トロッコ問題

リベラリズムアイデンティティは、「左翼ではない」というところにある。つまり、お金持ちはどんどんお金持ちになればいいし、貧乏人がどんどん貧乏になるのは「しょうがない」というのが、基本的なリベラリズムにはある。リベラルは「格差社会」を肯定するが、左翼はそれを問題視する。そういう意味において、リベラルとはブルジョア道徳だ、ということになる。
つまり、こういう意味において、リベラリズムリバタリアニズムは、ほぼ「同値」だと言うことができる。しかし、そう言ったからといって、リベラルがさまざまな人権問題に興味がない、と言っているわけではない。
その典型的な例が、リベラルは例えば

  • 幼児虐待
  • アフリカの飢えて死ぬ子供

に対しては、非常に強い問題意識をもっている。他方で、先進国の「相対的貧困」には、まったくと言っていいほど、興味を示さない。なぜなら

  • だって別に飢えて死んでるわけじゃないだろ

と言うわけである。どこの国でも、金持ちと貧乏人がいるのは「当たり前」。つまり、リベラルは「海の向こうの遠くの苦しみ」には、これ以上ないくらいの「共感」を示すが、

  • 自分の身近にいて苦しんでいる人

には、驚くほどに「冷淡」であり「無関心」なわけである。
どうして、こういうことになるのだろう?
例えば、こんなふうに考えてみたらどうだろうか。日本中で、東大に合格する人は数えるほどしかいない。その他のほどんどは、東大に合格しない。その場合、このほどんど全ての東大に入らなかった日本人を

  • 努力をしなかった「怠け者」

と考えるわけである。それは、上記の「貧乏人」についてもそうである。努力をしなかったのだから、貧乏なのは「しょうがない」。それは逆に言えば、東大に入った自分には「それだけの価値がある」ということになる。つまり、お金持ちになる「資格がある」というわけである。
哲学とはなんだろう? 哲学とは「真実」の学問である。この世界にあるのは、物理法則だけである。つまり、善悪など存在しない、という「真実」を言うのが哲学だ、ということになる。
そのことは、逆に言えば、「貧乏人がいるのはしょうがない」「お金持ちがいるのはしょうがない」というのが哲学なのだ。つまり、哲学とは自然主義なのだ。
マルキ・ド・サドが、自らのサディズムを「自然」だと言ったのはそういう意味で、お金持ちと貧乏人の差別が「しょうがない」。お金持ちが貧乏人を差別するのは「しょうがない」。お金持ちが「幸せ」で、貧乏人が「不幸せ」なのは「しょうがない」。お金持ちが貧乏人を差別して「楽しい」のは「しょうがない」。貧乏人がお金持ちに差別をされて「くやしい」のは「しょうがない」。なぜなら、

  • すべてが「自然」だから

というのが「哲学」。つまり、哲学とは「自然主義」なのだ。
この世界は「残酷」である。つまりは「真実」なのだから、これが哲学だ、というわけである。
弱肉強食のこの世界では、お金持ちは貧乏人を「搾取」して、高学歴エリートは低学歴一般ピープルを「搾取」するのは、「当然」。なぜなら、この世界はそのようにできているから。
これが「自由」なのだ。
いかに「強者」が、「幸せ」を享受するか。「強者」が「弱者」を搾取することで、どれだけ「強者」が「幸せ」になれるのかを競うのが、この残酷なるゼロ年代の「サバイバル」だったわけである。
確かに、リベラリズムは「人権」「暴力の禁止」「殺人の禁止」などといったことを言う。しかし、それは

  • 国家の所有物である、国民の「身体」

が、傷つけられることは、

  • 国家の「損害」

だから、といった観点がある。つまり、国民の人権が傷つけられること、国民が残酷な仕打ちにあうことは、国家がそれによって「損」になっているから、見逃せない、と言っているにすぎない。
それに対して、相対的貧困は、リベラルにとって、「まだ飢えて死んでないじゃん」というわけで、問題としてフレームアップされてこない。まあ、一言で言ってしまうなら、それは

  • 左翼

なのだ。貧富の格差を縮小しなければならない、というのは「左翼」が言うことであって、彼らブルジョア道徳家にとって、左翼に同調することは死んでも嫌なわけであるw
こういった意味において、リベラルの考える世界観は次のように記述される。

  • 身体は国家のものだから、何人も飢えて死ぬことなく、食料を手に入れられ、寿命をまっとうできなければならない(これを、国家が保障しなければならない。つまり、移動の自由が制限されたとしても、国家は身体の大人化、老人化を「コントロール」して実現しなければならない)。
  • 他方において、精神は、人権思想からも「自由」でなければならない。つまり、「言論の自由」はなににおいても、保障されなければならない(逆に言えば、お金持ちエリートが、貧乏人一般人を、「嘲笑」し「差別」する「自由」が、保障されなけれなならない)。

