奥村宏『資本主義という病』

社会主義批判とか、共産主義批判が行われるとき、例えば、戦後のソ連や中国やキューバ北朝鮮や東欧の国々といった、旧共産圏の国家政治体制が悲惨かつ失敗に終わった、といった意味において、社会主義共産主義といった理論の「失敗」といった意味で使われたわけであるが、その「反語」的な意味において、

  • 資本主義

は少なくとも、その失敗を免れている、といった含意があったわけである。
つまり、資本主義は、そういった社会主義共産主義に比べれば「まだまし」だ、と言いたかったわけである。
しかし、である。
こういった「レトリック」には、非常に決定的に問題のある論点を含んでいる。というのは、その欠点については、

ということが言えたからといって、別の欠点について、

ということが起きていたとしても不思議ではないわけであろう。そうだとするなら、「どちら」が「よりまし」な理論であるのかを決定できる、ということにはならない。しかし、少なくとも、一つの論点については、上記の通りだ、というわけだから、ひとまずは、資本主義の側から、「よりよい改善点」を探していく方が、問題解決には近そうだ、という整理にすぎないわけであろう。
資本主義とはなんだろう? その問題点については、掲題の著者が昔から言っているように、「株式会社」にある、と言わざるをえない。

株式会社の最大の特徴は株主全員が有限責任だということにあります。
個人はもちろん無限責任で、債務はすべて返済しなければならず、他人に損害を与えた場合、その損害をすべて弁償しなければなりません。もし、そうしなかったら、裁判所によって財産を差し押えられます。
合名会社の社員(出資者)も全員が無限責任です。合資会社では無限責任社員有限責任社員の両方が存在しますが、株式会社では株主全員が有限責任です。
株式会社の社員(株主)が全員有限責任であるということは、もし会社が債務を弁償することができなくなれば、会社は倒産します。その場合、株主は自分の出資分はゼロになり、持っている株式は無価値になりますが、それ以上の責任は負わなくてよい、ということです(会社法で『社員』というのは株主のことで、従業員のことではありません)。

株式会社の「所有者」は株主である。ところが、この株式会社が行った行為によって、甚大な損害を他人に与えたとき、株主は

  • 自分が出した出資金が戻ってこないとして「あきらめる」
  • 自分がもっている、この会社の株式がゼロ価値になることを「あきらめる」

だけでよく、その「甚大な損害」を与えた他人への「責任」を引き受ける必要がない。正確に言うなら、上記の二つの「損害=有限責任」だけ引き受ければよく、それで「デタッチメント」が実現できる。そういう意味において、株式会社は、典型的な

  • 弱い繋がり

というわけである。
私たちはこの事態を、どのように考えたらいいのだろうか。
まず、私がある株式会社の株主になって、その株式会社が「日本を滅ぼした」としよう。まあ、原発が爆発して、日本中の人が死んだ、でもいい。その場合、当然、その株式会社は倒産するであろう。私は出資金と株式のゼロ価値を受け入れなければならない。ところが、「それだけでいい」というわけである。じゃあ、その場合、この日本に住んでいた「すべて」の人への損害賠償は誰が行うのだろうか?

  • だれも行わない

わけである。なぜなら、その会社の「所有者」たちが、上記の「有限責任」によって、あらゆる責任から解除されたのだから、もうこの責任を「引き受ける」人がいなくなったのだから。被害者は「泣き寝入り」というわけである。
これでは困る、と思うであろう。
しかし、もしこの関係が、たとえ「無限責任」だったとしても、株主が一生かけて、それらの被害者の一切の「補償」をつぐなえるのかは怪しいかもしれない。
しかし、たとえそうだとしても、その「責任」を引き受けなければならない「当事者」ははっきりしており、その責任関係は明確になっている、とは言えるわけである。
3・11における福島第一の事故にしても、さまざまな「曖昧」な言説が、あの当時から多く行われたわけであるが、基本的には、この問題なのである。当事者である「東電」が、福島の被害者に対して

