善意の逆張り

哲学とは「真実」の学問である。正しいことを言うのが哲学である。つまり、どういうことか。この宇宙に「善悪」などない。あるのは。物理法則だけだ。これが、科学の結論だ。ということは、世間で言われる

  • 善意

などというものは、そもそも「存在しない」わけである。ということは、どういうことか? 「善」などというものは、この世に存在しないのだから、ここで「善」と呼ばれているものは、

  • 善でないもの

ということになる。それは何か? この難問に答えたのが、フロイトであり、精神分析である。フロイトが用意した仕掛けは

  • 無意識

と呼ばれている。彼によれば、私たちが「善」と呼んでいるものは、

  • 無意識においては、自らのこの「善」と呼ばれている行為を行うことによる、相手からの「応答」の<期待>

だ、ということになる。つまり、善の本質は、「見返りへの期待」だというわけである。
パターナリズムにおいて、私たちは「相手のため」に、なにかを行う、ということになっている。ところが、上記の定義によれば、そもそも「見返りの期待」のない「善意」は存在しないことになる。よって、パターナリズムとは、

  • 自分のため

の行為だということになる。パターナリズムを行うことによって、相手への

  • プレッシャー

を、社会的ステータスをかさにきて、押し付けているわけである。
人間は自分のために生きている。自分が可愛い。自分が愛されたい。みんなから褒められたい。いい子、いい子って、頭をなでられたい。人間とはエゴイストなのだ。人間とは自分が幸せになるためなら、他人を不幸につきおとすことをためらわない。なぜなら、それは

  • 哲学

が究極的に発見した真実だから。この世には、善悪などない、という。よって、「他人を不幸につきおとす」ことは、悪ではない。なぜなら、この世界にあるのは、物理法則だけで、善悪など存在しないのだから。よって、

  • 「他人を不幸につきおとす」ことをやっても<いい>

というのが、哲学の結論だ、というわけである。
しかし、である。
ここで、一つの疑問がわいてくる。それは、

  • 善がないなら、悪もないのではないか?

ということである。つまり、上記の話は「フェアじゃない」わけである。
この世に「善」などない、という文系の人たちは、まさに「逆張り」で、「悪」が大好きだ。コミケの薄い本でも、残酷な結末であるほど「名作」と喜んだり、残虐に人間が人間を殺すSFほど、嬉々として、買って帰る。本人としては、そこの「善がない」という意味で、

  • 真実が描かれている真の価値がある芸術作品

と言いたいのかもしれないが、それって、普通に「悪の話」なんじゃないですかね。しかし、さっきの話から行けば、

  • 悪だって存在しない

ということではなかったのか? 悪は物理法則じゃない。ようするに、悪好きとは「善意の逆張り」なんですね。
つまり、一種の「反語」として、「善の不存在」が言われているわけです。
こういった事態にして、結局のところ、私たちはなにを行っていると言えるのだろうか?
おそらく、ヒュームであればそれを「慣習」と言うのかもしれない。
哲学者が、この世に善悪は存在しない、あるのは物理法則だけだ、と言うのであれば、この世には芸術もないし「価値」もない。すべては無意味だし、私たちが生きていること自体が、ただの無駄死にを、何十年かかけて行うための、時間の労力とエネルギーの無駄ということになるであろう。
人間が、この地球に生まれたことには、なんの意味もない。私たちがこうして、毎朝早く起きて、仕事にでかけて、必死になって働いて、疲れる毎日をがんばっていることには、なんの意味もない。
そもそも、この世に意味はない、というのが、哲学者の答えだ。
人間が生きることには、なんの神秘もない。人間はただの、物質の塊にすぎない。ちょっと強い力でなぐれば、すぐに壊れるような、弱々しい存在であり、ちょっとした、環境の変化で、一瞬にして、地球上から滅びる。私たちはなぜか、未来においてそうなることが分かっているにも関わらず、今、こんなに苦労をしている。
そういう意味では、人間は「馬鹿」である。
しかし、ヒュームに言わせれば、そういった

  • 全て

のことは、どうでもいいわけである。ヒュームに言わせれば、この世に、善悪があろうが、芸術があろうが、価値があろうが、意味があろうが、

  • どうでもいい

わけである。私たちは「なぜ」生きているのか、ではなく、「どう」生きているのか、があるに過ぎない。私たちは、なんらかの「反射」を生きているに過ぎなくて、例えば、誰かから親切にされたら、そのお返しをするように、

  • そうしている

という「事実」があるに過ぎない。ただ、ファクトとしてそうするのであって、そこに「反省」や「内省」はないわけである。ちょっと恥ずかしそうにしながら、少し顔を赤らめて、「たんにそうした」というだけであって、なぜそうしたのかと問われれば、強いて答えるなら

  • そうするものだと思ったから(=慣習)

というくらいしか、言うこともない。人間は反射的に生きているに過ぎず、それがなんの意味があるのかなど考えない。それは、まさに「進化論」の結論だったわけであろう(進化論は、なぜそうするのかを説明しない。「そうしてきたから生き残ってきた」というファクトを主張するにすぎないが、かといって、未来においてまでそうだ、と言うわけではない、というわけである...)。