ある勘違い

私たち人間は「認識マシーン」である。つまり、経験論だ。私たちが知っているのとは、私たちが経験したものであって、それ以外はない。
では、こんなふうに考えてみよう。私たちが経験するという場合、普通は私たちの回りを囲む「外界」のことである。つまり、私たちはどうも「外界」に囲まれて、それを知覚しているようである。ということは、である。

  • その「外界」の<外>

ってなんだろう? つまり、どういうことか? 私たちが知覚している「外界」の外。つまり、私たちが「知覚しない」所にある「もの」ということである。
しかし、「それ」は私たちが知覚できないのだから、それが「ある」と言うことには、なんらかの語義的な矛盾があるように思われる。
はるか未来や、はるか過去や、はるか宇宙の果てを私たちは「知覚」できないが、考えることはできる。こう言うと、一見ると、私たちは「知覚できない」ことも考えているのだから、やっぱり観念論は間違っていて、実在論は正しいんじゃないのか、と思うかもしれない。
しかしこの場合、考えているのは、ある種の「数学的モデル」だということなのだ。
例えば、幾何学において、「三角形」を考察の対象にするが、その場合に、紙に三角形の絵を描いて、「思考」の補助的な役割を果たしている。これは、確かに「思考」であるが、やはり一つの「経験」なのだ。
ただ、この場合、それが「数学」によって「モデル化」されているから、うまく「思考」と「モデル」が区別できないわけである。
おそらく、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』は、この間違いを犯していると思われる(おそらく、なにか勘違いをしている)。このロジカル・タイプのミスを行っているのであろう(それで、近年ではこの、思弁的実在論なるものの流行も終わりかけている、ということなのであろう)。
このことを、さきほどの例で考えるとするなら、私たちが経験する「外界」の<外>なるものがもしあるとして、私たちが経験する「外界」が、その<外>によって、さまざまに「影響」されているとしよう。
そうした場合、私たちは、ある「モデル」を考えてみるわけである。私たちが経験する「外界」と、その<外>というものを想定して、その間の「関係」を想定することによって、全体を「統一」する諸関係の理論を考えるのである。
そうすることによって、ある種の「説明のシンプル化」を目指すわけである。それによって、より世界の構造を簡略にして説明できるなら「有益」だ、というわけである。
しかし、そういった「モデル」は、しょせんは「数学的なモデル」に過ぎないわけでして、これ自体は、基本的には、上記の紙の上に描いた「三角形」と同じレベルのものに過ぎない。一見すると、この世界を「超越」するものを考えているような気分になって、ハイテンションになるかもしれないが、しょせんは、紙の上に描いた「三角形」

  • について

考えているのと変わらないのだから、やはりこれも、一種の「経験」の範囲のものに過ぎない、というわけなのである。
だとするなら、私たちが「経験」する「外界」の<外>だとか、カントの言う「物自体」だとかは、結局どう考えればいいのだろうか?
私は基本的にはカントのように「物自体」を「扱う」ことに留めるべき、ということになるのだと思う。私たちが「外界」を知覚するということは、なんらかの、このようにして私たちの「知覚」を触発している「外界」があるのであろう。しかしそれは、知覚を媒介することによってしか私たちは近づけない。それは

  • どこまで行っても

そうなのだ。私たちは、ある種の「認識マシーン」として生まれてきた。そして、それは「認識マシーン」が「認識マシーン」として生まれてきた「宿命」なのであって、しょせん、その程度の分際であるにも関わらず、そこから逃れられると思うことが、おこがましいわけである...(まあ、こう言ってしまうと、カント的「有限性」の範囲ということになって、つまらない結論ではあるがw)。