カンタン・メイヤスー『有限性の後で』

人間はそもそも、その一人「だけ」をとりだして考えることには意味があるだろうか? というのは、その一人だけであるなら、おそらく、百年もすれば死んでしまうであろう。なんらかの、科学の発展によって、一人で子供を再生産できるようになったり、何百年も生きられるようになったりするのかもしれないが、いずれにしろ、そういったことは、今の考察の対象ではない。
つまり、今ここにおいて、人間が生きているという状況を考えるときは、それなりの「部族」があり、その中でのそれぞれが、(言語を主体として)意志疎通を可能にしている状況を指して、考えているわけであろう。
つまり、この「意志疎通が可能になっている」という

  • 部族に属している「中の人」

vの「実感」を中心にして、このことが考えられているのであって、そうでなかったら、今私がここに書いているような文章が書かれるわけがないのである。
つまりこれを言語活動に限定して考えるなら、その「部族」に属する一人の、なんらかの「意志が通じている」と感じる実感が、まず「存在している」ということから、すべてが始まっている。
そこで、ここで問題になる「通じている」とはなんだろう? それは、なんらかの意味において、「意志疎通がストレスなくスムーズに流れている」といったような「感覚的な不満のなさ」のようなものとして感じられるものを意味しているにすぎず、別に、だから「(なんらかの絶対的客観性において)正しい」ことが言えるとか、そういうこととはなんの関係もないわけである。
私たちは、相手がなんらかの非論理的なことを言ってきたとき、普通は、それに気付き、ストレスを感じるであろう。つまり、「通じている」というのは、比較的こういうことが「ない」と言っているに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない、というわけである。
ある色盲の人たちにとって、「赤い」という色の認識がなったとする。そういう人たちにとって、ある物が「赤い」という指示は、「同意」されない。というか、もしかしたら、彼らにとって、そう指示すること自体が意味不明なのかもしれない。しかし、それ以外の色盲でない人たちにとっては、その「区別」があることは、まぎれもない事実で、実際に、光の周波数で見れば、なんらかの差異がある、ということになるのであろう。
同じように、私たちが、ある物質を手で触ることによって、その「形」を知覚することにしても、それはその「知覚」の把握の

  • やり方

に依存しているとも考えられるわけで、私たちがその手の感触という「知覚」を、もっと別の方法によって進化することによって行っていたとするなら、まったく違ったものであったのかもしれない(それは、他の動物や植物が実際にそうであることを考えても分かるであろう)。
ある認識マシーンがどのように認識を行うかは、その認識の実際の「機能」に依存する。
こう言ってしまうと、そもそも

  • 客観的

とは、なんのことなのか、と思わされるわけである。それは「絶対的客観性」ではなくて、

  • 部族の「中の人」にとっての、共通の認識マシーンとしての「機能」

によって成立している、ある種の「共通性」のことではないのか。つまり、これがあるから、私たちは始めて、「正しい」とか「正しくない」ということが話せているのであって、つまりは、その先にある

