科学という「実在」への違和感

科学を考える場合に大事なことは、科学は別に、「真実」を確定させることを目的としていない、ということなのである。
つまり、なにが「実在」なのかは、科学は最終的に「解決」しない。
なぜなら、科学は「帰納法」ではないから。
つまり、どんなに無数の「証拠」を集めても、科学はそこから「真実」を導かない。
では、科学は何をやっている、ということになるのだろうか?
科学は、なにか「真実」を指定する代わりに、なにが「仮説でない」かを、ひとまず、「確定」する。つまり、「反証」によって。
では、反証が示されていない「仮説」はなんだ、ということになるであろうか?
反証されない、ということは何を意味しているか。
ある「仮説」に準じて、ある「計算」を行ったところ、測定とその「計算」が、誤差の範囲で「一致」したとするなら、その「仮説」は、反証されなかった、ということになる。
つまり、この状態が「現在まで続いている」というわけである。もちろん、この「試行」が現在まで、何回行われたかは分からない。分からないが、いずれにしろ、上記の状態がずっと続いた、というわけなのである。

  • 試行:インプット --> 観測情報
  • 計算:インプット情報 --> アウトプット情報
  • 結果:アウトプット情報 =_(誤差の範囲) 観測情報

つまり、どういうことか。この「計算」公理は、ある「定常性」を、この世界において担保している、と考えられる。一定の働き掛けをすると、一定の反応が返ってくる。そこに「定常性」が、あるということから、この世界には、一定の

  • 性質

をもっている、と言えるのではないか、と考えるわけである。
私たちが一般的な意味において、ある「もの」が「実在」する、と言うとき、普通に考えて、「それ」と指示できないものが「実在」すると言っても、しょうがないんじゃないのか、と思える。ところが、「科学」は違う。科学における「実在」は、あくまでも、計算のアウトプット・データと、観測データの「(誤差の範囲の)同一性」についてしか考えていない。この数値の近さから

  • なにかが「ある」

と言う、というロジックになっているが、だからといって、その結果をもたらした「それ」といったものを、私たちはうまく指示できない。
例えば、量子力学における、コペンハーゲン解釈は、奇妙キテレツな「説明体系」しかもたないが、とにもかくにも、「計算」すると一致してしまう。つまり、この「実在」ってなんなんだ、ということなのだ。
科学は一つの、数学的公理系である。つまり、

  • 演算体系

だと言っていい。例えば、古典力学の場合を考えると、そこにおける「解釈」は、確かに「実在」的である。つまり、その「解釈」が、まるで、そこに「もの」があり、その「モノ」の諸関係が、たとえ、一個一個の対象が「抽象的」な「構成物」になっていようとも、それらの関係が、まるで「ユークリッド幾何学」になっているかのように、その「直感的モデル」をイメージすることは、それほど難しくない。
ところが、量子力学の場合、こういった説得的な「直感的モデル」が「発見」されていない。つまり、「解釈」が確定しない。つまり、「解釈」より以前に

  • 公理系(=演算体系)

だけが、先に提示されたわけである。
確かに、量子力学的な現象を「観測」すれば、それは、一つの演算体系で収束する。ということは、今までの文脈から、そこになんらかの「実在」をうかがうことができる、ということになるであろう。
しかしこの場合、それが「ある」と言うには、あまりにも奇妙な事態になっている。確かに、なんらかの「演算」を行えば、その結論と一致する。しかし、この場合のその計算を行うということが、

  • 結局のところ、何を行っていることになるのか

をうまく説明できない。とにかく、そういった「説明」を、「無視」して、ある「一定の定常性」がある、と言わざるをえない状態になっている。
この場合、この「計算と測定の定常性」は、一体、何から「もたらされた」のか、がよく分からない。
私は今、なにかを計算している。この計算をすれば、確かに、測定結果と誤差の範囲で一致する。しかし、その一致するということの「意味」が、いつまでたっても、はっきりしない。
確かに、「なぜ」この計算は一致するのか、と問いたくなる気持ちは分かる。しかし、逆にこんなふうに問い直してみることは可能なのではないか。つまり、なぜ「科学」は多くの場合、なんらかの「直感的モデル」によって「解釈」が可能だったのか、と。それは、その「対象」が、私たちの

