加藤尚武『哲学原理の転換』

本当は多くの人が思っていることって、意外と似ているんじゃないのか、と思っている。
例えば、哲学にしても、ようするに、哲学がなんなのかの前に、哲学がどうのこうのと言っている人の、その「語っていること」が

  • 曖昧

なんじゃないか、ということなわけである。そして、そうやって聞いていると、なぜか、その人自体が自分が語っていることの曖昧さを解決しようという努力が感じられない。つまりどういうことかというと、それを明確にしようとしないということは、曖昧なままにしておくことに、なんらかの「功利的」な意味がある、ということなのである。
それは、例えば、東大を出て、大学の教授になって、そういった「権威」を、世間から認めてもらえる立場になったのであれば、はっきり言ってしまえば、死ぬまで、

  • 曖昧なこと

を言い続ければいい、ということになる。なぜなら、なにかを「はっきり」させてしまうと、その真偽によって、自らの研究結果の「価値」が明確になってしまう。ところが、ずっと「曖昧」なことを言い続ければ、偉い大学の「権威」によって、

  • 偉い大学の先生

というステータスは保たれる。多くの人たちが思っていることは同じで、ようするに「偉そうにしている人」は

  • 素人と同じ土俵に降りてこい

ということなのだ。
こういった問題を最も端的にあらわしているものが「法律」であろう。近年、生命倫理環境倫理などの分野で、さまざまな以前なら「哲学的」と呼ばれていたようなアポリアが生まれている。

二十世紀の後半の脳科学の進展は、経験論が最終的な論拠としてきた「白紙論」(生まれ落ちたとき人間の心は白紙状態である)の間違いを確証した。それによって経験に先立つ知・アプリオリの知に再び光が当てられ、ヘーゲルの再評価が起こっている。しかし、同時に観念論が前提としてきた「身体から離存する知」の可能性も消滅したので、十七世紀以来の西洋哲学世界の対立の構造が一変する可能性が生まれている。しかし、この可能性は哲学そのものが消滅する可能性であるかもしれない。
哲学は、当面、生命倫理学、環境倫理学等々という応用倫理学で生き延びている。

さまざまな医療分野の発展や、環境問題などに対してどのような「答え=法律化?」をだしていくのか、という難問がありながら、他方において、

  • 哲学の終わり

とはなんなのか、という問題がある。なぜ「哲学の終わり」なのか。それは、なんらかの「思弁的饒舌行為」の終わりを意味しているのではなく、

  • 哲学史的な意味における「問題系」

の「陳腐化」という表現が適当なのかもしれない。

ドイツ観念論で行なわれたようなすべての学問の原型を体系的に導出する試みなどはしないで、登場してきた学問をとにかく集めて見せることの方が実際的に有益だった。現代では、学問領域の相互関係は、哲学という第三者、学問観察者がいなくてもおおよそわかるようになっている。

すべての学問を網羅した百科事典も、あらゆる学問を有機的に統合して見せたと自称する哲学体系も、必要はない。必要なのは、自分たちがいま使っている因果関係の確実度の認識である。一〇〇%の確実度をもたなくても利用するよりほかのない因果関係もある。哲学の役目は、そのような因果関係の知的な文脈を明らかにして、合意形成に寄与することである。

このように見ると、しごく当然の結論のように思われるが、古代ギリシアから続いた「哲学=形而上学」の歴史には、なんらかの「アポリアの解決」に関係した「ストーリー」が存在したわけである。その「アポリア」が解決しなかったから、「それ」を指して、長年、それを「哲学」と呼んできた。

なぜ従来の心理学が「心と肉体との本質的絶対的統一」を認めなかったかと言えば、「心と身体が一体のものであれば、身体が心を支配するので、人間の自由が成り立たなくなる」と考えられたからだった。そこで「感覚という低次の心は身体と結合しているが、理性という高次の心は身体から離存している」というアリストテレスの説明が、好都合だった。

