『"日常系アニメ" ヒットの法則』

フロイトの言う「無意識」って、結局なんなのだろう、というと今だに、うまく説明できないっていう、この状態ってなんなのだろうな、と時々思ったりするわけである。
まあ、日本語が悪いのかもしれないが「無意識」って、「意識じゃない」と言ってるだけですからね。やれやれ、って感じでしょう。
しかし、フロイトの着想が、もろ、「ニーチェキリスト教批判」から来ているのではないか、と考えると、ある程度の見通しができるのではないか、と思ってみたりもするわけです。
ニーチェの言うキリスト教批判を、もう一度整理してみると、キリスト教徒は

  • 自分を嫌悪している

というわけである。つまり、最初から自己評価が低い。自分が嫌い、というわけです。これってなんなのだろうと考えてみると、旧約聖書の「原罪」なんだろうな、と思うわけです。アダムとイブの知恵のリンゴでしたっけ。ようするに、キリスト教徒は

  • 産まれた時からすでに、「罪深き存在」だ

というわけです。まさに、産まれてすみません、の世界なわけであろう。
でもこれって、新興宗教の人格改造セミナーとかではよくある話ですよね。最初の入信した時期に、徹底的に人格を壊される。とにかく、意味不明に罵倒され続けて、人格を隅々まで壊され続けて、その最後に、まわりの信者が笑顔で、迎えてくれるイニシエーションを行うことによって、「共同体の一員」になるための、手続きとなるわけだ(エヴァの最終話を思い出しますよね、みんなが回りで笑顔で拍手して迎えるんですよねw)。
自分に罪がある。という感覚は必然的に、「自分を罰してほしい」というマゾヒスティックな態度へとつながる。しかし、ここにパラドックスがある。自分を罰してほしいと思っているのに、自分にはそうやって罰されなければならない「理由」が、どうしても心の中に見つからない。ということはどういうことか? この自分が今、罰されようとしている状態は「理不尽」だと思っている、ということなのである。つまり、どういうことか?

  • なんで自分だけ罰せられなければならないのか?

ということなのである。キリスト教世界は、まず、自分の「罪深さ」が「自明」となるところから始まる。すると、何が起きるか。自分と同じ

  • 悪党の道に手を染めた悪人たち

への連帯意識のようなものが湧いてくるわけである。まあ、ヤクザと同じである。自分がなんか犯罪を侵した。相手もなんかヤバイことに手を染めたみたいだ。お互いは、お互いで「悪の行為に手を染めた事実を知っている」という一点において、相手の弱味を握っているがゆえに、妙な「連帯感」が生まれる。お互いがお互いにばらされたくないから、お互いがお互いの言うことを聞く、という関係である。
自分も犯罪者として、しゃばでは肩身の狭い生き方しかできないから、相手の「つらさ」がわかる。つまり、共感する。まあ、一種の「パターナリズム」になるわけである。
相手の「気持ち」が俺には分かる。そう思うからこそ、相手から反共同体的な態度をとられると、その「憎しみ」を止められなくなる。
こちらは、相手の気持ちがパターナリスティックに「分かる」と思っているから、相手の

  • ため

に、なにか「善行」を行う。ところが、相手が

  • 無視してきたら
  • こっちの善意を逆手にとって、こっちをあざむこうとしてきたら(=サッカーで言う、マリーシア

ふつふつと煮えたきるような「憎しみ」が、相手に対してわいてくる。
しかし、そもそも、自分は「相手のため」に、なにかをしようとしていたはずなのに、それを拒否されただけで、怒髪天をつく。だっったら、

  • その善意は偽物だったのではないのか?