  • 日常言語

の慣習的な使用の範囲において扱えるものであったため、「直感的」な扱いが普通に可能だったから、というわけである。つまり、「科学」と「直感的モデル」の「解釈」の併置は、少しも「一般的」ではない、ということなのである。
科学とは、上記の議論を敷衍するなら、

  • 直感的モデルによる「解釈」を媒介とした「実在」

のことではなく、

  • 数学的公理系(=演算体系)

のことを意味しているに過ぎなく、決して、「直感的モデル」による「解釈」が

  • 必然的に導出される

ことを自明としない。つまり、「直感的モデル」の方は、科学の本質とは関係ない、ということになる。
なぜ私が、「それ」を「実在」と呼ぶことに、違和感を訴え続けているのか。それは、「それ」を指示できないからなのだ。量子力学は、「計算」であって、「対象」ではない。なぜなら、「それ」と指示できないから。もし量子力学を「指示」したいと思うなら、この宇宙全体を指示するしかない。私たちは、そういったものを「実在」と呼ぶだろうか? 少なくとも、一般的な用語の使い方ではない。
科学における「直感的モデル」は、「実在」ではなく「アナロジー」である。こういったアナロジは私たちの思考にとって、補助的な有用性をもっているが、常に、こういった「直感的モデル」が存在しているわけではない。というか、科学は別に、その存在を必須とはしていない。
うーん。
少し、冷静になって、この事態について考えてみよう。
なぜ、こんなことになるのか?
ちょっと考えてみよう。そもそも、私たちがここで言っている「実在」とは、なんなのだろう? 私たちはそもそも、

  • どんな条件を満たしていれば、それを「実在」と認めるのか?

と問うたとき、そもそも、私たちがこの日常において「直感的」に感覚している範囲での「もの」とか「形」といった「性質」を備えていないものを「実在」とイメージできるのだろうか?
私たち人間が生活している範囲での、さまざまな感覚や情報は、私たちの「モノのスケール」の範囲において、直観されるものとなっていないだろうか。例えば、ユークリッド幾何学を考えたとき、私たちはそれを「紙の上に描いた三角形」をイメージして、思考しているが、言うまでもなく、この「三角形」は、量子力学レベルの、原子や陽子や電子と

  • 同じ大きさ

のものであったっていい。しかし、多くの場合、わざわざ、そんな小さな「三角形」をイメージする人はいないであろう。
つまりどういうことか?
哲学は、「人間」によって汚染されている。形而上学は最初から、人間の「日常的な慣習」の範囲で、「自明」なものによって「構成」されている。
つまり、ここで私たちが実在と呼ぶことによって行っていることには、こういった「哲学=形而上学」といった

  • 人間の日常的な<直観>に引き寄せて、世界を歪めて見る

ことを、どこか「科学」と呼んでいるのではないか、という疑いがぬぐえないわけである。
人間が「分かる」と言うとき、私たちはどこか、「自分が、まざまなとイメージを描ける」風景を「構成」しているにすぎず、私たちは「それ」を「実在」と呼んでいる。しかし、だとするなら、それが「歪められたイメージ」によって、世界をいびつに把握している、ということを結果するとするなら、むしろ、私たちは

  • あえて、科学は実在ではない

と言わなければならないのではないだろうか。直感的な、イメージをもつという「哲学=形而上学」を行うことが、科学を「実在」たらしめる条件だとするなら、私たちは「あえて」、科学の「実在」を否定しなければならない。なぜなら、それは「幻想」なのだから...。