萱野稔人『暴力と富と資本主義』

近代における、国民国家、ネーション・ステートと呼ばれる何かが、結局のところなんなのかは、私なんかから言わせてもらうと、正直、それ単体を何かだと言うことに違和感をどうしても覚えてしまう。
なぜなら、国家は、周辺国から「国家扱い」をされることによって、始めて国家となるわけであるし、だとするなら、その国家単体で「国家」と呼ぶことは不可能なのではないか。
ようするに、この地球上にある国家は、それら「全て」を、なんらかの

  • 一つ

の集団的「ルール」によって規制されている、全体として捉えなければ、意味がないと思われるからである。
例えば、シリアという国家は、つい最近まで国民を独裁者が暴虐の限りを尽している、ということで、アメリカなどが、その独裁を終わらせるために、さまざまな工作活動をやっている、といった解釈が一般的であったが、突然そこに「イスラム国」なる存在が現れると、むしろ、「イスラム国」が今の世界の「国家秩序」に挑戦する存在として脅威となったことで、逆に国際社会は

  • 今のシリアの国家秩序

を「守る」立場を鮮明にしなければならなくなっている。ようするに、イスラム国は、今の世界の国連に代表されるような「国家」秩序を認めていないと言っているために、その他の国々は、確かにシリアにはいろいろ問題はあるけど、今の自分たちの国家秩序に挑戦されているイスラム国の脅威に対抗するという一点において、シリアは自分たちの側だ、となってしまったわけである。
しかし、そうやって考えてみると、そもそも、ある国家単独で「それは何か」なんていうことを考えることに、果して意味があるのか、と思えてくるわけである。
そのことは、掲題の本が必死になって、国家の本質は「暴力の独占」にある、と言えば言うほど、なんだかその理屈の奇妙さが際立ってしまう。そのことは、アメリカという超大国の近くで、小さくポツンと存在している、この日本という国は、果して、アメリカと並び称されるようなものなのだろうか? 日本がアメリカと「同じ」国家だ、と言われれば言われるほど、なにかその理屈の奇妙さが意識される。同じ、とは、この文脈では、どういう意味なのだろう? 同じ国家?
例えば、もしも、沖縄が「独立」したら、日本と沖縄は「同じ国家」ということになるわけだが、この場合の「同じ」と言うことには、どんな意味があるのだろうか?
確かにアメリカと日本は、別の国であり、日本での民主主義によって決めたルールは日本国内だけで通用して、アメリカにまで影響を及ぼさないわけだが、実際の国際社会の「ルール」においては、上記の「イスラム国」が分かりやすいように、実際は日本は、アメリカを本気で怒らせるようなことはしない。ということは、基本的には、アメリカが「受け入れ可能」な範囲で、民主主義ごっこをやっているにすぎないわけで、これが

  • 国際ルール

になっている。「イスラム国」のように、今の世界国家秩序を全体として認めない、といったような、まったく世界国家秩序を無視したような「民主主義的決定」は、実際のところは、長期的には維持できない。
一見、国家はあらゆる束縛から独立して、存在しうるように思われても、結局のところ、その周辺国家との関係において、さまざまに規制されているわけで、だとするなら、その国家を独立で「何か」であると言うことに、果してなんの意味があるのだろうか?

また、火器(銃)の発達は兵力のあり方を根本的に変えた。それまでは鎧をまとって馬に乗った重騎兵部隊が兵力の中心だった。重騎兵たちは、みずからの武術と馬術という個人的な技量にもとづいて戦うため、王に対しても部隊に対しても相対的に自立的な存在となる。これに対し火器の発達は、重騎兵部隊による個々人のパフォーマンスよりも、火器をもった歩兵部隊の組織力のほうを有利にした。その結果、火器を調達し歩兵部隊を組織する王の力の優位性が高まる。火器の発達は、王に軍事力が集中することを可能にし、同時に重騎兵である戦士貴族ちの自立性を奪っていったのである。

現代の戦争は、ゴルゴ13の世界であり、スナイパーがなんの証拠も残さずに暗殺をする。こうなってしまうと、陰でこそこそと暗殺をするような卑怯な奴が一番強いということになる。そして、銃を野放図に市民に解放したなら、必然的に、指導者は陰から暗殺される。
こういった世界においては、いわゆる「暴力」「一番強い」といった概念が維持できなくなる。どんな指導者も、現れては暗殺され、次々と出る杭は打たれて、結局世界には、指導者は原理的に現れえない、という状況が実現されてしまう。
そこで、どうなるか?

  • ルール

である。どこの国にも、警察組織をもっているわけだが、その警察が暴力を使えるのは、相手が「ルール」を破ったから、である。
だとするなら、

  • 警察自らが「ルール」を破った

ときどうなるか? 世界の「ルール」によって、さまざまな世界の警察組織が、この一国の警察を裁くことになる。権力者においても同じで、

  • 権力者が「ルール」を破った

場合は、裁判にかけられ、有罪とされ、牢屋に放り込まれる。
私たち日本人が日常的に拳銃をもって街中を歩いていないのは、「ルール」が禁止しているからで、歩いている人はいるわけである。ヤクザとか。しかし、普通の人はそれをしない。
ルールの特徴は、だれも、そのルールから逃れられない、というところにある。つまり、主張が普遍的なのだ。ある権力者がこのルールを使って国民に圧政を行いたくても、その圧政は、自らにも襲ってくる。なぜなら、権力者も「国民」だからだ。
私たちは「暴力」というのは、こういった「ルール」の外にあるもの、と考えがちだ。しかし、よく考えてみてほしい。
もしも、ある日、宇宙人が日本を襲ってきたとしよう。その時、私たち日本国民は「銃を所持してはならない」「刀を所持してはならない」といったルールによって、宇宙人と戦う前から、武装解除されている。そのため、日本人が宇宙人との戦闘で

  • 負けた

場合に、果して、この「ルール」はなんだったのか、ということにならないだろうか?
同じような話は、例えば、私たちが山に「狩り」に行こうと思ったとしよう。山にいる、獲物をとらえ、今夜の晩飯にしようと思ったとき、猟銃があれば、私たちは獣をとらえられる。同じように、自分の家の回りを、さまざまな動物が徘徊していて、自分の身を守るためには、そういった武器が必要だとするなら、どうして国家はそれを規制できるだろうか。
私たちが、その日の料理を作るときには、包丁を使うし、火を使う。それは、ある意味において

  • 武器

として使えるわけで、こういった延長において考えたとき、私たちが「武装解除」されているとは、どういう意味なのだろう、と思うわけである。
私たちは本当の意味で、武装解除されているのだろうか?
つまり、そうではなく、ここには「ルール」があるわけである。何かをどう使うのかは、すべて「ルール」によって、規制されている。しかし、その状態を私たちは、どう呼べばいいのかを、うまく言葉にできない。
国家が暴力を独占していることは確かだとしても、その暴力を国家は、「ルール」を介してしか使えない。そして、このルールは、さまざまなレイアーにおいて、一国を超えて、影響している。国家はルールを介して暴力を実行するが、その国家もルールを介して暴力を実行される。こういった事態において、そもそもの「権力者」という表現はよく分からなくなっていくわけである。
ロッキード事件で、田中元首相は有罪にされたわけだが、ここにおいては、どうもアメリカの利害にからんだ圧力があったのではないか、と考えられている。そうだとするなら、そもそもこの「ルール」の網から解放されている人などいるのだろうか? というか、そういった「ルール」の網の中において、一時的な暴力装置に一体、なんの意味があるというのだろうか...。