ということになる。「相手のため」に行っていた行為を拒否されると怒りがわいてくるということは、ようするに、

  • 自分の善意の行為

に対して、は「コントローラブル」な範囲で相手が行動しなければ、許せないのだから、つまりは

  • 善意が「強制」に、裏側では変わっている

という関係になっているわけである。

  • 自分は相手が罪深いことを知っている(なぜなら、自分が罪深いから)
  • よって、相手は「自分の善意」を感謝しなければおかしい(自分は相手の罪を知っているのだから)
  • よって、相手は「自分の善意」に逆らうことはあってはならない。絶対に感謝の心をもたなければならない(だって、そうにきまっているから)

まあ、典型的なパターナリズムなんだよね。
この関係において、最初の出発点が絶対的な「自分の善悪がマイナス出発」をしていることが、その人のその後の全てを歪んだ価値観によって、「正当化」していることを理解できるであろう。
ニーチェはこれを「弱者」「強者」の用語によって説明したわけだけれど、こういった構造は、別に、本当の意味での弱者、強者ばかりにあてはまるわけではない。
例えば、苦労をして東大に入った子どもは、高校生時代、勉強ばっかりやっていたので、体育会系から「もやしっ子」と、「いじめ」られ、ルサンチマンをもっていたわけであろう。しかも、東大の入試なんて、相当なプレッシャーだったわけで。通常の子どもたちに比べて、数倍のストレスの中を、感じて「がんばって」きたわけで、

  • なんでこんな「苦労」をしなければならなかったのだ

と、この理不尽な「苦しさ」を、なんらかの「マイナス出発」として解釈した子どももいたわけであろう。
そういった、原罪の特徴は、あるダブルバインドによるパラドックスに苦しめられる。

  • これは「罪」なのだから、これにともなう罰は受けなければならない
  • これは「罪」なのに、なぜ自分がこれだけの重い罪を課せられなければならなかったのかの理由はさっぱり分からない

罪に対する「罰」を受けることは「ルール」なのだから「しょうがない」。そう思いながら、そもそもの「なぜその罪を受けなければならないのか」については、さっぱり納得していない。つまり、納得していないくせに「優等生」だから、罰を受けようとするその

  • 偽善

が、この問題を困難にしている。そもそも納得していないんだから、自分に向けられたこの攻撃は、「理不尽」だと思っている。でも自分は優等生だから、罰の命令に逆らうことをするはずがない。すると、何が起きるのか? つまりこれは、なんらかの意味における、自分への世界の「貸し」なんじゃないのか、と思えてくる。
つまり、「神に貸しをつくった存在」として、自分が世界の人間たちの中で、一歩、神に近づいた存在と感じられてくる。
まあ、ここから全てが反転するわけである。
神に近い自分が、相手の罪の重さを「共感」できるのは当然。
神に近い自分が、相手のために行った行為が「相手のため」になるのは当然。
神に近い自分のこの好意を、相手が逆手にとって裏切ってきたり、無視してきたりすることは、神に逆らっていることに等しいのだから、(自分のこの権威が神の御威光によるものなのである限り)絶対に許せるはずがない。
まあさ。
ようするに、お前が相手に「親切をしたい」のなら、その結果をうんぬんしたら終わりだよな。相手がどう思おうが、「親切にする」でない限り、こうなりますよね。
まあ、これはツイッターなんかでも同じなんですよね。俺がわざわざ、こんないいことをツイッターでつぶやいてやっている(善意)のに、それに対して、汚ない言葉でののしってくる奴がいる。しつけもなんにもなっていねえ、こういったクレーマーは自分の敵なんだから、二度と自分の平和が邪魔されないためにブロックというわけである。
しかしね。
その認識の出発点から間違ってますよね。あんたのツイートは、なんの価値もない、ただの、劣情のだだもれにすぎない。なのに、本人は本気で価値あるものと思っている。その認識のずれが、妙な「被害感情」に変わってしまっている。本当は、それは、自分の商売の宣伝であり、ステマなわけでしょう。えらそうなことを言っても、結局は自分の商売の儲けに、どこかしら貢献すると思って、つぶやいているわけで、そもそも動機が不純なわけでしょう。
たとえば、残念系という言葉がある。その意味は、ある一点を除けば、完璧に「いい女」なんだけどなー。というか、その一点があまりに大きいので、「いい女」という評価には、とても行けない、という感じであろうか。
見た目はいいんだけど、服のセンスだけは、ひどい。こんな感じだけど、こういう場合に、たいがい言われるのは、「オタク趣味の女」ということになるんでしょうねw
つまり、これは一種の「ダメ出し」なわけである。
しかしね。完璧な女なんていますかね。完璧とは「超越」である。つまり、本質は「完璧でない」というところにある。「完璧でない」から、「かわいい」(=ハイコンテクストに快感感情がわいてくる)わけでしょう。
日常系のアニメのおもしろさは、どこか、お笑い番組に似ている。ちょうど、クラスの中の「おもしろい子」というのは、どこのクラスにもいて、そういった「いつも身の回りにあった」おもしろさ、なわけである。