  • 絶対的客観性

を議論することに、一体どんな意味があるというのだろうか?
私たちがなぜ、この世界を「こんなふう」に知覚しているのかは、

  • こんなふうに知覚した「から」進化論的淘汰圧にもかかわらず生き延びることができた

と言うことしか言っていない。つまり、そうでなかったら、今、こんなふうに生き残っていなかったかもしれない、ということが言えるだけで、それが「正しい」とか「正しくない」とか議論することには、なんの意味もない。
つまり、少なくとも私たちに言えることは、そういったもろもろを認めた上で、「じゃあ、今の私たちの認識マシーンでは、この世界はどんなふうに見えているか」ということを、徹底して探求してみることができるだけであって、別にそれは、「絶対的客観性」がどうのこうのなんて考えなくたって、行うことはできる。
そういう意味で言うなら、「認知的不協和」なんていう表現は、どこか自家撞着な印象がなくもないわけである。だって、「認知的不協和」の中の「どれ」が正しいのかなんてことを、客観的に判断する基準などないのだから。比較的その中で、「部族」の中で、淘汰圧的に強力な「ミーム」が生き残る、ということが言えるにすぎないわけだから。
しかし、私たちがここで言う「部族」内で通用する「正しさ」は、たとえ、絶対的な正しさを担保しなくても、かなりのことを主張していることは間違いないわけである。私たちは「認識マシーン」である。つまり、「部族」内共通の「認識マシーン」と呼んでおこう。しかし、この世界には、たくさんの「認識マシーン」がある。私自身が「認識マシーン」を作ることもできる。そういったさまざまな認識マシーンの認識を、別の認識マシーンが認識して、さらにそれを、別の認識マシーンが認識して、ということを繰り返しているにもかかわらず、それなりの「整合性」が実際にあるから、私たちの今の世界は混乱が起きていないと考えるなら、それなりに、この「認識マシーン」は「優秀」だと言ってもいいわけである。
そこで、私たちは次のような「思考モデル」を形成するようになる。
まず、私たちは「自分の感覚している」範囲で、この世界の「モデル」を作る。次に、その「モデル」(の説明)を、それぞれの人が「自分の感覚」に照らし合わせて、矛盾がないかを確認する。そうすることによって、「だれも異議を訴えていないもの」として、この世界の「モデル」を、一つの「この世界の客観」として、仮説するわけである。
さて。こういった「合意」が形成される、というのはどういうことなのであろう? この一つの可能性として、この「絶対的客観」的世界が、実際には、かなり「確定的」に存在していて、その「定常性」によって、こういった「整合性」が、かなり「定常的」に観察できる、ということを意味しているのであろうか?
しかし、たとえそうであろうとなかろうと、一つだけ言えることは、私たちの「認識マシーン」が、どうもかなり「整合的」であり「定常的」であるようだ、ということであろう。少なくとも、その「部族」の中の人々それぞれの「認識マシーン」は、かなり、「近い」ということは言えるのではないか、ということである。
どうしてそうなるのであろう?
これを進化論の問題として考えることは、一般的であろう。遺伝子は、優性生殖を繰り返すわけであるが、世代を繰り返す過程において、「それほど変わっていない」ことを意味している。つまり、かなりの「定常性」が実現できている、ということになる。つまり、この人間という「認識マシーン」は、世代を重ねても

  • けっこう変わらない(=変わらない個体に成長する)

ということになるであろう。それは、それぞれの世代の「成長環境」が、それほど「違っていない」というわけである(親による「子育て」であり、教育施設であり)。
子供は産まれてすぐには、上記の「認識マシーン」は完成していない。それは、成長する過程において、「大人」になった、という「徴(しるし)」によって、この「認識マシーン」になった、ということを表象する。つまり、この「成長」の過程において、いつ「認識マシーン」になったのかを指示することはできない。
ということは、子供は「認識マシーン」となるようなトレーニングを日々受けている、ということになるのだろうか。まあ、逆に言うなら、そういったトレーニングを受けることができなかった子供は、上記で言っている「普通」の「認識マシーン」になれないまま大人になる、ということであって、ここまでの議論の外の「例外」ということになる。
よく考えてみると、このことはかなり重要なことを言っているわけで、例えば、ある未来の日。気候変動によって、ある栄養素が人間は摂取できなくなったとする。それに伴って、子供たちは、全員、ある部分における「思考能力」が発達しなくなってしまった、としよう。そうなれば、おそらく、この「認識マシーン」は以前のような能力を維持できなくなるであろう。
また、同様に、ある「部族」の部族長が、ある「慣習」を禁止することにしたとする。それに従ったために、同様に、子供たちに、ある「思考能力」が発達しなくなったとする。つまり、以前のような「認識マシーン」ではなくなる。
そうなった場合、上記の「整合性」はどうなるのだろう? 人間はその整合性を認識できなくなるかもしれない。しかし、だからといって、その整合性がなくなる、と議論するのは乱暴ではないのか?
これは、いわば、伊藤計劃の「ハーモニー」において問題提起されていた「<意識>がなくなった後の人間」について考えることに似ているかもしれない。
さて。掲題の本は、これまで考えてきたような問題に対して、ある「絶対性」を認めないことは「欺瞞」なのではないか、と問題提起する。

あるいは、以上のことは、思考はいかにして、ある絶対的なもの[un absolu]へアクセスできるのかを把握しなければならない、ということに相当する。絶対的なものとは、思考への結びつきを解かれている[delie](これこそ absolutus の第一の意味である)もの、思考から分離されているがゆえに私たちに非-相関的なものとしてそれみずからを私たちに差し出すものであり、私たちが存在しようがしまいがお構いなく存在しうるものである。

ようするに、どういうことか? たとえ人間が全員、滅亡したとしても、この世界が「ある」と言えない、というのは、なんか「おかしい」んじゃないのかと、しつこいまでに言っているわけである。

すなわち、複数の「現象的領野」のみが存在する、つまり[現象について]同調する複数の超越論的主観のみが存在し、それらは絶対的無のなかで動き、あるいは「漂っている」のだが、もし人類が絶滅することになれば、あらゆるものはその絶対的無へと消えていく----と主張するだろう。こんな見方はナンセンスだ、こんなふうに「無」という語を使っても何も考えたことにならない、意味のない空疎な語にすぎない、と言われるだろうか。しかしこんな見方こそ、強い相関主義においては正当なのだ。

