観念論の「からくり」

観念論が分かりにくいのは、観念論のある部分は正しいが、ある部分は正しくないために、「正しい」と言う人を論破し、「正しくない」と言う人を論破し、ということになり、結局、観念論に変わる「何か」が別に、だれからも提示されないのだから、そのまま、放っておかれている、というのが正解なのだろう。
観念論が「正しい」という意味は、結局のところ、私たちが「感覚する」という形でしか、なんらかの「知識」が得られることはないという、なんとも素朴な意味での感覚主義ということになるであろう。
私たちはどんな「真実」も、感覚なしに、受けとれない。そういう意味で、経験主義ということになる。
では、この考えを進めると、次の疑問がたちあがってくる。ここで「感覚」している「対象」というのは、「感覚」と

  • 関係ない形で

存在している、と言えるのだろうか? つまり、「感覚」しなくても「存在している」と言うことは可能なのか、と。
つまり、経験論を媒介することなしに存在論を考えられるのか、と。
この世界は、「私」がいなくても「存在」するのだろうか? これについては、次のように言える。

  • それを「私」は確認できない。

つまり、これがカントの言う「物自体」ということなのだろうが、例えば、次のようなことを考えてみてください。
ここに、「人間マシーン」というものがあるとしましょう。この人間マシンは「性能」が悪いため、外の世界を「歪んで」認識してしまう傾向があったとします。そのため、近くに肉食動物などの外敵がいるのに、すぐに逃げようとしなかったとします。そのため、こういった個体は、進化論的な「淘汰圧」によって、さっさと、滅びてしまいました。
ということは、どういうことでしょうか。私たちのこの時代の今、生きている「人間」は、かなり「優秀」な、外界受信能力をもっている、ということになるのでしょうか。まあ、少なくとも、

  • さっさと滅びない程度に

は、かなり外界の「把握」が「うまくいっている」ようです。
しかし、それは「どの程度」の話なのでしょうか?
言うまでもありません。それは「何が正確なのか」に答えるものではありません。「正確かどうか」は、まったく無意味な問いです。そうではなく、「生き残れてきた」ことを結果する「性質」を担保する「特徴」だという以上のことを意味していないわけです。
私たちが普通に考えるなら、世界をそれなりに「正確」に把握できなければ、生き残れないよな、と思うことは、私たちの素朴な感覚としては正しいでしょう。しかし、ここでは別に素朴な経験の範囲の話をしているわけではないのですから、たんに「生き残れてきた」結果をもたらすレベルだった、と言うことしかできないわけです。
また、そもそもこの「人間マシーン」はいつ、できたんでしょうか? 受精卵のときから、もうできているのでしょうか? 普通に考えて、そんなはずはないでしょう。これも、素朴に考えるなら、成長して、外界を感覚できるようになって、こんなふうに、「文章」を書けるくらいになって、ということになるのではないでしょうか。
だとするなら、そうなるまでの「間」って、なんなんでしょう? その間は「なにもの」なんですかね? 素朴に考えて、人間の受精卵を、徹底して外界と接触させずに、人間との関わりを行うことなく、無菌培養したら、まあ、人間にはならないでしょう。少なくとも、言葉を話すことは行わないわけでしょう。
だとするなら、ここで言う「人間マシーン」が完成するためには、母親などによる「子育て」という過程をへて、言語の修得が行われなければならないということになるのだから、人間は、こういった周囲の人間との

  • 普通の多干渉環境

を受けることなしに、「人間マシーン」は作られない、ということになるわけであろう。
私たちは、確かに「普通」の子育て環境や、教育環境のあるところで育てば、「かなりの割合」で、「普通」になる。しかし、少ないかもしれないけど、この「人間マシーン」化に失敗するケースがないわけではない。
こうやって、「普通」の「人間マシーン」になった人たちは、お互いに話すことによって、それぞれの「認識」が似ていることに気づくわけだから、そういった意味において、そこには、「客観的」な何かがあるのではないか、と言ってみたくなるわけであろう。
それは、裁判の証人のようなもので、アリバイを証言してくれれば、その「事実」の「証明」だということになるんじゃないのか、と。
しかし、そのことが「主観を離れた」今回、問題にしている「存在」の証明になっているのか、といえば怪しい。というのは、この二人が、たまたま、ある「偏向した見方」をする特徴をもった二人だったために、この「対象」をお互いが、存在しないのに「ある」と言いやすい傾向をもっていた、というふうにも考えられるからである。そして、このことは何人に増えても、その「可能性」は変わらない。
いずれにしろ、現代思想は、この「観念論」の議論のフレームに対して、反対する、という「戦い」を止めたわけである。なぜなら

  • それで困らないから

というわけである。実際に考えてみてほしい。つまり、「集合知」について。ある、対象が「客観的にある」と、どこかの科学者が主張したとき、それに「反対」する人が、世界中から現れなかったなら、もうそれは「ある」ということで扱っても、だれも困らないのではないか。まさに、カール・ポパーの「反証可能性」こそ、「集合知」の別名なのである。
つまり、ある意味において、世界はカントの「物自体」を受け入れたわけである。

直接知覚されている日常的な「物」を飛び越してその向こうに新たな物体を仮説的に構想する知的営みの結果として、日常的な「物」が「観念」として心の中に位置づけ直されているのです。しかも、その「観念」として捉え直された直接知覚されている事象こそが、「観念」として捉え直されたあとも、仮説を構想するための基礎的データとしての役割を、相変わらず担い続けているのです。

観念論の教室 (ちくま新書)

観念論の教室 (ちくま新書)

これが、観念論が「間違っている」と言った場合の意味なのである。
もしかしたら、私が会社に行って毎日会っている人は私が空想しただけの「妄想」かもしれない。実は、私は毎日、病院のベットで寝ていて、なにかの夢を見ているのかもしれない。それは、上記の例で言えば、「普通」に成長できなかった、一定程度あらわれる異常ケースだ、という以上のことを意味しているにすぎず、そういった人は、基本的に今の社会の、根幹部分を形成する立場に位置してはいない、という形で、この社会の構成がどのように成立しているのかと考えるなら、つまりは「普通」の、それなりのマジョリティが、形成している、なんらかの「普通」さ、ということになるのであろう。
つまり、私たちは最初から、こういった「普通さ」や「普通さ」が通用するような「共同体」の中での会話を前提にして話しているわけで、もちろん、この「共同体」の全員が、なんらかの意味において、「狂って」いて、間違った結論になるかもしれないが、基本的には、そういったことは、

  • (みんなが狂っている、という意味であり、もしそうなら、早晩、人類は滅亡するわけで、そうであるなら、どんな抵抗も無意味なのだから)無視できる

から、そんな、どうにもなりようのないことで悩んでも無意味だ、と。
ようするに、「物自体」がどうなっているという「推論」も、結局は、私たちの知覚データから「推論」するしかないのだから(その知覚から「隠れている」ものというのが定義なのだからw)、「物自体」が「実際のところ、なんなのか」などという議論をすること自体が「ばかげている(定義に反していることを問うているのだからw)」、というわけである...。