「表象文学」というなんか別のもの

どうもこの世界には二つの文学作品があるようである。「文学」と「表象文学」と。
「文学」とは、さまざまなサブカルチャーのことで、そこには、いわゆる「純文学」も含む。一般的に市場で消費されている物語のことだと考えてもらっていい。それに対して、「表象文学」とは何か、ということになる。
この「表象文学」とは、そもそも、文学ではない。文学ではなく、「哲学」なのだ。どういう意味か。哲学の一つの「分野」としての、表象批評において、ある文学が

  • 批評対象

とされる、ということなのである。しかしその場合、その「作品」が批評されるのではない。どういう意味か。表象批評は、「哲学」なのであって、その指示する対象は、現代社会である。現代社会が、どういう時代なのかは、その「表象」が指示する。つまり、現代を文学作品が指示する。ある文学作品は時代を指示する「指示行為」を意味しており、その「指示」が、

  • 哲学=表象批評

なのである。よって、そもそも、その文学の「内容」は、ここでの批評対象ではない。批評はあくまでも「現代」を見ている。現代の意味を解釈する作業が批評であり、哲学なのであって、その物語の内容は、最初から「二次的」ななにかでしかない。
つまり、表象批評は、文学を媒介にして、現代の意味を表象させるのであって、あくまで文学の「内容」は、本質的ではないのだ。
文学とは、作者による、読者へ向けての「批評的実践」であって、表象批評にとって、一つ一つの作品は、作者による読者への、なんらかの「だまし」を意味する何かにすぎない。この、作者による「しかけ」と、読者のその「しかけ」によってひきおこされる「現象」全体からもたらされる、なんらかの全体としての現象、時代的な現象が、彼らにとっての

  • 語るべきなにか

ということになるのであって、そういう意味において、一つ一つの作品の「内容」は、そもそも、語る必要のない「ノイズ」だと言ってもいい。
例えば、アニメ「少女たちは荒野を目指す」は、第三話まで見たが、高校の部活として、美少女ゲームの作成を目指すことになる。しかし、おそらく、この作品の制作陣、とくに、脚本は男性なのだろう。主人公の、北条文太郎(ほうじょうぶんたろう)は確かに、さまざまに、心の「揺れ」が描かれている。ところが、彼の回りを固める女性陣、

  • 黒田砂雪(くろださゆき)
  • 小早川夕夏(こばやかわゆうか)
  • 安東テルハ(あんどうテルハ)
  • 結城うぐいす(ゆうきうぐいす)

は見事なまでに「観念」的である。つまり、

  • キャラ的(=観念的)

である。この作品に登場した時点から、彼女たちの「性格」は決定していて、つまりは

  • 演繹的

に、女性陣は「行動」する。つまり「そういうもの」だから「そういうように」行動するわけで、一言で言えば

  • 男が作った「女」が、作る「女」が登場するゲーム

というわけなのである。
男性脚本家にとって女性が「観念」とは、どういう意味か、というと、ようするに、ここで言う女性とは

  • 過去のオタク作品において反復された女性の「パターン=キャラ」の反復

を意味するわけである。男は女を知らない。しかし、「なにが正しい」かは知っている。それが、過去のオタク・コンテンツにおいて「受けた」パターンのどれか、ということであって、その引き出しから、テンプレを反復しているかどうかが、「正しい」ということになる。
上記の女性陣は確かに、「人間」である。しかし、彼女たちは本当に「女」なのだろうか? こういう言い方は強烈だろうか。見ていると、どうも、「男」にしか、見られなくなってくるわけである。キャラとは何か? キャラとは「観念的先取り」なのだ。男が、女を「最初から悟る」のがキャラである。キャラはすでに、この作品に登場する以前から、「概念」化されている。もうすでに、そこにおいて十全に記述された何か、なのである。つまり、男なのに、その「女」のことは、すでに「分かっている」ことが前提にされるなにかなのだ。
もっと言えば、キャラとは、優等生男が、テストで百点をとる「女」の「確定記述」だと言ってもいい。その女は何か? という質問に対して、どう答えるか? その答えが「概念化」であり、キャラ化なのだ。
上記の女優陣は、「男」である。どう見ても「男」にしか見えない。つまり、「男」の妄想の「概念化」なのだ。つまり

  • 説明的

なのである。まるで、男が、彼女たちの「キャラ情報」をコンピュータにインプットしたら、それに合わせた行動を、プログラミング通りに動作しているロボットのようなもので、それって、