これは他の「日常系」と目されるアニメ作品でも同様だ。2007年にアニメ化された『ひだまりスケッチ』は、美術科の女子高生たちが暮らすアパートを舞台に、彼女たちの日々の生活を描いており、作劇上の大きなドラマも特に発生しない。にもかかわらず、『ひだまりスケッチ』は2008年の第2期、2010年の第3期まで続編が作られるほど、視聴者に受け入れられているのだ。
同じように第3期まで放送され、OVAも発売された『みなみけ』(第1期:2007年、第2期:2008年、第3期:2009年)も、南家の3姉妹の平凡な毎日を描いている。原作漫画の掲載誌や単行本の帯などには「この物語は南家3姉妹の平凡な日常を淡々と描くものです。過度な期待はしないでください」というキャッチコピーが提示されるなど、自ら「何の変哲もない日常漫画」だと宣言しているほどだ。

学校時代を思い出してもらいたい。毎日、放課後、遅くまで、なんの用事もないのに、何時間でも、だらだらと、くだらないことをしゃべっていたような友達がいたんじゃないだろうか。その「しゃべり」のおもしろさは、そんなに自明なものではない。それは、いわば、毎日、そうやって同じように、だべってきた、という

  • ハイコンテクスト

が生み出しているような側面がある。つまり、その「おもしろさ」を説明しようとすると、なかなか難しいわけである。
ある、ただの、なんともない「普通の行動」を行ったとしても、そういった

  • ハイコンテクスト

の文脈に置いてみると、いろいろと過去のいきさつと関係してきて、なんとなく「おもしろい」側面があらわれたりする、というわけである。

けいおん!』には監督の山田尚子をはじめ、シリーズ構成の吉田玲子、キャラクターデザインの堀口悠紀子など、多くの女性スタッフが参加している。男性スタッフで作った作品は、どうしても男性目線となってしまい、女の子のキャラクターを描くにしても、「男性に媚びるような仕草」が入ってまいがちになるのだそうだ。しかし、女性スタッフが多く参加したため、キャラクターの何気ない仕草にしても言葉の遣い方ひとつ取っても、「"リアルな女子高生としての可愛さ"を感じてもらえるようになったところはある」と捉えているという。

「日常系」アニメは、確かに「萌え」系なのであろうがそれは、男性の視点の女性に対する「超えられない壁」のようなものを示している、ととらえてもいい。男性にとって、女性は

  • 分析

によって、十全に記述可能なのであろうか? おそらくそれは不可能なのではないか。つまり、男性は「日常」を女性として生きていないから。つまり、男性の描く女性が「観念論的」であるのに対して、女性の描く女性は「現実的」だ、ということになるであろう。
女性の描く女性の、その繊細さは、一つの「世界観」をあらわす。
そういった意味において、「萌え」系は、社会学者の見田宗介の言う「覗き」の関係を読み取ることができる。テレビの画面の先を、私たち「おたく」視聴者は、その向こうにある

  • 女性たちが「だち」と「つるんで」だべっている

その「世界観」を、興味深く「覗いている」。そういった、別世界への「覗き」の視点が、こういった「日常系」のアニメを成功させているのであろう...。

キネ旬総研エンタメ叢書 “日常系アニメ”ヒットの法則

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