リベラリズムの嘘

リベラリズムというものを私が「うさんくさい」と思うようになったのは、まあ、リチャード・ローティが「うさんくさい」と思うようになってから、ということになるのだろうか。
例えば、リチャード・ローティは彼の「プラグマティズム」の果てに、アメリカン・ナショナリズムということを言い始めるようになる。同じように、井上達夫先生は、日本の徴兵制と憲法九条の削除を言うようになる。
なぜリベラリズムは「ナショナリズム」に近づくことになるのか?
リベラリズムというのは、例えば、アメリカにおける、ジョン・ロールズの議論の延長にあった、と言えるであろう。アメリカは多民族国家だ。多くの民族が世界中から移民してきて作った国家だ。そうであるために、各民族ルーツをもつ一人一人にはベースとなる慣習がない。そういったものがない国家で、どのようにして、ベースとなるものを見つければいいのか、が問われている。
そこから、リベラリズムは、ある種の「消去法」を発明した。

ここには、リベラルなコミュニティを可能にするすべて、すなわち「最小公分母」----苦痛や苦悶の防止----と「慇懃なる無視」----他のサークルの営み(幸福の追求)に口を挟まない----が明瞭に語られている。これに呼応するかのように、ローティはこう述べる。

我々は、数多のプライヴェートな会員制(exclusive)クラブに取り囲まれたバザールをモデルに、世界秩序の構築を目指すことができる。
......かかるバザールに集う人々の多くは、彼らと掛け合いする大方の相手の信念を分かち持つくらいなら死んだ方がましだと思いつつも、なお、うまい具合に渡り合ってゆくものだ。明らかに、その手のバザールは、アラスデア・マッキンタイアやロバート・ベーのごときリベラリズムの批判者たちの言う、すなわち「共同体」の強く是認的な意味での共同体ではない。......しかし、我々はブルジョワ民主主義的な市民社会を描くことができる。必要なのは、どうしようもなく異質と思われる人物が市庁舎、八百屋、ないしバザールに姿を現したときに、おのれの感情を制御する能力だけである。こういう事態が生じたら、あなたはにこやかに微笑んで、能うかぎりのもてなしをし、その日のきつい駆け引きの後で、所属するクラブへいそいそと帰ってゆくのだ。そこでは、あなたの道徳的な同輩たちとの親しい交わりが、あなたを慰めてくれるだろう。(PPv1, 209)

だから、ローティの理想社会の住民は、バザール(政治的空間)のヴォキャビュラリーと、会員制クラブ(個人たちの空間)のヴォキャビュラリーを使い分けなくてはならない。ローティの主張する「公/私の区別」、より正確には「政治的/個人的の区別」が登場するのは、この場面である。

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)

おそらく、リチャード・ローティが言ったことの中で、この論点ほど、論争的だったものはないのではないか。
つまり、興味深いことは、ローティの言う「リベラリズム」には、ある種の「敵対性」を内包しているわけである。同じアメリカ国民であっても、違う民族的ルーツをもつ人同士は、分かり合えない。分かりあえないどころか、ある意味での「敵」意識さえ感じている。同じアメリカという「共同体」の中において、自分は彼らと「仲間」だと思っていない。例えば、ツイッターであれば、ブロックをする。そういった「関係」であるにも関わらず、同じ

を表象する。それは、どういった「原理」によって成立しうるラインなのか?
ローティの言う「ユートピア」は、プラグマティズムユートピアであり、妥協のユートピアである。ということは、それは嘘のユートピアということになるのだが、ただの嘘ではない。

ユートピアだ、ということである。今、この瞬間に「完全」なユートピアは「不可能」だと、悟ったとき、私たちはどうするだろう? 理想が嘘だと悟ったとき、それでも「ユートピア」としての何かについて考え続けることは、もはや、「ニヒリズム」以外のなにものでもない。それは、ローティ自身が哲学に対して示した態度だと言うこともできる。つまりは、もはや、