しかし、事実の問題として、東大に入っている子供のほとんどが、富裕階層の子供なんじゃないんですか、貧しい親の子供は、進学をあきらめているんじゃないんですか、と言っても、彼らは、そのことを重要だとは考えない。なぜなら、もしもそんなことを考えたら、左翼思想について、真剣に考えなければならなくなるし、冨の再分配には「正当性がある」という主張を認めなければならなくなるから。
哲学は真実の学問である。ということは、なにを言っているのかというと、「優生学は正しい」ということになる。こう言うと「物騒」だが、たとえば、人間は生まれたときにすでに、「才能」による差異がある、というわけである。本当は、産まれたときにすでに、才能に差異があるのに、まるで差異がないかのように「扱わなければならない」というのが、現代社会だ、ということになる。
本来は、「才能」があるのに、その才能に応じて扱われない(みんなが平等に扱われる)ことは、

を考えたとき、ある意味での「逆の意味での」不公平ということになる。未来社会においては、才能のある子供が、だれとだれであるのかは分かっている。よって、そういった子供は、産まれたときから「価値がある」ので、優遇されるわけである。まさに、ナチスドイツのアーリア人のように、優遇される。それは「優生学」である。
頭の良い子供は、もしも産まれたときにそれが分かっているなら、むしろ「そういう子は産まれたときから、優遇しなければならない」。そうすることが、「人間社会にとって利益になる」から。こう考えたとき、今の私たちの社会は、「まだ誰が優生学的に優秀なのかを判定する手段をもっていない」という意味で、優生学を適用することができない。よって、

  • 本来は「優秀」で優生学的に優遇されなければならない子供が、「平等」に扱われるという「差別」を行われている

と、未来社会の人からは見える、というわけであるw
なんと、ばかばかしい、と思うかもしれない。
しかし、これが「哲学」なのである。
ようするに、どういうことであろうか?
前回も検討したように、ようするに、哲学とは「功利主義」のことなのである。

そんなあるとき、フロリダ州ジャクソンビルで行なわれたトーナメント戦で、マイアミのずば抜けて鋭いディベーターと対戦することになった。私が標準的な功利主義の口上を披露すると、相手は質疑応答で次のような質問をした。

対戦者「あなたは、人は、何であれ最善をもたらすことを行なうべきであると言っています。よろしいですか?」
うかつな私「はい。」
対戦者「それでは......ここに五人の人がいるとしましょう。全員が死にかけています。それぞれ臓器に問題があるのです。ひとりは肝臓の障害、ひとりは腎臓の障害、といった具合に。」
うかつな私「は、はあ。」
対戦者「功利主義の医者がいて、彼らを救うために、ひとりの人間を誘拐して、麻酔をかけ、いろいろな臓器を取り出し、この五人に移植したらどうでしょう。最善の結果がもたらされるではありませんか。いかがです?」

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

功利主義は、なぜ「エリート優遇」なのか?
ここで、わゆる「トロッコ問題」の別ヴァージョンを考えてみよう。この世界には、以下の二つの人間の種類がいるとする:

  • 全世界の無能なゴミ屑一般ピープル
  • たった一人の、この人類の危機を救えるほどの才能を唯一もっている天才

ここで、次のような「トロッコ問題」を考えてみよう。

  • この唯一の天才が死ぬと、この世界は救われるので、他の全員は生き残るが、この世界にはもう、その天才がいないので、いずれ、全員滅びる
  • この唯一の天才が死なないとすると、他の全員が滅亡する(この場合、その天才だけ生き延びるなら、その後、人類は滅亡する、というのは正しいが、ようするに、この天才が「恣意的」に選んだ、この人の「好み」の人だけが、この人と一緒に生き延びる、という意味)

ようするに「独裁者=天才」モデルというわけである。前者を選ぶと、ほとんどの人類が生き延びるのだから、功利主義的に正しいように思われるが、その天才が死んだことで、人間の滅亡が決定しているというのだから、実は、功利主義的には、この天才が生き延びて、他のほぼ全員が死んだ方が「功利主義的には正しい」ということを言わなければならなくなる。
ようするに、独裁者は死ぬときに、この世界の滅亡と「道連れ」にして死ぬので、だったら、この独裁者に、この地球全部を支配していてもらった方が、「功利主義的に正しい」ということになる、みたいな話なわけである。
功利主義の「敵」は部族主義者である。つまり、「道徳」に従って生きている「良い人」である。どういう意味か? 功利主義の課題は、人々が部族の掟という「本能」に従って生きているため。部族間のトラブルが絶えないことなのだ。この部族の「道徳=本能」こそが、部族間のトラブルの元凶である。功利主義は、この問題の「解決」のために選ばれた戦略なのだ。
では、こういった功利主義を実行する「主体」とは、だれであろう? つまり、この人には、どんな属性が求められているのであろうか?
言うまでもない、こういった人は、「部族の道徳に従って生きていてはならない」ということになる。なぜなら、そうだったら、正しい功利主義計算をできないから。どうしても、自らの部族の道徳=本能で計算をしてしまうため、正しい功利計算に至れない。
つまり、どういうことか?

