容については今以上にTV局の意向が強くはたらいた。これに対し、深夜枠はビデオメーカーなどが中心となった制作委員会が放送枠を買い取り、そこで自分たちが制作したアニメ作品を放送し、DVDやBlu-rayなどを販売してリクープ(コストを回収)する仕組みで成り立っている。つまり深夜枠は、パッケージソフトのプロモーションとして、その内容を無料で視聴してもらうための場所ということになる。
各個の作品がヒットするかは未知数。とあるとリスクをヘッジする意味でも作品は多いほうがいい。その結果、1クール(13話)で完結する作品が多数作られるようになり、2006年には放送本数のピークを迎える。
藤津亮太「序論『ガールズ&パンツァー』成立の背景」)

つまり、ここで何が言いたかったかというと、明らかにこれ以降、「深夜アニメ」という「新ジャンル」が誕生した、ということを意味しているわけである。
つまり、それがなにか、ということになるのだけど、ようするに、

  • 微妙

な作品が多く作成されるようになった、ということなわけである。まあ、普通に考えて「分かりにくい」ということである。つまり、一定のリテラシーがないと、うまく視聴できない。こういった、チャレンジングな作品が増えた。
それまでのアニメ作品というには、早い話が、夕方の子どもが見ている時間に、その子どもたちの「一定数」が

  • 必然的

に「見る」ということを担保しない作品は作れなかった。つまり、作成側が、どこまでも視聴者の「価値観」の従属的な作品が多かった。それが、一挙に「作成側オリエンテッド」なコンテンツ作成環境に、しかも、作品の数の「インフレーション」を伴って、変化した。
では、ここで言う「微妙」な作品とはなにか、ということになるのだが、私が一番分かりやすく、また、「典型的」な傾向として言えるのが

  • 日常系

なのだ、と思うわけである。

ただ『ストライクウィッチーズ』と『ガルパン』が大きく異なるのは、『ストライクウィッチーズ』が男性ファンを意識し、セクシーなシーンを様々に盛り込んでいたのに対し、『ガルパン』はそうした描写をストイックに排している点だ。
この清潔感は『ガルパン』の脚本を担当した吉田玲子がシリーズ構成として参加した『けいおん!』を思い出させる。
藤津亮太「序論『ガールズ&パンツァー』成立の背景」)

日常系の特徴は、まあ、早い話が「大きな物語」を止めているということになるのだが、つまり、「結局、何が言いたかったの?」と言いたくなるような、「小ネタ」ですべてが構成されている、ということに尽きるであろう。ようするに、この人なにが言いたかったの、と思うようなことは、日常では、あまりに「当たり前」であるわけであろう。ところが、こういった「文学」において、それは「タブー」であった。なにかのメッセージが明確でないものは、評価されない。まあ、評価のしようもないわけで、必然的に、評論家に相手にされないので、文学賞のような評価が出版側からもされないため、大衆の目にふれるところまで行かない。
そういう意味において、日常系のブームは、ネットを中心とした

の結果だと言うこともできるであろう。視聴者は単純に「快楽」の話をしている。つまり、見るということがなんらかの「快感」につながっている、ということを意味しているのであって、それは、作成側の「快楽」とも関係している。確かに、作る側も「ふざけて」作っているのであろうが、そのことが、「視聴者を馬鹿にして」質の低い作品の出来であることを結果しない。それなりに、一定の質を担保して、他方で、作品の作成側が、自らの

  • 視聴者を馬鹿にして、差別して、視聴者を自分より「低い」劣等者扱いをする

といったような、視聴者を「挑発」するような、作成者と視聴者の間に、ギスギスした対立の関係を「意図」したものになっていない。
例えば、哲学というものを考えてみよう。哲学は「真実」を記述するものである。そうすると、この世界にあるものは「物理法則」だけだから、

  • 善など存在しない

ということになる。つまり、一切の「善」は

だ、と言っているわけだ。善が嘘なら、どんな貧富の差も「肯定」することになるし、どんな「かわいそう」な人も「しょうがない」ということになる。
そういう意味で、哲学とは「お金持ちで東大に入った連中が、貧乏で大学進学をあきらめた連中を<しょうがない>」と

  • 挑発

する学問だ、ということになるであろう。もっと言えば、こうやって「お金持ちが貧乏人を馬鹿にする」快楽を満たすためのツールとして機能していることがわかる。人間は差別が楽しい。これはニーチェの超人における「反語」的な意味であったわけだが、人間が差別が楽しいということは、「お金持ちは貧乏人を差別することが楽しい」という事実を導出する。しかし、この場合、哲学者が言いたいのは

  • でもそれって「現実」でしょ?

というわけなのだ。むしろ、差別は「事実を言っただけ」というわけである。
こういった延長に作られる、つまり「哲学者が作ったアニメ」は、いわば「問題系」ということになるであろう。製作者は、視聴者を「挑発」し「馬鹿」にし、「差別」をする。それによって、製作者は

  • すかっと

して、自らの「ストレス発散」をする。作品制作とは、自らのストレスを発散させるものであって、自分がそれによって「復讐」を果たして、ルサンチマンを解消できたら、あとはどうでもいい。まあ、それは最も「一般的」な

  • 芸術作品

の形態ではないのか、と言いたくもなるわけであろう。ほとんどの芸術なんて、その意図は、自らの「差別感情」をだだもれさせたものでしかないのではないか。事実として、「人間の真の姿」なんて、そんなものではないのか。
そういった意味において、「問題系」は「日常系」に対立している。日常系はそういった「問題系」が内包しているような「芸術=差別=作成者による視聴者に向けての<喧嘩ごし>の態度」を

  • 意図

しない。

----本作のシナリオ作りで吉田さんがあえて禁じ手にしたような要素はありましたか?
そうですね......。戦う相手の敵将に卑怯な真似をさせないということですね。戦車道というもの自体を歪ませるようなキャラクターは作らないというのが基本にあります。たとえばサンダース大付属高には卑怯な手を使うメンバーもいたのですが、それに対して隊長はNOと言う、大将としてふさわしい堂々とした態度は守るようにしました。戦車道では傷つかない設定にはなっていますが、やはり戦車という武器を扱っているので、それを操る人を嫌な人間として描きたくはなかったんです。ちょっとユーモラスだったり可愛らしかったりするのがこの作品のよさなので、ダメな感じはあっても嫌な感じにはしたくないという、その上で戦った後でも清々しく、ちょっと爽やかな感じが残るといいなと思っていました。
(吉田玲子「「戦車道」--それぞれの道を切り開いて」)

例えば、スポーツを考えてみよう。学校のスポーツの目的は「教育」である。つまり、これは「ゲームではない」わけである。一見すると、ルールがあるわけで、「ゲーム」だと思われるが、本気のゲームではない。本気のゲームなら「ルール内なら、どんな手段を使ってもいい」という意味となり、「教育」的な意図に反してしまうわけだから。
しかし、そのように考えてみると、この日本社会そのものが「日常系」だと言えないわけでもないわけである。みんな、他人のことを思いやって生きているわけであるし、日本はこうして、比較的に平和だと言いたくもなるわけですし。
そう考えると、むしろ「問題系」は、逆にリアルじゃなくなる、側面が強くなるわけである。確かに、人間を無意識の領域までさかのぼれば、だれでも嫌な奴が死ねばいい、と思っているのかもしれないけど、それなりに表の意識においては、体裁もあるわけで、そういった感情は抑圧されている。それを無理矢理「真実に目覚めろ」と、自らの内面の悪が描かれていない限り、作品は真実を描けていない、っていうのも、一種の「露悪主義」ってわけでしょう...。