どうして、掲題の著者はここまで「絶対」にこだわるのであろう? 上記の「強い相関主義」が言っていることは、むしろ、そういったことを「思考の想定」としていない、というレベルではないのか。というのは、もしもそんな事態になったとして、一体、その主張の「正しさ」を、一体誰が悩むのだろうか? 観念論は、外界の知覚と離れては「何も考えない」と言っていることに等しいわけで、つまりは、人間がこうやって生きているから、「妄想する」という、その「妄想」の

  • 存在

が「前提」になっている、ということなのであって、そういうものに対して、その「外」から批判をするのは、あまり建設的ではない印象を受ける。
例えば、日常用語において「ある(=存在する)」という表現を使うとき、それは、相手が「生きている人間」であることを前提にして「語りかけている」ということを自明としているわけだから、つまり、二人の同じ「部族」の「認識マシーン」の、「会話」であることが前提なのだから、日常用語は、そもそも、観念論的な「状況」が想定しているものであることが分かる。
つまり、日常用語がそもそも「絶対」を主張していないわけである。これが「絶対」を主張していると解釈するのは、一種の「論理学」なのであって、日常的な用法を離れて、「人工的」に、文章を組み立てることによって、こういった「命題」が生まれたのであるから、そういった命題をどうして、私たち日常を生きる存在が真面目に受けとらなければならないのか、と問いかけることは、それほど、矛盾はしていない。
すべての日常用語は、そもそも、「日常の文脈」を前提にしている。「ある / ない」も「知る / 知らない」も、すべて、その「部族」の中の日常的な文脈で使われる「意味」を前提にしているのであって、「(今まさに食べようとしている)リンゴがある」、「明日、うちの部族が狩りを行うことを計画していることを知る」といったように、そもそもこういった用語は

  • 人間(=部族)内の共同体の中で使う

ことを前提にしているのであって、昔からそうなのであるから、むしろここで、掲題の著者が論理学的に使おうとしているような、

  • 人間が存在しない状況

に「適用」しようとしていることの「可否」を、一体、誰が判断できるのであろう?
つまり、そういった「使用法」を、一体、だれが「許可」したのだろうか? もっと言うなら、そういった「新しい使用法」を使っておきながら、「話が合わない(=矛盾している)」という主張はどこか、論点先取りの誤謬を犯していないだろうか?
しかし、逆に掲題の著者の立場になって考えたとき、「どうなったら、それを<絶対>」と呼ぶことが許されるのだろうか、と問いかけてみよう。
もしも、なんらかの方法によって、「あらゆる宇宙の、はるか未来まで含めた、知的生命体が、その実在を認めた」ならば、もうそれを否定する存在はいない(うまれない)というのだから、もうそれは、「実在」と言ってもいいのではないだろうか。
というか、もしもそんなことが示されたとして、一体、それが「実在しない」という命題には、なにか意味があるのだろうか? だれも、それが「実在する」という表現を使ったからといって、「困らない(=嘘ではない)」のなら、もう、それでいいのではないか?
ようするに、どういうことかというと、先ほどから言っている「整合性」というのは、相当に強力なんじゃないのか、ということなのである。
私たち人間と、はるかかなたの宇宙に存在する知的生命体(=認識マシーン)で、その「対象」の認識の形式は一見して違っていたとしても、なんらかの「変換規則」によって、お互いに「変換」することで、認識的な「整合性」が合うなら、

  • それ

は「同じ」ものを指示している、と言えるかもしれない、と考えるわけであろう。
つまり、どういうことか? 掲題の著者が最初から言っているのは、「数学形式」はなぜ、この世界を「整合的」に説明することに成功しているのか、ということなのである。

というのも、祖先以前性を通じてここで問題となっているのは、まさしく科学の言説、とりわけ、そうした言説を特徴づけている数学的な形式だからである。したがって私たちの問題は次のようになる。人間のいない世界、現出に相関しない物や出来事で満ちた世界、世界への関係と相関しない世界、こうした世界が数学的言説によって記述可能になるのは、どうしてなのか。ここに、私たちが直面しなければならない謎がある。

しかし、そういう意味で考えるなら、掲題の著者のアジェンダ・セッティングは、著しく「カント」的と言えるのではないだろうか。というのは、カントが考えたのも、数学の問題であったわけであるし、どうして数学は特権的な位置に置かざるをえないのか、という数学の「奇妙」さのことであったわけであるし、そういう意味において、正直、掲題の本がなにか新しい何かを問題提起できたようには思えないわけである...。
(この本の第二章以降の議論は、まさに典型的な「形而上学」であり、私の関心の範疇ではないので、こういった議論につきあうつもりはない、ということになるだろうか...。)

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

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