岩原裕二『ディメンジョンW』

ところで、映画「屍者の帝国」は、いわゆるかなりの観客の割合で「腐女子」だった、というわけである。これってなんなのだろうと考えてみると、確かに、映画版と原作はかなり違っていて、特に違っているのが、主人公のワトソンとフライデーの関係が、映画版では、非常に深い関係にされている、というところにあることが分かるわけである。
つまり、この二人の関係は、かっこうの「腐女子」たちのネタとなった、ということなのであろう。
しかし、そういった変更を加えたために、映画版には、ある「不可解さ」が残ってしまっている。つまり、作品の最初からフライデーは死んでおり、「ゾンビ」として登場しており、しかも、フライデーが死ぬ前の、ワトソンとフライデーがどういった関係であったのかの記述が、どう考えても不足している。しかし、このことは逆に考えることもできるわけである。これは、いわば、映画版における、「謎解き」の関係になっている。フライデーをワトソンに対して、このような「位置」に置いたのは、映画版の制作「サイド」の「解釈」が入っている。だから、このような「ひかえめ」なワトソンとフライデーの関係の記述にならざるをえなかった。これは、あくまでも、一つの「解釈」として提示されているわけで、多くの可能性があることを示唆するものでもなければならなかった、というのが、映画版の制作サイドの考えだった、ということなのであろう。
ゾンビとはなんだろう?
ゾンビとは「永遠の愛」に関係している。
人は、死んでも「魂(たましい)」は死んでいない。
つまり、魂(たましい)は、ゾンビという「肉体」に戻ってくる。
つまり、魂(たましい)とは、そうまでして、もう一度「会いたい」何かなのだ。
たとえ、相手が死んでいても、「魂(たましい)」は魅かれ合う。
もう一度、死体となった肉体に戻り、魅かれ合っている二つの魂(たましい)が、「ゾンビ」を介することによって、また、一つとなろうとするわけである。
これは「愛」の可能性の物語であり、その可能性を「ゾンビ」の中に見出す。
このように映画版「屍者の帝国」を、「腐女子」目線で解釈したとき、その後に公開された映画版「ハーモニー」は、また、別の意味合いをもってくるようになる。
つまり、

の「順番」は意味を帯びてくる。映画版「屍者の帝国」は、ワトソンとフライデーの「愛」の物語であり、映画の最後で示唆されていたように、この二人の「邂逅」は、フライデーだけでなく、ワトソン自身も「ゾンビ」となることによって、完成する。つまり、これは一種の「心中」の様相を示してくることになる。
映画版「ハーモニー」は、トアンとミャハとキアンという三人のJKの「心中」の物語である。なぜ、この三人は死ぬことを選ぶことになったのか。それは、彼女たち、三人のJKという「3人だけの子供」に対して

  • (この3人以外の)外の世界

との「対決」に関係していた。彼女たち3人は、この世界を「管理」している「生府」と呼ばれるシステムによって、心も体も、がんじがらめに支配されるシステムとの抵抗運動として、

  • 自らを「殺す」

ことを選択する。つまり、この「手段」をおいて他には、このシステムに一撃をくらわせる方法がないから、である。
つまり、どういうことか?
3人は「一緒」に死ぬ。つまり、「心中」である。男と女が現世ではかなわぬ恋を実現するために、二人が「一緒」に心中をすることで、あの世で、添い遂げようとするように、3人は、この「世界」とのデタッチメントの選択と共に、「心中」を選ぶ。
しかし、話はこれで終わらない。
というのは、3人はそれ以降を生き続けるからだ。つまり、どういうことか? 自殺は失敗した。未遂に終わった。しかし、その「心中」の「魂(たましい)」の、つながりは「本物」なのである。
つまり、この3人は自殺を行ったことで、「ゾンビ」となったのである。
だからこそ、トアンはミャハに会わなければならなかった。ワトソンがあそこまでして、フライデーに「会う」ことにこだわったように。
しかし、ここで興味深い差異がある。

  • キアン

である。キアンは、あのJKの頃の3人での「自殺」のとき、唯一、自殺ができなかった。彼女は何年もの間、そのことを人に言えず、苦しみ続ける。つまり、キアンとは、「ゾンビ」ではないが、ゾンビと私たちの世界をつなぐ、非常に倫理的な存在として、この位置にいることが分かるわけである。
さて。掲題の話題にかえよう。
アニメ「ディメンジョンW」の第3話は、原作の第2巻に対応していたわけであるが、いろいろと違っていた。もちろん、尺の関係で、いろいろな場面が省略されていることは、よくある原作ものアニメのメディアミックス化で起きがちなパターンではあるのだが。
この作品は、主人公のマブチ・キョーマと、ヒロインの百合崎ミラの二人を中心に展開する。
といっても、百合崎ミラはアンドロイドであるが。
この世界は、X、Y、Zの3次元の他に、第4の次元として「W」というのが発見された世界として描かれる。この次元は、ある「錬金術」的な「エネルギー」と関連して、見出されている。そういう意味において、この「W」は、どこか、原子力発電とのアナロジーを感じる。
この第4の次元「W」のエネルギーとこの世界を媒介するものが、「コイル」と呼ばれている「機械」である。主人公のマブチ・キョーマは、「おっさん」であるわけであるが、なんというか、世捨て人のような奴である。極度に、この「コイル」を毛嫌いして、身の回りに置かないところは、現代で言うなら、「文明の利器」を嫌う変わり者といったところであろうか(それ以外の、過去のガソリン自動車などには愛着があるようなので、テクノロジー嫌いというのとは、現代の視点からは言えるが、まあ、そういったアナロジーは成立する、という意味)。
ただ、そうは言っても、マブチ・キョーマがそこまで人間と関わることを嫌がっているかというと、少なくとも、原作上はそうでもない。というのは、彼には、過去の「秘密」があるわけだが、その、過去の最強の精鋭部隊「グレンデル」に所属していたという「秘密」に対して、