  • 本当の哲学

などというものが存在しないことが「分かってしまった」自分がそれでも哲学について考え続ける、そういった地平をプラグマティズムと彼は呼んだわけであり、そういった態度を「ニヒリズム」として肯定したわけである。
しかし、だとすると、困ったことが起きる。
というのは、彼は最初から、本当の意味での和解に興味がない。ということは、本当の意味での「敵対性」を解消しようという動機がない。それが上記で言う、アメリカ内における「敵」の温存である。
アメリカは「味方」の集団である必要はない。よって、アメリカ内に、敵対性が存在していてもいい。だとするなら、そんな「アメリカ」を一つにしておく、一体、どんなルールがあるのか?
それを彼は「残虐さ」とか「共感」というものに見出そうとした。もっと、直截に言ってしまえば、「肉体的苦痛」にそれを見出そうとした。
つまり、どういうことか。
どんな人でも、「体の痛さ」については、みんな「理解」できる。だとするなら、それを「最大公約数」として、それをベースにして、あらゆる倫理を構築できれば、それを「ユートピア」と呼んでもいいのでは、となるわけである。
こういった、いわば「メタ倫理」の問題点とはなんだろうか?
リベラリズムは「寛容」の倫理と呼ばれる。つまり、本来の意味では、「仲間」と呼べない慣習をもった人たちとの間でも、そういった人たちをも、「自分たち」の中に含める。しかし、それはどういう意味なのだろう?
リベラリズムとは、そもそも相手が「誰」なのかに、基本的に興味をもたない、ということを意味してしまうわけである。相手が誰なのかに関係なく、

  • 同じ人間(=同じ「肉体的苦痛」をもつもの)

という「きっとそうだろう」だけを理由として、仲間認定をする。
一見すると、このメタ倫理に欠点はないように思われる。多くの「異質」な存在を「仲間」にできるだけに、現在の多民族国家アメリカにふさわしいように思われるであろう。
しかし、そうだろうか? 上記のリベラリズムの「寛容」判定法は、ほとんど、相手に興味をもっていない。つまり、相手が「誰」なのかに関心をもっていない。もっと言えば、相手が「人間」である必要がない。なぜなら、上記にあるように「肉体的苦痛」がここでは求められているにすぎないので、ようするに何を言っているのかというと、

  • 暴力反対

だけなのだ。その暴力に「理」があるかどうかに関心がない。とにかく、どんな形であれ、暴力だけはNG はて。これってなんだろう? つまりは、

なわけである。なぜ、暴力が行われるのか。それは、貧しいから、差別されているから、であるわけであろう。そういった差異に対して、なんらかの異議申し立てをするのが暴力であるはずなので、そういったことに興味がない。どんな理由であれ、暴力は絶対NG
私に言わせれば、リベラリズムは「恐しい」道徳である。
なぜなら、リベラリストにとっての「寛容」とは、なぜ自分が相手に寛容なのかの判定において

  • 相手が実際に何なのか

にまったく、なんの関心もなく、なにも知らなくても「寛容になる」と言っている、というところにある。どう思われるだろうか。私たちの日常を考えてみてほしい。私たちは、もしも「相手」について知らないのであれば、そういう人に対して、自分が「寛容」かそうでないかなんて、考えもしないのではないか。
ところが、リベラリストは、その壁をなんなく飛び越える。つまり、相手について、何も知らなくても、自分が相手に対して「寛容」であることだけは決まっている、と言っているわけである。
つまり、どういうことかと言うと、リベラリストの言っている「寛容」という言葉は、私たちが一般の意味で使っている「寛容」という言葉とは違った意味で使っている、ということを意味しているに過ぎない。実際に、リベラリストの言っていることを聞いていると、ときに

  • 残酷

なことを、さらっと言ってのける。普通の共同体だったら、考えられないような、残酷な扱いを国民に対して行うことを、「当たり前」であるかのように言う。
こういった状況と似ているものとして、おそらく「お金持ち仲間」が分かりやすいのではないだろうか。お金持ちたちは、確かに仲がいい。お互いに、まさに仲間であるかのように、付き合っている。ところが、彼らの中のだれから、貧乏人に落ちてしまうと、途端に、相手にしなくなる。というか、彼らは最初から、貧乏人たちと付き合おうとしない。
同じ状況として、「高学歴仲間」についても言えるであろう。彼らは、最初から、学歴のない連中と仲良くしようとしない。
このことを考えていくと、一般にリベラリストにはある傾向があるのではないか、と思えてくるわけである。
つまり、リベラリストは一般的な意味で、共同体が人々を「仲間」としていくような意味では、人々を仲間としないが、形式的には、それは「仲間」と同値の扱いをする。つまりは、国の「法律」では、自分が仲間だと認めていない人に対しても、日本国民としての国籍を与えることを同意するのだが、「内容」的に彼らが自分の仲間だなんていうことは、想像もしない。
しかし、ね。もしも彼らが同じ仲間でないとするなら、なぜ一緒に戦争で戦うんだろうね。
私はリベラリズムとは

