杉田聡『天は人の下に人を造る』

アニメ「ローリングガールズ」の第一話の最初で、このアニメの世界観が説明される。そこにおいて、東京大決戦の後、道州制から旧都道府県に分割されただけでなく独立し、独自の発展をしていったとされているわけであるが、その説明において、いわゆる

  • 富裕層

が消滅した、といったことが、さらっと語られる。確かに、この作品を見ている限り、あまり、お金持ちっぽい人たちがいない。つまり、高級住宅街的な人たちが、ほとんど出てことない。
こうやってみると、それって、言わば、プロレタリア革命の成功した、一つの共産社会を描いている、と解釈することもできるのだろう、と思うわけである。
私がここで、このアニメの話を最初に行おうと思ったのは、つまりは、貧困層と富裕層の問題を、ちゃんとやらないといけないんじゃないのかと、どうしても思うからである。つまり、多くの人は、あまりにこういった問題について、ナイーブすぎる。きっと、御上は自分たち下々の者のことを考えて、善政を行ってくれるんだ、相手の意図を疑うなんて失礼なことをやったら、相手が気分を害してしまう。こんな感じなのである。
しかし、例えば、久野収鶴見俊輔の『現代日本の政治思想』(岩波新書)において、顕教密教が日本の政治にはある、と言ったように、日本の政治は、表向きの民主主義の裏側には、天皇制がある。よって、必然的に、日本の国家主義的知識人は

になる。人が聞いているパブリックな場では、穏当なことしか言わないが、陰では、恐しい国家主義者として、民衆を生かさず殺さずで政治を行え、と言っているわけである。
私はそういう意味で、日本の国家主義的知識人が怖い。陰で何を考えているか分からない、という意味で、怖い。
その代表としては、例えば、最近刊行された新書で、小林よしのりさんと、宮台真司さんと、東浩紀さんが鼎談を行っていたが、宮台さんなんて、昔から自分を天皇主義者だと言っているし、まあ、この三人が対談を行っているという時点で、なんらかの「保守主義」を、共有していることは前提なわけであり、だからこそ、宮台さんも東さんも、心の底では何を考えているか分からない、恐しさが、どうしてもぬぐえないわけである。
そのことは、例えば、東さんは以前出版した、『日本2.0』という雑誌の巻頭言という重要な場所で、わざわざ福沢諭吉を引用してたり、また、宮台さんも何度も重要な場面で、福沢諭吉を肯定的なニュアンスで名前を挙げてきたわけで、そういう意味では、彼らが近年の安川寿之輔先生や、杉田聡先生の研究を知らないはずがないにもかかわらず、わざわざ、福沢諭吉の名前を重要な場面でだすことの

  • 恐しさ

を、私などは、どうしても考えさせられるわけである。
宮台さんも東さんも、お互いが共通していることは、自分は「左翼じゃない」と言っていることで、逆に彼らの言う左翼のオールタナティブって、なんなんだろう、と考えたときに、私なんかは、宮台さんも東さんも、いわゆる一つの

だと考えると、いろいろなことが納得してくるんじゃないのか、と思うわけである。
例えば、東さんが在特会ヘイトスピーチが問題になり始めた最初になぜか、「ヘイトスピーチ規制に反対」の論陣をはったわけで、その意味不明な理屈の恐しさが、ちょうど、福沢諭吉が晩年、痛烈に中国人や韓国人に「ヘイトスピーチ」を行ったことを想起させるわけで、彼なりに「福沢的なるもの」の擁護の意図があったんじゃないのか、といった勘繰りさえしてしまいたくなるような不自然さだったわけであろう。
宮台さんはさかんに、エリート教育における「選民」的な少数精鋭化の重要性を強調しているわけで、つまりは、大衆教育の高学歴化に反対なわけであろう。以前の民主党政権のときは「コンクリートから人へ」と言っていたように、福祉予算などに重点的に配分されていくのかと思っていたのだが、最近の宮台さんの発言は、現在のグローバル経済においては、国民への福祉は「無理」だという主張に変わってきたようでw、まさにそのまま、福沢諭吉主義そのものになってきやがった。もともと、宮台さんは重武装主義者なわけで、「コンクリートから人へ」ではなく、「人から戦艦へ」の人なわけであろう。国民への福祉を止めて、そのお金を、軍事費に注げ、というわけであろう(まあ、天皇主義者の必然的な帰結のように思うが)。エリート以外の国民への福祉を止めれば、その余ったお金で、戦争の武器が買える。
確かにそう考えてくると、宮台さんの言っていることは、福沢諭吉に似ている。そして、宮台さんの弟子みたいなものの、東さんも福沢諭吉に似ている。つまりは、二人とも、国家主義者だから、その波長に強弱はあっても、言っていることが、どこまでも、福沢諭吉から、どれくらいの距離か、といったくらいの差しかなくなる。

三、だが、それでは結局中途半端であると福沢は考える。むしろ福沢は、授業料の安い「官立学校」を廃止し、それをすべて「私立学校」へと改編させるべきだと主張する。
その理由を明示して、福沢はおう記す。公共のものたるべき公費を用いて学校を設け、「一個人の私のために利を謀るがごときは理財の数[=道理]において許されざるところ」、と。教育は私の利益を謀る營みであると福沢は言うが、教育(を受けること)を人間としての権利と見なす発想が見られないのは、いかにも物悲しいではないか。しかもはっきりと貧民を名指しつつ、「天下公共は人の私を助くるの義務あらざれば......貧家の子を教うるに公共の資本をもってすべからざるの理由もまた明白」とあからさまに記す場合もある。貧民であろうと教育において格差を設けてはならないと主張したフランス革命期のコンドルセと、何とかけ離れた非情な主張であろうか。残念だが、これが日本の顔・福沢諭吉の偽らある姿である。

宮台さんが主導して行った「ゆとり教育」も、福沢の主張した、貧民には「最低限の読み書き、そろばんで十分」をまさに体現した教育だったわけで、ようするに、宮台さん、東さんの

  • アクマ的哲学ネタ

のネタ元は、福沢諭吉なんじゃないか、と私は予想している。怖い怖い...。