欲望の方法と実証

プラトンは人間は、知らないことを知ることはできないのだから、人間は産まれたときには「すべて」を知っている、といったようなことを言ったw
なんだこれは、ロックのホワイト・ペーパー仮説の真逆じゃないか、と思ったわけだが。
例えば、映画評論家の町山さんは、次のようなことを言っている。

町山智浩フロイトの夢理論というのは、「夢はデタラメなものではなく、本人の無意識の欲望が夢の中に出てくるんだ」と。
伊集院光:はい。
町山智浩:起きている間は、重石が乗っている状態。寝るとその重石がどくので、思ってることや気づいていないことが出てくるんだ、と。それを発表して、その理論を小説にしたものが『夢小説』なんです。
伊集院光:へぇ。
町山智浩:夢かもしれないけど、現実の欲望であると。何度も浮気をしようとすると、失敗するというのは、夢によく出てくるんですね。夢の中で、夢が叶いそうになると、直前で失敗するんです。夢はやったことしか出てこないから。
伊集院光:ほぉ。
町山智浩:食べてみたいものがあったとして、それを食べようと思っても、味が分からないから、食べられないんです。
映画評論家・町山智浩による「難解映画 アイズ・ワイド・シャット」の謎解き | 世界は数字で出来ている

そもそも、「欲望」とはなんなのだろう? もちろん、私たちが生きているときは、こんなことを問わない。なぜなら、こと、自分のことに照らし合わせてみたら、どう考えてみても自明だからだ。実際に私は毎日、何かに欲望をして、実際に、何かを買ったり、恋をしたりしているんじゃないのか。そういった、もろもろの「事実性」に照らし合わせるなら、「欲望」とは何かと問うこと自体が、意味不明ということになるのであろう。
しかし、私は今、自分が欲望しているものが「何なのか」を知らない。知らないのに、欲望をしているとは、どういうことなのだろう? 私のこと欲望は、その対象を「知って」いる

  • から

欲望しているのではなくて、「知って」いない「から」欲望しているのではないか。つまり、知らないという「事実」性が、逆説的であるが、この欲望を媒介しているのではないか。
知らない「から」欲望する、ということの意味は、欲望がなんらかの「記号」性に関係している、ということになるであろう。つまり、欲望は「観念」なのだ。
もしも、私たちが、その欲望と自分で思っていた行為を行った後は、私たちはそう行った行為に満足するのであろう。心理学用語を使うなら、まさに「昇華」である。経済用語で言うなら、「消費」であり、私たちはその「感覚」に麻痺する。そして、さらに強い刺激を求めるようになるのかもしれない。いずれにしろ、以前知らなかった頃の欲望は、それに「慣れる」につれて、その「刺激」にものたりなさを感じるようになる。つまり、知っていることは欲望しなくなる。
欲望は「隠されている」ことと関係する。つまり、見えそうで見えないから、その先を「見る」という刺激が、なにか、大きなブレークスルーのように思われるようになる。見えそうで見えないものは、たんに見えないのではなく、

  • 見えるという「事実性」になんらかの価値がある

というふうに解釈される。
夢の中で、欲望は解消されない。夢の中なんだから、現実のつまらない結果なんか、はるかに超えるような、マンガ的結末が起きればいいのに、そういったことは、ほとんど実現しない。なぜなら、本質的に、それを

  • 知らない

のだから、夢で実現されるわけがないのだ。つまり、その「欲望」を叶えたいという衝動は、なんらかの

  • 別の代替物

にすりかわって、なにかを現わしてしまう。
では、私たちはその「欲望」を知らないのに、それを叶えようとするということは、具体的には何を意味しているのか。私たちが欲望があると思うとき、そこには必ず、なんらかの

  • 手続き

についての観念が存在する。なぜなら、その「欲望」が何かを知らないが、その「欲望」が実現されたということと必要十分な条件が、どういった

  • 手続き

を自らが一つ一つ行うことであるかを、十分に理解していなければならないから。
つまり、欲望が実際になにかを知らなくても、その欲望を叶えることと必要十分な結果となる、

  • 手法

については、十分に理解している、ということになるのだから。つまり、私たちが欲望している、ということは、その手法の通りに、つまり、あるルールに従って行動したい、と言っていることと同値だ、ということなのだ。
私たちの欲望は、なんらかの「対象」に関係しているのではなく、その対象に向かって行うことになる、なんらかの手法に関係している。私たちは、なんらかの理由で、自分が思い付いた、一定の手続きの通りに振る舞いたい、と思うことがある。つまり、思い付いてしまったわけだから、その行為を行う「イメージ」が頭の中にあり、私たちは

  • そのイメージを反復したい

と思うわけである。思いついた通りに、体を動かしたい。これは、実際に私たちが毎日行っていることなのであって、実際に私たちは毎日、なんらかの行動をする前に思いついたイメージの通りに体を動かしている。問題は、その思い付いた「イメージ」の通りに、自分の体を動か「せない」ということが

  • ストレス

だと言っているわけである。
私たちは実際、なにかの行為を行おうとする直前には、それについての「まず右手を少し前に出して、次に左の足先を少し前にだして」といったようなことを、声に出して言ったりはしないけれども、そう行う「イメージ」を頭に、

  • 一瞬前に

思い描くはずなのだ。そして、私たちの行動とは、そのイメージした通りに、体を順番通りに動かしていく行為「自体」を意味しているにすぎない。
このことは、近年の文系のアカデミックの世界で問題となる「実証性」とも関係してくる。
なぜ、文系は今、「トンデモ科学」と区別がつかなくなっているのか。
それは、文系がここで言う「実証」の問題を軽視するからなわけである。現代思想ニューアカでは、実際に、その思想体系の「モデル」を作って、

  • シュミレーション

を行ってみるとか、そういったことにほとんど興味を示さない。完全に「ポエム」の世界であって、別世界のジャーゴンを、次々と、なんの必然的な関係もなく

  • くっつけて

なにか意味のあることが言えたかのような、魔術師のようなふるまいこそが、最高級の哲学者なんだ、と、フランスのポストモダンが世界で一番偉いみたいな態度でふんぞり返っていたわけだが、そんなに「ポエマー」が偉いなら、彼らは、実際の

  • 数学モデル

を作って、自らが唱える珍説を「実証」すればいいわけであろう。
なぜだろう。
不思議なことに、こういった一つ一つを、ポエマー現代思想の界隈の人たちはやらない。言ったら言いっぱなし。そして、その「言う」という行為を、わざわざ「決断主義」とか言って、なにか、この時代の閉塞した空気を打ち破る、革新的なことを「やったった」というわけである。まあ。やれやれ、である...。