稲葉振一郎『不平等との闘い』

掲題の本は、結局のところ、なにかの答えを与えるといったような議論になっていない。むしろ、アカデミックな場での流れというか、流行というか、なんらかの解釈の流行を、それがどこまで合理的に説明できるものなのか、といった視点で整理している、といったところだろうか。

しかしその一方でスミスは「しかしその不平等は成長と、それを通じて最底辺のをも含めての人々の生活の改善と平行して起きているのであるから、さほど問題ではないのではないか?」と問うているわけです。

これが、ルソーの不平等起源論に対して、アダム・スミスが市場を肯定した理由だ、というわけだが。まあ、早い話が、一種の「トリクルダウン」理論なわけですよねw
しかし、マルクスやピケティが問うているのは、貧富の格差がどこまでも開いていくことの問題を問うているのだから、どうもアダム・スミスの観点とは、なにか違っている印象を受けるのは私だけだろうか。
話がかみあっていない。
例えば、アダム・スミスの古典派経済学の発想を引き継いで、新古典派経済学が考えたのは、ある種の「均衡」理論であった。需要と供給は、なんらかの均衡点において「釣り合う」。つまり、数学で言えば

なんだ、と。つまり、なぜか「功利主義」の話に変わってしまっている。格差問題を「トリクルダウン」問題に論点をすりかえられたことによって、あらゆる問題は「相対的」だと言っていることと同じになってしまった。つまり、あらゆる「概念」がメルトダウンを始めたのだ。

つまるところ雇用における労働者とは、奴隷、そしていわば期限付きの債務奴隷である年季奉公人との連続線上にあって、ある一定の制約の下で、雇主によって人身を支配される存在なのです。

つまり自分で土地や生産設備を購入して、小なりとはいえ自営資本家的事業家として立つ、あるいは貸し付けと似ていますが、適当な資本家的事業者に出資する、ことに株式会社の株式を購入する、等々、いわば、「誰でもが資本家になれる(ただし零細ではあるが)」可能性がここから展望されます。

一方において、労働者は「奴隷」の延長線にあるものであり、他方において、労働者は「資本家」の延長線にあるものと言われて、なにもかもが、とろけ始める。
結局、どういうことなのか?
労働者は一方では「奴隷」でありながら、他方では「資本家」であると言われるとき、ようするに、ここで言っているのは、独立自営の個人事業主としての「労働者=経営者」という実相を語っているわけであろう。
だとするなら、むしろ、ここで問わなければならないのは、こういった存在の対極にある人格的存在である

  • 大企業

の存在様態なわけであろう。
大企業の特徴とはなんだろう? それは、一言で言えば、「巨大な図体を維持するための、積極的なイノベーション」にある、ということになるのではないだろうか。
どういうことか?
ある大企業が、ヒット商品を開発したとする。ところが、その商品と似た商品が、近いうちには、さまざまな人件費の安い企業に、まさに

  • コピペ

によって、発売される。このことが、近年さんざん言われた、オフショア問題というやつで、日本企業の工場は次々と、日本以外の賃金の安い東アジアの地域に移って行ったわけだが、そうやって移動するやいなや、次第に、その土地の地場の企業が「同じ」ものを、コピペで作り始める。すると、図体のでかい日本企業は、この現地の身軽でかつ、安い労働力を比較的安価に獲得可能な地場の企業との競争に負けるようになる。
ここで、大事なポイントは、その図体の大きい企業が、なにかを開発するための「ノウハウ」をもっているかどうかにあるのではない。そうではなく、「ノウハウ」があろうがなかろうが、いずれにしろ、その商品を販売して、最終的に獲得することになる「利潤」が、自らの図体にあった「利益率」をもたらさなければ、彼らは自らの図体を維持できないのだ。
大事なポイントはここである。
近年、次々と日本の大企業が、白物家電に代表される、個人・家庭向けのサービス競争から撤退し、法人向けのサービスに遷移しているのはそこにあって、それは「技術」があるかないかの差異にあるのではなく、さまざまな「価格競争」の厳しさから、儲けのマージンのうまみを感じられなくなり、一時的に撤退する、というわけである。
よって、どういうことになるか?
大企業は、さまざまな「イノベーション」に活路を見出そうとせざるをえないプレッシャーにさらされることになります。とにかく、なんらかの「差異」を生み出さなければなりません。常に、なにか、

  • だれもやっていない

ことを探して、それを売っていかなければなりません。そうでなければ、それだけの図体を維持するようなマージンを上げ続けることができないからです。5年前に作っていたものは、今は生産を止めて、次のサービスの開発に投資します。そして、業態を次々と変えていく。大事なことは、そうやって始めることになったサービスが

  • 今は儲けが大きい

という「事実」です。しかしそれは、一瞬後には変わっているかもしれません。
そのように考えたとき、そもそも大企業の生き残る道は非常に限られている、ということが分かるのではないでしょうか。大学の例えば、物理工学などの、非常に「特殊」な数学理論を分かっていないと作れないような「サービス」だとかいった、そもそも、そういったことを「知っている」人材を集めること自体が、図体の大きな企業くらいしかやれない、といったものに限られてくるわけです(大企業の唯一の利点は、そういった「多様」なサービス提供のノウハウを、社内に多くの人材を抱えていることによって、担保している、という点になるのでしょう)。
さて。なぜ、法人向けのサービスに大企業は特化されていくのでしょうか?
それは、一言で言えば、企業は税制的に優遇されているから「払い」がいいから、と言うしかないでしょう。
企業は、ある意味で単純です。つまり、企業の目的は「自己存続」です。つまり、どうやって自らの図体を維持するか、にあります。そのように考えると、本質的に法人向けのサービスは全て