  • 男がプログラミングした通りに動いている

のだから、「男」ですよね、ということなのである。
男性脚本家にとって、男性は「リアル」であるが、女性は「観念」である。なぜなら、男性は女性ではないから。このことは、逆も正であり、女性脚本家にいとって、女性は「リアル」であるが、男性は「観念」なのだ。
例えば、アニメ「ガルパン」は、女性の脚本家による作品であり、女子校が舞台になっている。そこに描かれる少女たちは、監督による、この世界観を前提とした上での、脚本家の女性の視点による「リアル」を反映した登場人物の「反応」が自明とされているわけで、こういった作品を見る男性の視聴者には、どこか、見田宗介が言う「永山則夫の幼少時代の<覗き>の体験」が反復されている、と考えられるわけである。

Nは、「覗く人」だった。Nの家族が青森県に移住してきた当初、彼らの部屋は、ベニヤ板一枚をへだてて、一杯飲み屋に隣接していた。幼いNは、ベニヤ板に穴を開けて、毎夜、飲み屋を覗き見ていたという。鎌田忠良は、こう述べる。「いったい彼が、再三の忠告にもかかわらず、執拗に覗きつづけた<もの>はなんであったのか。彼はそこに、一家の生活とはまるで異なる<別世界>を発見したのにちがいない」と(鎌田『殺人者の意思』)。
これを受けて、見田はこう述べる。今ここの現実=現在は、「欠如」として否定的に感受されていたはずだ、と。その欠如を補償する、「理想の世界」が向こう側に投射されるのだ。後に獄中で、Nは次のような詩を書く。「壮麗な銀色(シルバー)のシャンデリアの光り輝やくその下で/赤の絨毯の上で世の善良な人々は/楽しく愉快な語らいにお熱がとても這入ります/(中略)/そんな夢見るおらあの側に在る物は.../黒い畳にアルミのコップ垢染み机と便器の上に板のせ椅子/(中略)/それでもおらは夢見るぞ手前等[看守等]なんぞ消しちゃうぞ」。
ベニヤ板の穴からの覗き見を、貧困なNに特殊な体験と見なしてはならない。Nより少し豊かな人々にとっても----特に地方の農村部にいる人々にとっては----テレビのブラウン管が「ベニヤ板の穴」の役割を果たすのだ。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

表象批評において、「女」は「男」である。つまり、「批評」を行う「男」にとって、物語における「女」とは、「表象としての女」であって、「女=観念=キャラ」であって、

  • 女=他者

ではないのだ。そういう意味において、表象批評に「女は存在しない」。これは「芸術」においても同様である。表象芸術とは、芸術の表象化であり、芸術の「歴史」化である。歴史的「解釈」が、「確定」していると考えるのが、表象芸術の「歴史」化なのだから、すでに、「女」は「キャラ化=観念化」されているし、最初から「答え」が決まっているわけである。
しかし、ここで、もう少し議論を進めてみたい。
つまり、男の描く女の「リアル」とはなんだろう、と。
男が描く「萌え絵」は、男の妄想した「女」であって、男の「観念=イメージ」の女である。これは、果たして女なのだろうか? 男が「気持ちいい」と思うところに、気付いてくれて、男が「いい」と思うときに、男が「言ってほしい」ことを言ってくれて、ようするにそれって

  • 男の「ママ=母親」

のイメージのことなんじゃね? と思えてくるわけである。男は女を知らないが、男が唯一知っている女が母親である。男の萌え絵は、永遠の母親の「優しさ」を追い求めているイメージだ、ということになる(そういえば、宮崎駿がそうでしたね)。
そういう意味で、男は女を「悟って」いる。男は、大人になる前に、女を「知っている」。まさに、プラトンの言う意味での「イデア」こそ、

  • 女=母親

の心理学的イメージだと言えるであろう。男の「オナニー」は、男の描いた「萌え絵」を使ったオナニーであり、さらに言えば、男の「想起」する、母親のイメージを使ったオナニーだということになる。キャラとは、このイメージの延長において想定されるものであって、だからこそ、キャラは「観念」なのである。
私たち男が、二十歳(はたち)を過ぎて、母親の「イメージ」がそう簡単に変わるであろうか? まあ、変わらないであろう。一番、多感だった頃、子供の頃の「印象」を強くイメージするわけであろう。よって、男の描くキャラは、みんな

  • (その頃の)母親

を、基本的な「イデア」として、形成された「近親相姦」アニメだ、ということになる。私たちがどこか「萌え系美少女ゲーム」に、荒廃感を抱くのは、そんなところなのかもしれない...。