小倉紀蔵『新しい論語』

カントの実践理性批判は、読んでみると奇妙な論理になっていて、つまり、結果として「自由」というのは、例えば、この地球上の人間「全員」にとっての自由でなければならないのだから、そこから「逆算」して、自由がどういうものでなければならないかは決まる、といったような形になっている。つまり、最初から

  • この地球上に存在する全員の「自由=幸福」を、なんらかの形においても「犠牲=手段」にした形の自由を認めない

といったような形になっていて、つまり、最初から、「他者」が議論の前提になっている。
まあ、ある意味において当然な話であって、地球上のどこかで、理不尽な扱いによって、くやしさや苦しみや憎しみの中にいる人が一方でいるのに、他方で、こっちはハッピーだからって、ドンチャン騒ぎをしていたら、まさに

  • 不謹慎

だよな、ということになるわけで、幸せになるのなら、みんなが幸せでなければならない、というのは一つの倫理なのだろう、となるわけである。
しかし、こういった視点は、さらに深く進めることが可能なわけで、自分の幸せだけでなく、「みんな」の幸せが重要だというなら、そもそも、私たちにとっての価値とは、「みんな」のことなんじゃないのか、と言うこともできるわけである。もっと言えば、この世界のあらゆることの価値は

  • みんな

に集約することができる。つまり、この人間界における全ての「目的」は「みんな」だ、と。つまり、あらゆる一切は、究極的には「みんな」にとってどうなのか「だけ」が本質的なのであって、それ以外は「どうでもいい」と。
まあ、これが倫理学ということなんだよね。
しかし、こういった視点は、なかなか興味深くて、例えば、アニミズムについて考えてみよう。アニミズムにおいては、外界の事物は擬人化される。しかし、そう言うと、まず最初に近代科学合理主義は、「嘲笑」するわけである。非科学的だ、と。
確かにそうなのかもしれないし、それらが結果として、さまざまな迷信といった「非科学的」な規範となり、因習として、忌むべきものとされているのかもしれない。しかし、よく考えてみてほしい。アニミズムとは一種の「比喩」である。しかし、その「比喩」も、結果として、相手にとってのなんらかの「ハッピー」を

  • 思い遣って

行われたことだとするなら、そこまで非難されるべきなのか、ということになるわけである。
アニミズムは、確かに、自然の擬人化であるわけだが、なぜここで、それを比喩として語っているのか? そう考えてみると、つまりは、その比喩によって、なにか

  • もっと大事なもの

を、こういう形によってしか「指示」できなかった、ということなのではないだろうか?
例えば、ハイデッガーハンナ・アーレントにとって、「公共」とは、さまざまな人の、さまざまな「視線」の重なり合ったプリズムのようなもので、最初から独我論的なものではない。私が見ているものは、ある確率で、どこかの誰かが見ているのであって、つまりは、私のあらゆる「行為」は、だれかが見て、だれかに伝えるもので、つまりは一つの

  • メッセージ

になっている、ということなのである。そこで、上記の話に繋がる。
私のあらゆる行為は、だれかへの私のメッセージだとするなら、それらは、上記の文脈から言えば、なんらかの「倫理的」な性格を帯びないわけにいかない。それは、たとえ、唯物論的な、科学的ななにかの判断をしている場合であっても。むしろ、逆なのである。そういった場面で、倫理的でないことは、そうであることをもって、唯物論ではない、ということになる。
つまり、私たちの全ての「行動」や、全ての「発言」はそういう意味で、なんらかの他者への「励まし」になっていないわけにはいかない。つまり、そうでない、という「場所」を認めない、ということである。
人間が集団としての存在であり、この集団として生き残ることを目的とした何かであるとするなら、ここで私たちが注意すべきは、

  • その諸関係を壊そうとする行為

であると考えられるであろう。つまり、一部のお金持ちやエリートだけを「優遇」して、その他の大衆を同じ人間扱いをしない。そういった特権意識にとらわれた存在は、こういった関係を危険にさらす。つまり、一種の「フリーライダー」は、この人類を滅ぼす悪魔なわけだが、それはさまざまな共同生活の場面において毎日起きていることでもあるわけであろう。むしろ、そういった一つ一つがうまくいっているなら、「あらゆる」ことはうまくいくわけで、そのことに上も下もない、ということなのであろう。

孔子の若年期のエピソードを何の先入観なしに解釈するなら、次のような孔丘青年の像が浮かび上がってくるだろう(丘は孔子の名)。
まず何よりも貧しかった。父親を三歳(諸説あり)で亡くし、母親を十七歳(諸説あり)で亡くしている。姉がたくさんおり、また足が不自由な腹違いの兄がひとりいた。「鄙事に多能なり」については後に詳しく論じるが、木村英一の表現を借りれば、孔子は若い頃、食うためにさまざまな「アルバイト」をしたという意味である(『孔子論語創文社、一九七一)。職を選ぶなどという悠長なことをいっていられない。父母はすでに亡く、養うべき家族は多かった。
そのような何も持っていない若者が生活のためにただひたすら必死で働くとき、何をもっも重要視するであろうか。それは、まず第一に馘にならないことである。そして第二に、上司から認めてもらうことである。馘にならないためにはどうしたらようであろうか。人の顔色をよく見るのである。このアルバイトを馘になったら、またほかの仕事を探せばよいさ、という気楽な稼業をしているわけではない。文字通り、馘になったら明日からの生活ができない、というくらい切羽詰まった状況なのである。ただ必死で働いているだけでは認めてくれない。上司の顔色を見ながら、倉庫の出納係の際は倉庫に穀物を出し入れする人びとの表情や人間的特徴をきわめて性格に把握し、また動物飼育係の際には動物の個々の個体の表情や生物学的特徴をつぶさに研究したはずである。実際、鴻はこれらの仕事にいてめざましい成果を挙げたとされる。