ようするに、物心二元論であり、肉体という物質と離れて、「魂」や「心」の存在を考える「作法」に関係していた。そういったものを「仮定」することは、どうしても人間の「自由」を考える上で、止められなかった。つまり、肉体という「物質」が物理法則という「決定論」の範疇の対象であるのに対して、人間の「自由」を領域どのように確保すればいいのかの、その「説明」がうまくできなかったわけである。
カント以降の「観念論」が意味していたのもそのことで、この「対象」は基本的にはプラトンイデアから続く、同型のアイデアだと言えるわけで、つまり、そういった「領域」を確保するならば、どうしても、なんらかの「形而上学イデア」の議論をしないわけにはいかない。なんらかの「形式」的な「実在」、この世界とは「別」のところに「想定」される「実在」について考える観念論の作法は、この事情に関係している。

ほんとうは「アプリオリの真理」に二つの側面があって、一つは超越的アプリオリであり、もう一つは自然的アプリオリである。超越的アプリオリには「精神の離存性」という側面が不可分に結びついている。この誤りを否定するために、あらゆるアプリオリ概念を否定する前提をつくるのが、「白紙説」であった。
たしかに白紙説を徹底すれば、あらゆるアプリオリ概念が消滅する。しかし、あの世の存在とか肉体のない霊魂とかを前提する超自然的アプリオリを否定しても、生まれつきの観念形態とか、生まれてすぐに刷りこまれた判断とか、前もって経験から学んだ内容が、次の経験に先立ってその経験を教導すること、つまり自然的アプリオリの存在を認めないと、人間や動物の行動を理解することができなくなる。
たとえばサルの脳に発見された「ミラー・ニューロン」と同じ機能が人間にも存在すると認められるなら、「自分に他人がして欲しいことを他人にしてあげなさい」という道徳律は、「ミラー・ニューロン」を経過して発信されていることになるだろう。これまで超自然的なアプリオリで説明されていたことが、これからは自然的アプリオリで説明されることになる。

このように整理されると、なんとも当たり前のことが話されているように聞こえるが、おそらく、ロックなどが考えていた「白紙説」には、より政治的な意図があったわけであろう。どのようにして、政治的な「差別反対」や「平等」を、理論的に担保できるのか、といったような。
しかし、そもそも人間は、物理的な存在であり、なんらかの「物理法則」によって、受精卵から大人になっているわけで、そうやって考えるだけでも、そこにはなんらかの「メカニズム」があることは自明なわけであろう。それを「自然的アプリオリ」などと、もったいぶって表現するまでもなく、なんらかの

によって、人間が形成されていることは自明なのだから、そこに「なんの方向付けもない」といったような仮定を考えるほうが、どうかしている。
しかし、そのように言った場合に、今度はどうしても、その反動として、結局ここに「ナチス」の「優生学」のようなものの「徴(しるし)」をどうしても読んでしまう人たちがあらわれる。
人間の心には生まれながらに、なんらかの「色」がついていることは分かった。だとするなら、人間の「能力」の生まれながらの「優劣」を考えることは合理的なのではないか、と。
どうしてそうなるのか?
先程も考えたように、私たち人間が「機械」であるなら、そもそも私たちには自由意志はない、ということになるのではないか。これは私たちが考える「物理法則」のイメージである。しかし、例えば「カオス理論」が示しているように、私たちには、その現象を、ある種の

  • 偶然

と呼ばずにはいられないような、非常に「微妙」な物理現象というのは、この自然界には、非常に「ありふれている」わけである。もちろん、そういった「微妙」な現象が生まれるような環境は特殊で、特別なのかもしれないが、いずれにしろ、そういう環境にならないということは別に、言ってないわけで、私たちがこういった「なにか」を、「自由な選択」と呼んでいたとして、それほど非整合的な事態であろうか、とは問題提起はできるわけである。
同じようなことを、上記における「才能」という「色」について考えることもできるであろう。いずれにしろ、私たちは自らが「物質」という「機械」であるという観念と、それが「決定論的なメカニズム」である、ということを結びつけて理解しなければ、という

  • 謬見

にとらわれすぎているのかもしれない。それはもしかしたら、なんらかの「遺伝」を、自らを「やんごとなき身分」と考えたい、自分を「スペシャル」な存在なんだと、どうしても考えたい、隠れた「欲望」が関係しているのかもしれない...。