しかなく、「東電」の「支払える能力」に依存する形でしか、被害者への補償が行われない。これこそが、福島第一の事故の「真の問題」なのであって、結果として国が東電に援助を行うかどうかは、本質的な問題ではないわけである。
言うまでもなくもしも、「東電」の株主が「無限責任」であったなら、福島の被害者に彼らは、「無限責任」を負わされ、一生、借金をしてでも、彼らへの補償を行わなければならなかったであろう。ところが、「東電」は倒産しないだけでなく、株主の責任が問われたわけでもなく、

  • 会社が存続できる範囲での住民への補償

でお茶を濁されている。
よく考えてみてほしい。もしも、この関係が「無限責任」であったら、「東電」の株主は、東電が「原発をもつ」ことを許したであろうか? 原発の過酷事故によっては、自分が一生かかっても返せない借金を背負わされるかもしれないと思ったら、そんな危険なことをするな、と経営陣に強く意見をするのではないか?
原発問題の「根本問題」はここにある。
資本主義社会は、こういう意味において「非倫理的」なのである。
ということは、どういう意味か?
資本主義は、こういった意味において、「個人の暴走によるリスク」をすでにその「理論」のうちに孕んでいる。ではこのリスクを、一体、どのようにして「担保」しているのであろうか?
すべての「リスク」は、なんらかのシステムによって「担保」されていない限り、存在できない。なぜなら、そうでなければ、その時点で、この社会は終焉を迎える、ということを意味してしまうから。よって、どんなリスクも、なんらかの「担保」なしに存在しえない。
つまりは、「国家」である。
国家システムが、そういった「リスク」が起きないように監視したり、法によって「規制」をしたりするわけである。
これが、資本主義社会+民主主義社会の合わせ技である。
民主主義は、資本主義の「暴走」を、

  • あらかじめ予見して

それが起きないように「ガード」をしなければならない。それが例えば。原子力規制委員会の役割ということになる。この国にとって、致命的な、とりかえしのつかない事態にならないために、「理論的」に、東電の「経済活動」を規制するのが、原子力規制委員会の活動であり、これが「失敗」したときが、日本の終わり、ということになる。
しかし、である。
ということは、どういうことであろうか?
ようするに、資本主義における「自由」は、「自由」であってはならない、ということなのである。つまり、資本主義の「自由」を、そのまま「自由」にしてはならないのである。この資本主義の自由を、なんらかの民主主義的な方法によって「制限」をしなかったなら、この世界は「維持」できない。
資本主義における「株式会社」が、「自由なんだから、法律の範囲なら、なにをやったっていい、なにを言ったっていい」と言っている人間がいたら、なにか「危険」な存在だと思った方がいい、ということなのだ。
あなたは「法律の範囲なら」なにをやってもいい、と言うかもしれない。しかし、そうやってもし、その人が「この地球を滅ぼしたら」、その人はその会社への出資金と株式を「あきらめ」ればいい。そうすれば、その会社のことを「忘れて」いいわけである。つまり、弱い繋がりであり、「無責任でいい」と言っているわけである。
よく考えてほしい。あの3・11の東電「応援団」の、御用学者やエア御用が、どれだけ「無責任」な、原発「擁護」の論陣をはったか。もしも、そういった「軽薄」なことを言った全員に、なんらかの「結果無限責任」を課していたら、そんな態度が果してできたであろうか。この事実の重さを、よく考えた方がいいわけである。
私たちは「法律を守っていれば、なにをやってもいい」とか「法律を守っていれば、なにを言ってもいい」とか言っている「高学歴チンピラ」を、本当に、

  • 警戒

した方がいい。本当に、そういった連中は、なにを行うか分かったものではない。しょせん、大衆など、エリートの「犠牲」になるために生まれてきた家畜にすぎない、それくらい考えていても、不思議はないわけである。なせなら、

  • 法律さえ守っていれば、なにをやってもいい

と言っているわけであるから(先程の、資本主義における株式会社の「有限責任」性から、こういった連中が「地球を滅ぼ」したとしても、少しも不思議ではないわけである。
つまり、どういうことか?
原発を含めて、まだ、社会的なルール化が追い付いていない分野が、こういった「高学歴チンピラ」の、草刈り場として、荒らされる可能性がある、ということなのだ。

