キメラ

カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』を、とりあえず、最後まで読んだのだが、うーん。
カントの「物自体」は、著者も言っているように、「弱い相関主義」になっていて、つまり、人間は「物自体」を知覚することはできないけれども、「思考」することはできる、と整理した。
このことを、著者は、「思考可能なあらゆる事態」が、

  • 確率的

に「思考できる」というふうに解釈した。
ところが、ここで困ったことが起きる。
それは、「あらゆる思考可能なものの<確率>」って、なんだ? ということなのである。
ある瞬間、私は、その一瞬まで「普通」に暮らしてきた。しかし、その瞬間の「すぐ後」で、私が「キメラ」になったとする。キメラとは、ギリシャ神話における想像上の存在であるが、ライオンの頭に山羊の胴体、毒蛇の尻尾をもつ、という。
言うまでもなく「キメラ」は、

  • 想像可能

なのだから、そうである限り、上記のカントの「弱い相関主義」の定義上、「思考可能」な「確率」の一つの「候補」になりうる、ということになる。
このようにして、その「次の瞬間」において考えられる「候補」を「思考」していくと、まあさ。なんの制限もないわけですよ。どんな、あらゆることも「想像可能」なんですから、そうである限り、それら一つ一つを「候補」にしないわけにいきませんよね。
ということはどういうことかというと、まあ、可算無限ですみそうもないとなれば、もう、超限順序数であらわすしかない、ということになる。ところが、そうすると困ったことになる。超限順序数は、どんな超限順序数に対しても、それより真に大きい超限順序数があることが分かっている。ようするに、

  • いつまでたっても確率が確定しない

わけである。事象空間が確定しない。論理的にできない。だから、確率が確定しない。確率が確定しないものの「確率」を考えることは無意味だから、なにかがおかしい、ということらしいw
まあ、これがいわゆる「可能世界論」の、論理的帰結ってやつですよねw 
カントの「物自体」は「思考可能」という命題に準拠することで、どんな「思考可能」な事態も、「起こりうる」という意味において、今の次の瞬間に、「どんな物理法則であれ、そのルールが破られる事態が起きうる」と解釈するとき、この命題は

  • だとするなら、今の瞬間以前に、一度でもこの物理法則のルールが破られたことを証明する<証拠>があるのか?

と問うなら、まあ、ようするに、そういった「証拠」は一つもない。でも、だからって、その次の瞬間には、なにが起きたって、不思議はないでしょ? ということなわけである。
では、逆に考えて、なぜ、私たちは過去を遡って、こういった物理法則の「ルール」に反することが起きたとする、「証拠」を見つけられないのであろうか?
まあ、普通に考えて、上記のカントの言う「物自体」を知覚できないが、思考することは可能だ、という部分の「解釈」に、なにか無理があるんでしょうね。たしかに、「物自体」が「思考可能」なら、「実在的」だ、と言いたくはなりますね。つまり、おそらく、この場合の「思考可能」の意味が違うんでしょうね。
おそらく著者は、「物自体」が「思考可能」という意味を、<すべて>の思考可能なものを列挙していけば、一つは「正しい」ものが存在している、という意味で解釈したのではないか。しかし、カントの言う意味はそうではなく、私たちは「物自体」というものがきっとあるのだろうと想定して、感覚世界をそれとの関係で考えることはできるが、実際の「物自体」がなんなのかを例示することはできない(つまり、それは私たちの「想像」を超えている)ということなのであろう...。
(それにしても、また、対角線論法ですか。現代思想って、いつまで、不完全性定理で飯を喰い続けるんですかねw)