ということになるわけである。道徳に従う人は、功利主義計算を実行できない。つまり、

という結論になる。功利主義計算を実行する、部族間のトラブルを解決する「正しい計算」を実行できる「エリート」は、自らの部族の「道徳=本能」に「汚染」されている限り、正しい「計算」が行えない。しかし、そんな存在はこの世に「サイコパス」しか存在しない、というわけである。つまり、まったくの逆説だが

  • リベラル=「悪」こそ正しい

というけであるw
哲学とは「真実」の学問である。そういう意味において、人間とは「動物」である。人間と他の動物を分ける線などない。そういう意味において、人間を特徴づけるとされた「道徳」は、嘘だということになる(部族の間のトラブルを解決するのは「道徳」ではない、と言うことは、人間を真に特徴づけるものは「道徳」でもなければ「善」でもない、と言っていることに等しい。人間とは「本能」のままに生き、「欲望」のままに生きることは、そういう意味で、逆説的に「正しい」ということになる。

  • リベラル=動物=欲望のままに生きる

さてw
どうしましょうかねw
なぜリベラリズムはこのようなアポリアにはまってしまったのか?

ここまではすべて交渉実験の標準的な設定だ。この実験ではひとひねりして、交渉人に、交渉に関する心構えを指示した。あるペアは、純粋に利己的な観点で交渉を行なうように、すなわち自分の評価を上げて出世の得になるように刑を軽く、もしくは刑を重くするように努力せよと指示された。別のペアは、道徳的な観点で、すなわち弁護士であれば被告の刑が軽くなる方がより正しいのだから刑を軽くするように、検事であれば被告の刑が重くなる方が正しいのだから刑を重くするように努力せよと指示された。
さて誰がよりよい結果を出しただろう? 利己的な出世主義者? それとも正義の追求者だろうか? 意外にも、よりよい結果を出したのは利己的な出世主義者だった。気をつけてほしいのだが、利己的な出世主義者は、正義の追求者を踏み台にして成功したのではなかった。利己的な出世主義者どうしで交渉をしていたのだ。ハリンクがあきらかにしたように、利己的に交渉するようにいわれた二人は、正義を追求するようにいわれた二人より双方両得の解決法を見つけ出すのがうまかった。なぜだろう?
ふり返ってみよう。一連の交渉で双方の成功の鍵を握ったのは、交渉人たちが二人とも、自分にとって重要度お高い事件でより大きな利益を得るために、重要度の低い事件で譲歩したことだった。利己的な交渉人であれば、結果的に得になるのだから、こうした譲歩に進んで応じるだろう。おまけに、相手も利己主義者で、自分に得になる譲歩にしか応じないとわかっている。従って、自分たちの立場が対称であると知っている利己的で合理的な二人の交渉人は、パイ(全体の利益)を大きくするために必要な譲歩を進んで応じ、パイを平等に分けるだろう。ところが、交渉人たちが収支を気にするのではなく、正義を追求しているのなら、別の、もっと曖昧な考慮が働くようになり、それとともにバイアスのかかった公正の余地が生じる。あなたの依頼人には、もっと軽い刑が本当はふさわしいのかもしれない。あなたが起訴している被告には、もっと重い刑が本当はふさわしいのかもしれない。こうした事件では、何が本当に公正かについて、もっともとされる見解に幅があるため、その中から自分の利益に合ったものを選べる。一方、自分にもっとも得になる結果を得ようとしている相手から、最大の利益を引き出そうという話に過ぎないなら、選択の幅はかなり狭まり、バイアスのかかった公正がつくり出す袋小路に陥る可能性もそれだけ低くなる。交渉を、互いの利己的な企てと割り切れば、自分と交渉相手に何らかの非対称性があると思うことは難しくなる。自分たちの計算高さについて、割り切っている二人の利己的な交渉人に、隠れる場所はない。
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功利主義とはなんだろう? 功利主義とは、その「功利計算」に全てがある。この功利計算が「正しく実行される」という

  • 信仰

が大切なのだ。というか、この「計算」が正しかった「場合」に、私は始めて、この功利主義の「効能」を評価することができる。しかし、言うまでもなく、人間とは認知的不協和の動物なのだから、「正しい計算」など不可能なのだ。このことは、検算する人がいればいい、というものでもない。その人も、同じ「認知的不協和」をもっていれば、結果として、検算は「正しい」ということになってしまう。
これを避ける方法として、一般に言われ始めているのが「集合知」であり、「大衆社会論」であり、こういった「エリートの否定」なのだ...。