  • 高学歴エリート
  • お金持ちエリート

のメルクマールだと思っている。彼らは「正義」を主張する。それが、暴力の否定である。しかし、先ほども言ったように、暴力が否定されることによって、弱い立場に留まらざるをえなくさせられるのは

  • 低学歴
  • 貧乏人

である。つまり、暴力の否定は、究極的には「高学歴」「お金持ち」といった「階級」を、徹底して不動のものにするために彼らが「低学歴」「貧乏人」に「強いて」くる、

  • 暴力

なのだ、ということが分かっていない。つまり、「暴力をふるう自由」を、彼らは徹底して抑圧しようとしている。なぜ弱者は暴力を手放せないのか。それは、彼等が最後にすがる自らの中にある「力」が「暴力」だから。
そして、究極的に私がリベラリズムを駄目だと思うのは、リベラリストリベラリストしか「本当の意味での仲間」と考えていない、という

  • 差別性

を露呈している、と思えるからである。つまり、確かにリベラリストは、「寛容」のルールによって、自分と同じ慣習を共有しない人々をも、同じ共同体のメンバーとする(アメリカ国民となることに同意する)。ところが、そこには明確な「区別」があるわけである。つまり、

  • 自分と同じように、「寛容」のルール自体を認めている人々
  • たんに、「寛容」のルールによって認められているだけで、別に、「寛容」のルール自体を生きることを選んでいない人々

言うまでもなく、リベラリストは前者である。ということは、リベラリストとは、なんらかの意味によって、前者に「なれる」人たち、ということを意味する。
では、後者の人達というのは、どういう人たちだということになるだろう? 普通に考えるなら、後者の人とは

  • 普通の人

ということになるであろう。つまり、「共同体主義者」である。普通に、今までの部族の中で慣習や掟に従って生きてきた人たちであろう。では、どうして、後者は前者ではないのか? それは言うまでもなく、彼らが

  • 内容=価値

を生きているからであるわけであろう。それぞれの慣習や掟が、矛盾し合う部族が、「同じ」になることはできない。それは、お互いがなんらかの意味で「妥協」しない限り、混ざり合い一つになれない、ということを言っている。
しかし、そう考えると、むしろ、後者の方が、「正しい」ということになるのではないか? つまり、同じアメリカ国民になろうというなら、お互いは、なんらかの「妥協」をしなければならないのではないのか?
私がずっと言っていることは、これである。
私がリベラリズムをうさんくさく思うのは、最初から、相手がなにかを知らないのに、「同じ」になる(同じアメリカ国民になる)と言っておきながら、面従腹背で、まったく「同じ」になろうとしていない。していないどころか、

  • 相手のことを、まったく知ろうともしていない

ことの知的怠慢を疑っているわけである。
もっと言えば、リベラリストリベラリストでない人たちを「馬鹿」にしている。一つ下の人間だと思って軽蔑している。「同じ」にしてやっている(同じアメリカ国民にしてやっている)という、上から目線が感じられるわけである。つまり、彼らにとっての

  • 真の仲間

かどうかは、同じアメリカ国民かどうか、というところにない。同じ「リベラリスト」かどうか、というところにあり、リベラリスト以外を差別することは当たり前だと思っている。
しかし、上記でも検討したように、リベラリズムの最低ラインが「暴力の禁止」にあるのだから、どうやっても、貧乏人や低学歴がこのラインをのめるわけがない。そういう意味で、最初から、リベラリズムは、貧乏人や低学歴を

  • 排除

した「倫理」をしいているわけで、典型的な「ブルジョア道徳」だということになるのではないか、と思うわけであるが、どうだろう...。