こうしてみると、孔子を特徴づけるものは、彼がいわゆる「労働者階級」の基本的なトレーニングを積んでいた人だった、ということになるであろう。つまり、労働者として優秀だったということが、労働者としての基本的な倫理を理解していた人だった、というわけである。
会社というヒエラルキーを考えても、会社の毎日のルーティーンが成功するのは、最終的には、末端の労働者が文句も言わずに、必死に働いてくれるからなわけであるが。問題はなぜ彼らが「いい人」なのか、にある。それは、彼ら末端の労働者が、基本的に回りの「機嫌」をとても注意深く観察して、問題の発生を事前に摘んでいるから、と考えられる。
集団がなぜ集団を形成できているのかは、その集団のトップの仁徳というより、その集団の末端が

  • 優秀

だから、と言う方が正確だと言えるであろう。トップとは、ある意味での「お飾り」であって、末端の生活にはなんの関係もない。むしろ、トップはいかにして、末端の邪魔にならないかが「仕事」だと言ってもいいくらいで、問題はなぜ、末端は、自らの仕事の条件も悪いのにもかかわらず、真面目に汗水たらして、がんばるのか、が問題なのだ。
基本的に論語孔子が言っていることもそういうことで、彼は終始、末端の「倫理」を述べている。つまり、真面目に働く労働者の視線で倫理を語っている。だから、彼の言葉には一定の倫理がある。なんとなく、彼の言っていることが実現するなら、人間はもう少し未来まで生き残れそう、な気がしてくるわけである。
確かに「仁」という言葉を、そういった、なにか「底辺の職業倫理」のようなもので考えると、いろいろと納得する部分がある。もっと言えば、そういった「底辺の職業」が、いろんな意味で「幸せ」ななにかであるなら、ほとんどのこの世界の問題というのは解決するんじゃないのか、とさえ思われる。

見えないモノを見ようとして 望遠鏡を除き込んだ
(BUNP OF CHIKEN「天体観測」)

僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ
ただひとつ 今も思い出すよ
予報外れの雨に打たれて 泣きだしそうな
君の奮える手を 握れなかった あの日を
(BUNP OF CHIKEN「天体観測」)

見えてるモノを 見落として 望遠鏡をまた担いで
(BUNP OF CHIKEN「天体観測」)

上記の詞においては、確かに望遠鏡を覗き込んだ先というのは、たんに、宇宙空間の星が拡大されて見えるだけなのであり、そういう意味では、唯物論的で科学的な事実でしかないわけだが、そこに、なんらかの倫理的な契機が見出されているわけであろう。つまり、覗き込んで見えるというのは、普通では見えない、ということを意味している。その見えないものが見えるようになるという契機が、あの日の、なんらかの人間的な、つらいけど、重要な事実に向き合うということを暗喩している。つまり、望遠鏡を見ることは、なんらかの倫理的な実践的行為を行うことと、平行して語られている。

ロンリー グローリー 最果てから声がする
選ばれなかった名前を 呼び続けている光がある
オンリー グローリー 君だけが貰うトロフィー
特別じゃないその手が 触る事を許された光
(BUNP OF CHIKEN「オンリー ロンリー グローリー」)

こういったアニミズム的な世界観は、ある意味において、私たち孤独な人間の「他者」として、自然をまるで神のような対話相手として見出すことになる。大衆社会においては、私たちはたんに、多くの人たちの中の統計的なワンノブゼムに過ぎない。つまり、自分じゃない誰でもいいのだ。常に、賞賛されるのは、エリートの一部であり、スポットライトをあびるのか彼らにすぎない。しかし、

  • 自然

はすべからく、私たち一人一人に答えてくる。それは「最果て」の「唯一」の何かとして現れる。

全てが形を 変えて 消えても
その耳を 澄ましておくれ
涙目を 凝らしてくれ
響く鐘の音の様な
ホラ
鐘に揺れる旗の様な
あのメデロディーはなんだっけ 思い出しておくれ
(BUNP OF CHIKEN「メロディーフラッグ」)

自然はたんに自然なのではない。それは、私たちの勲章の証だと言うこともできる。今の自然がこうであるのは、どこかのだれかが、

  • 私のため

に、私への「思い遣り」のために、このようにあらしめた、と言うこともできる。それが刻まれているのが、自然である。まさに、全てが形を変え、消えてしまう、その隙間から、私たちに向けて、それは体現され、現れる。まるで、なにかの「フラッグ」のように。

耳障りな電話のベル
「元気?」って たずねる 君の声
僕の事なんか ひとつも知らないくせに
僕の事なんか 明日は 忘れるくせに
そのひとことが 温かかった
僕の事なんか 知らないくせに
(BUNP OF CHIKEN「ベル)

上記のような文脈から考えてみると、私たちというのは孤独で寂しい生き物だということになる。本当の意味で、私たちが誰かと繋がっていると言うことはできない。結局は最後は他人なのだ。他人であり、なんの関係もない、お互いだというのに、逆説的だが、どこかしら、私たちはその「文脈」の中に、なにかの希望を見出さずにいられない。それを弱さとか、汚なさと言ってもいいが、そうしないと生きていけない、そんなに強くない、と言うこともできるであろう。
彼女が言った「元気?」という言葉は、ただの「あいさつ」にすぎない。彼女は私になんの関心もない。明日には、自分のことが、いたこと自体を忘れてしまうくらいに、どうでもいい存在にすぎない。しかし、たとえそうだったとしても、その「元気?」という一言を、嬉しいと思わずにいられない。私たちは、そういうふうにできている、としか言うことができないわけである...。

新しい論語 (ちくま新書)

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