  • まだルールができていない

のだから

  • ルールがない

のだから、「なにをやってもいい」と考えている連中なのだからw

たとえば筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者は、自分の意志を他人に伝えることがだんだん困難になってくる。そこで脳の中の「意志」を読み取る装置を開発して、患者とのコミュニケーションを保つという研究開発が進められている。しかし、この装置を悪意の権力者が用いた場合には、恐ろしいSF的世界が現出することになるだろう。利害関係の共有がまったくない、少数者の救済のための技術開発であるが、違法性の決定のための合意形成は要求される。

まだ、ルール化されていない、ということは、どういうことでしょうか? 人間が、多くの「部族」が「共生」している社会だと考えるなら、そういった「部族」のもっている「道徳=本能」それぞれが、お互いで違っているため

  • 合意

ができない、というふうに考えられるのではないでしょうか。
ようするに、各「学問分野」で、合意ができていない、というふうに言うこともできるでしょう。
つまり、歴史的な文脈も関係して、どう考えたらいいのかが、あまり深く考えられていない、ということになります。
その典型的な例が、生命倫理学と環境倫理学と呼ばれる「応用倫理学」だと言えるでしょう。まず、生命倫理学のアジェンダを、ウィキペディアから拾ってみるなら、

また、環境倫理学では、

  • 自然の生存権
    • 自然中心主義(naturecentrism)
    • 生命中心主義(biocentrism)
    • 生態系中心主義または生態圏中心主義(ecocentrism)
    • 人間非中心主義(anthropo anti-centrism)または弱い人間中心主義(weak anthropocentrism)
    • 環境主義(environmentalism)
    • エコフェミニズム(ecofeminism)
    • ベジタリアニズム
    • ソーシャル・エコロジー
    • 生活環境主義(living environmentalism)
    • 地球全体主義
    • エコロジー(ecology)
    • 持続可能性(sustainability)
  • 世代間倫理
  • 地球有限主義

となる。こういったものを通覧して分かるように、ようするに、人類が、さまざまなテクノロジーを開発してきた果てにおいて、人類が生きていく上において、「今までにはなかった、新しい事態」について考えなければならなくなってきた、ということなのである。
では、私たちはこういったものについて、どのような「合意」が可能なのでしょうか? 少なくとも言えるのは、人間の「定義」を、少なくとも、

  • 上記のような問題を考えるとき

の、最低限の定義が必要なのではないか、ということになるわけです(ここで大事なポイントは、実際にどうなのかではなく、社会的なルール化、つまり、法律化において、「人間」を、どのような存在だとして、立法を考えるのか、といった側面において、上記の「部族」に関係なく、設定できるものはなんなのか、ということ)。そう考えると、私たちがもっているものは、「科学」であり、それを前提にした

  • 哲学

とはなんなのか、ということになるわけです。それが「哲学の終わり」にも関係しているわけで、具体的には

の、この二つを両立させるような「モデル」を考えられるのかが問われている、ということになります(これが、上記の「応用倫理学」を考えるベースだというわけです)。
私たち人類がもし生き残りたいのなら、こういった

  • 高学歴チンピラ=高学歴悪魔

との「戦い」に勝たなければなりません。彼らの「悪ふざけ」によって、人類は滅ぼされてはなりません。つまり、どうやって、こういった連中を人類は「囲い込む」ことができるのか、その「戦い」の勝利と、人類の存続は、離して考えることはできない、ということです...。
(例えば、リバタリアンが使う「経済数理モデル」における「株式会社」には、上記の無限責任問題が、代入されていない。なぜなら、そんな「この地球を破壊する」ような経済行為を想定した途端に、「自由」など維持できるはずがないから、というわけである。つまり、嗤えるように、彼らの大好きな「経済数理モデル」は、たんなる「おもちゃ」で現実をまったく反映していない、ということなのだ。こんな連中の「説教」など聞いていたら、人類が滅ぶぞ orz)