  • 過去の同僚

として、アルベルト・シューマンという登場人物が作品の最初から登場することによって、この二人の関わり合いという関係によって、作品の最初から、それは「秘密」でありながら、なんらかの、そこでの「秘密」が

  • お互いの掛け合い

によって「指示」されている関係になっているため、それほど「秘密」めかした形にはなっていないからである。ボトムズのキリコは過去の経験が説明されないことによって、キリコのミステリアスな側面を強調していたわけであるが、マブチ・キョーマにはその側面が弱く映るようになっている。
実際、原作を読むと、マブチ・キョーマは「よく話している」わけである。これは、彼が「説明的」な立場であることを強いられている、とも考えられるが、まあ、なんやかんやで「人間」としてのユーモアを体現している、と受けとられる。
対して、百合崎ミラは、アンドロイドではあるが、特殊なアンドロイドとして登場する。
つまり、マッドサイエンティスト的スキームと呼んでいいと思うが、そういった「超越」に関係して、作品の構造を示している。
マッドサイエンティストの百合崎士堂は、この世界においては、唯一無二の科学の発明を行っており、彼のその発明の内容を、世界中の人は知らない。この関係を比較すると、

  • 百合崎士堂と妻が作ったミラ ... 超越 ... あまりにも人間に近い感情などをもっている ... あまりにも人間の反応すぎてロボットの「真似」をしようとする
  • その他のアンドロイド ... 普通 ... 普通の機械のロボット ... 普通にロボットしている

となる。
つまり、どういうことか?
百合崎ミラは、再度、「アシモフ問題」の再現となっている、ということなのである。
ミラは廃車におしつぶされそうになった子供たちを「助ける」わけだが、それを行ったことによって、自分の体が廃車におしつぶされることになり、胴体と頭が分離してしまう。ちょうど、ISの首切りと同じ状態になってしまい、子供たちを怖がらせてしまったことに悩むようになる。ロボットである自分が子供たちを怖がらせてしまうなら、もう子供たちの前にあらわれない方がいいんじゃないのか。
アシモフ問題とは、ある「逆説」に関係していて、つまりは、ロボットの方がより「人間」的なのではないか、という視点なのである。ミラは子供たちを助けるわけだが、それは自らの体が壊れることを厭わない「勇気」が、ロボットには「ある」ことを示しているわけだが、そういった「勇気」とは、むしろ、人間が人間を「特徴づける」ための「徴(しるし)」だったのではないか、ということなのである。
例えば、昔、新井将敬という政治家がいたが、彼は朝鮮籍であった。つまり、親が戦中の朝鮮籍のまま、日本籍にしなかった、というだけなのだが、そのことによって、新井将敬は日本社会から「朝鮮人」と差別を受けることになる。彼は、なんとかして「日本人になろうとした」わけである。なにが日本人なのか。どうあれば、日本人であるということを意味するのか。もちろん、彼は日本に生まれて、日本で育ったのだから、日本人なわけであるが、それでも彼は、そう自分に問いかけずにいられなかった。
日本人であるとは、なんなのだろう?
どうあることが「ロボット」なのか、どうあれば「人間」なのか。私たちは今も、こういったアイデンティティの問題から抜け出せていない。
そういう意味では、百合崎ミラというアンドロイドは、もう一つの「ゾンビ」だと言うこともできるわけである。
アニメ第3話の、最後の子供たちからの呼び掛けに、百合崎ミラが、子供たちを怖がらせた「負い目」で、うまく感情表現ができずにいた彼女の背中を、マブチ・キョーマが蹴っぽる場面は、もちろん、原作にはないのだが、似たような場面が、漫画の第1巻のカラーページにある。そこで、マブチ・キョーマが言っていることは、ようするに、コンピュータのくせに、人間くさい行動をするな(人間の真似なんてするな)ということだったわけである。
ここには、いくつもの「逆説」がある。
子供たちが今、生きているのは、ミラが首がもげるのを覚悟して、助けてくれたからである。つまり、子供たちの「命の恩人」がミラなのである。
マブチ・キョーマが世捨て人のような生き方をしているのも、人間に「絶望」をして、「コイル(=原子力)」という悪魔の道具に手を出してしまっているからだが、他方で、人間ゆえに「コイル(=原子力)」に魅かれ、その魅力にとりつかれてしまうという意味では、それこそが「人間的」なのだ、とも言える。
百合崎ミラというアンドロイドは、ISに首を切られても「生きている」何かである。そういう意味で、「ゾンビ」だと言ってもいい。確かに、ミラは人間ではない。しかし、私たちはどこか、ISに首を切られても「生きている」人間とはなんなのか、というその「可能性」を考えてみたくなるわけである。そこになにかの「希望」を感じるわけである。
彼女は人間ではない。しかし、あまりにも「人間的」であるがゆえに、人間的なウェットな悩みを、子供たちに対してさえ、抱いてしまう。
それに対して、マブチ・キョーマは、百合崎ミラに「ロボットになれ」と言うわけである。つまり、ここに逆説がある。ロボットが、あまりに人間的である。ウェットな感情に悩んでいる。それに対して、マブチ・キョーマが「そんな人間みたいにウジウジしているのは止めろ」と言うのは、逆説的であるが、むしろ、そうであることこそが

  • 人間的

に正しい、ということを含意しているのだ...。

ディメンションW(1) (ヤングガンガンコミックス)

ディメンションW(1) (ヤングガンガンコミックス)