フロイト心理学というパターナリズム

おもしろいのは、アドラーフロイトを批判したとき、フロイトが過去の「事実」の中から、今の「原因」を特定しようとする姿勢が、後ろ向きであることの「病理性」を問題にしていたことであった。
このことは何を言っているのかというと、過去というのは、今となっては非常に「曖昧」だ、ということなのだ。つまり、エビデンシャルに追及できないのが過去であるのに、そこに原因を探そうという姿勢は、一種の

  • 優等生病

なんじゃないのか、と言っているわけである。仮に、今の病気の原因となる出来事を過去の記憶から、推測したとしよう。なぜ、その人は、その記憶を今、ここで「捏造」したのか? もちろん、こういうと物騒な話になってしまうが、これが「優等生」なのである。常に、優等生は、先生が「求めている」ものをでっちあげる。つまり、先生を

  • 喜ばす

ことが、優等生は

  • 得意

なのだ。そんな事実はあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。しかし、一つだけはっきりしていることは、こういうことを言うとフロイト先生が

  • 喜ぶ

という事実だけである。アドラーが問題にしているのは、そういった他人を喜ばすために、自らの「大事」な何かを汚している事実の重さなのだ。アドラーは、フロイトのように

  • ファクト

が大事だ、という態度を「病気」だと言う。そうじゃない。人にとって大事なのは、その人が大事だと思っていることであって、たとえそうでないとしても、その延長においてしか、その人は発見できない。だとするなら、結局は、その人が自分で見つけだしていくしかない。他人が、「あなたにとって大事なことは、これですよ」とか、「あなたは実は、こういう人なんですよ」とか、「あなたは過去において、こんなことを経験したのは、事実なんですよ」といった、

を徹底して批判しているわけである。
フロイトは確かに、「科学」をやろうとしている。しかし、患者にとって科学は、自分に関係のあることだろうか。というのは、よく考えてみてほしい。本当に自分が子どもの頃、自分がどういう人間だったのか、なんていうことは、

  • 科学的

に記述できることなのだろうか。そんなものが、一体、どこに客観的にあるというのだろう。もう、はるかに時間がたってしまった今において。
このように考えてくると、私にはフロイトの「うさんくささ」が気になってくる。つまり、これはどこか、ニーチェキリスト教批判と似ているわけである。確かにニーチェは当時の彼の周りにあったキリスト教社会を批判した。しかし、それ以前に、彼にとってキリスト教

  • そういうものであってもらわなければ困る

という切実な感情があったのではないのか。ニーチェにとって、実際のキリスト教がどういうものだったのかなど、本当に重要なことだったのか。そんなはずがあるわけない。なぜなら、ニーチェにとって、キリスト教となんの関係もなかったのだから。ようするに、彼はキリスト教を生きていなかった。だから、彼は自分の立場として、キリスト教を、なんとでも言えた。
人文科学において「事実」という言葉は、マジックワードだ。なぜなら、その「定義」がないのだから。「事実」の定義があるのは、自然科学であって、人文科学ではない。だとするなら、それを分かった上で、あえて

  • 事実

をベースにした治療法にこだわるフロイト心理学は、どこかしらに、嘘がある、ということにならないだろうか。
まず、そもそもフロイト心理学は、ある「逆説」をベースにして、理論化されている。つまり、

  • 無意識

である。しかし、無意識とは「矛盾」ではないのか。意識「でない」とは、じゃあ、なんなのだ?
一方で、私たちはこの世界を「法的秩序」のあるものとして、自らの行為には、自らの「責任」を結びつけて生きている。なにかを行えば、そこ結果責任を引き受けて生きている。自分が運転した車が事故を起こせば、その弁償を自分が一定の割合で行うのは「当然」と思っている。
ところが、この「無意識」なるものは、どうも「私」ではない、と言いたいらしい。じゃあ、この無意識なるものが起こした結果は、一体、だれがその責任を引き受けるというのか?
言うまでもない。自分なのだw
なんのことはない。無意識なる「主体」は、この法的世界においては存在を許されていない。
こういった事実を一般的に、ダブル・バインドと言われる。一方では、無意識が存在すると言いながら、他方で無意識なんて存在しない、と言われる。なにか、おかしいと思わないだろうか?
ここで、次のように考えてみよう。そもそも、意識なんてものはないんだ、と。こう言うと、伊藤計劃さんの「ハーモニー」を思い出すかもしれないが、あながち間違ってはいない。意識とは何か。意識とは

のことである。しかし、大事なことはその「事実」は「事実」ではないかもしれない、というところにある。なぜなら、過去ははるか昔の出来事であって、でれも正確には覚えていないのだから。なぜ「意識」が過去の「(科学が発見する)事実」だというかというと、よく考えてみてほしい。
私が今まで生きてきて、ずっとつっ走って来た。一度も過去なんて、振り返らなかった。常に、その時その時で、ベストと思ったことを選んで生きてきた。
これに対して、「ダメ出し」をするのが意識である。

  • あんた、いろいろ今までやってきたけど、ダメだね。無駄なことばかりだし、生きている意味ないよね。人間としての価値がない。

これが「意識」である。意識は、その人と、他人を比べる。そして、無駄な人類は、口減らしをして、国家の税金を減らすべきだ、と思っている。そうやって、騙されやすい善人を殺すのが「医者」の仕事、というわけである。
こうやって考えると、フロイトは「科学」であるが、アドラーは「哲学」なのだ。もっと言えば、アドラーは「倫理学」だと言ってもいい。
よーく、本質と向きあってみてほしい。フロイト学者が、あなたを「無価値」と言ったとする。そういう「価値」を計算するのが、科学であり、科学の「本質」なわけである。さて。あなたは、どう思うか? よく考えてみてほしい。あなたは「無価値」と、フロイト学者に

  • 計算

されたんですよ。フロイト学者に、あなたが「馬鹿」であることは、真実だ、と言われたんですよ?
じゃあ、どうします? 自殺するんですかw
言うまでもないでしょうw 科学を「信じる」のを止めませんか? いいじゃないですか。他人なんて、どうだって。馬鹿馬鹿しい。自分が自分で「まとも」だと思っているんだったら、その他に、一体、何が必要だというんでしょうか? 自分で自分が「まとも」だと思っているんだったら、そう思い続けて、死ぬまで生きるんじゃないんですか? 他人が「お前には意識がない」と言われたって、自分には意識があると思っているんだった、そう思って生き続けるんじゃないんですか? なんで、それ以外の

  • (自分が従わなければならない、規範的な)何か

があると考えるんですか。余計なお世話だと思いませんか? ずっとここで言い続けているのは、パターナリズムの問題なんですね。まず、そういう発想を止めるところから始めませんか、と言っているわけです...。