と考えていいとも言うことができます。なぜなら、どんなサービスをその企業に「売って」も、その後で、その企業が倒産するなら、その企業にとって意味がないからです。つまり、結果として、法人向けサービスを売る相手方は、

業務を併用して求めてくることになります。企業は自己存続が目的の組織です。その企業に、コンサル業務を行うとした場合、どういうことが言えるでしょうか? もしもコンサルを行うなら、その相手企業を生き残らせるためのアドバイスを考えなければなりません。しかし、そのための「正しい」ことを言うとは、具体的には何を意味しているのでしょうか?
それが、近年注目されている「ビッグデータ」ということになるでしょう。各企業にとって、少なくとも今、さまざまな「関心」に基づいて行動しています。つまり、各企業はいずれにしろ、なんらかの「方向」を向いています。その目の前にある壁に対して、なんらかの「回答」を与える可能性があるのが、「ビッグデータ」です。その企業の企業活動は、膨大なログの蓄積をもたらします。その

  • 統計的分析

が、その企業が向かうべき方向の一つのコンサル的エビデンスとされる可能性がある、ということです。大事なポイントはなんでしょう? 大企業が生き残る道は、非常に狭い専門性を要求される分野と言いました。しかし、それに対して

  • 高いお金を払ってでも求めるユーザ

とは、そもそもその「価値」に気付くことがない限り、買おうと思うわけがないわけです。ニッチな「需要」を相手に気付かせ、高い報酬を払うことを動機付けさせることが、唯一の大企業がその図体を維持し続ける可能性だ、というわけであろう。
この大企業の様態を、各個人、つまり、自らの「労働」を売って、大企業にそれを買わせようとする立場から考えるなら、掲題の本が検討している「人的資本」の問題ということになるであろう。
つまり、各個人はどこまで、自分に「投資」をするか。さまざまな、アカデミカルな専門分野を徹底して極めるか。こういった「自己投資」を行えるかどうかが、大企業的なニッチなイノベーション的な需要に応えていくことになっていくわけだが、そもそも、そういったアカデミックな知識に、どこまで、今の教育社会はオープンになっているのか、という問いがあるわけであろう。
貧乏な幼少期を送った子どもが、どれだけの高等教育を受けることが可能になっているのか? 早い話が、貧困階層の子どもは、大学に行っているのか。
というか、私たちの今の社会は、家庭が貧しくても、高等教育を受けられるようになっているべき、という「理念」に果して、同意しているのだろうか?
これは、託児所落選問題と通底する理念の話なのであって、子どもを産んだら、女性が会社を止めなければならなくなっている今の日本を「しょうがない」とか思っている連中には、まったく何を言っているのかすら分からないのかもしれない。
ようするに、マルクスやピケティが言っていることは、アダム・スミスの「トリクルダウン」論から始まる、一種の「均衡理論=数学的最適化論=功利主義新古典派経済学」とは、まったく論点が違うわけで、そうではなく問題は

  • 政治的

な、公的な意志決定の「質の悪さ」を問題にしているわけであろう。
つまり、まったくトンチンカンなことを言っている、と言わざるをえない。
たとえば、パナマ文書でなぜ、公開された一人一人は税務署の査察を受けていないのか? 言うまでもない。お金持ちたちだからであろう。国家は、お金持ちを逮捕しないのだ。なぜなら、お金持ちは政治家に

  • 寄付

をしてくれるから、国家の「お得意先」だからだ。日本の税制はお金持ち優先になっている。それは、「政治」がそうしている。多くの国民がこれは問題だ、といくら言っても、国家はまったくこれを改善しようと動きださない。つまり、国家は二重の意味で、お金持ちを優遇する。

  • お金持ちが不利になる法律を国家は作らない。
  • お金持ちが損になるなら、国家は法律をお金持ちに適用しない。

つまり、マルクスやピケティが問題にしていることは、ある意味で、最初から「(アダム・スミスが言っているような)経済」のことではない、というわけである。

そこでアセモグルとロビンソンはゲーム理論を用いて、どのような場合には独裁者・支配階級が搾取に明け暮れ、どのような場合に開明的戦略に出るのか、を明らかにしようとします。

貧富の格差の拡大とは、お金持ちの「政治的権力」が増大していることを意味している。つまり、お金持ちと貧乏人では、政治的な発言権の

  • 格差

が大きくなっていることを意味している。そうした場合に、どうしてお金持ちが貧乏人との「平等」な政治的発言権を受け入れられるのか、といった問題となっている。つまり、格差問題とは、最初から「経済」問題ではなく、「政治」問題だということなのだが、もっと直截に言ってしまえば、お金持ちは貧乏人に「お前たちが幸せになるようにしてやる」と言って、

  • 貧乏人たちはお金持ちたちによって「幸せ」にしてもらっている

という、典型的な「パターナリズム」の構造になっているわけだが、アダム・スミスが言っている「トリクルダウン」とは、これとまったく同じわけであろう。それを問題だと思わない、というのは、経済的センスの問題ではなく、政治的センスの問題だ、というわけである...。