対決する倫理

マージャン漫画の「咲」が連載されているガンガンという漫画の雑誌を読んでいて知ったのだが、藍井彬の「DUEL!」という漫画があり、単行本が3巻まで出ている。
JKたちが、フェンシングという、あまりメジャーでないスポーツを部活として打ち込む内容で、いかにも男性漫画家が考えた女性の物語という感じで、おもしろいのだが、一つ気になるのが、主人公の日向みのりは、おばあちゃん子の心の優しい「いい子」なのだが、第1巻の第一話では、まだフェンシングも始めておらず、学校のクラスでも

  • いじめられっ子

として描かれていることである。いいめられっ子の「みのり」は、クラスのいじめっ子にいじめられると、いつも「笑う」。それは、自分が反抗的な態度といじめっ子に思われるのが嫌であり、おばあちゃんに心配をかけることが嫌だからだが、フェンシングの天才のアリスと出会うことで変わる。

みのり:笑いません。わ...私が本当に笑いたい時だけ、自分の意志で、...笑いたい...です。
西田:ウザい顔して何反抗してんの? いつものイジられキャラのみのりちゃんみたく、ヘラヘラ笑うだけだろ?
みのり:(笑わない)
西田:お前、明日からどうなるか分かってんの? 笑えよ、ほらっ、笑えよ!

DUEL!(1) (ヤングガンガンコミックス)

DUEL!(1) (ヤングガンガンコミックス)

西田はみのりをいじめる。それは、みのりへの不快感情が遠因としてある。みのりは、本当はやってほしくないのにそれが言えない。言えないだけでなく、

  • 嘘の笑い

をとりつくろう。西田が不快なのはその、自分を守りたいがための嘘にある。西田は、みのりに、なにか自分が馬鹿にされているように感じるわけである。
ここには、一見すると、一方的な西田による、みのりへの非人道的な暴力が露出している。そして、この暴力は絶望的なまでに、逃れられない運命のように描かれる。
つまり、ここには「構造」がある。
この構造を破るトリガーとなるのが、アリスである。みのりはアリスにあこがれる。しかし、それを「選ぶ」ことは、彼女にとっての「壁」に向き合うことを要求する。みのりは西田の暴力に「笑わない」という抵抗をする。それに対して、西田はみのりに一目置かざるをえなくなる。
ヤンキーは、他人から見たら非合理で、なんの意味のない行為を行っているように見えても、相手が本気で自分を相手にしてくれることによって、相手を認めるようになる。なぜ西田はみのりが不快だったのか。それは、みのりが本気で西田たちと向き合っていないように見えたから。自分たちをどこか心の底では軽蔑しているように見えたから。それが、みのりの「笑い」であった。笑うことは「仮面をかぶる」ことと同値のことを意味していた。本気で相手の真実と向き合おうとすることを拒否することに見えたわけである。
一見すると、みのりの「笑わない」という行為には、なんの意味もないように思える。というか、普通に考えて、たんなる馬鹿である。笑う笑わないは、合理的になんの意味もない。論理的ではないのだ。しかし、そのことが西田にショックを与える。なぜなら、西田がみのりを「いじめる」正当性こそ、みのりの「笑い」にあったから。
ヤンキーのアイデンティティは、自らの「根性」にある。大事なポイントは、「合理性」ではない、というところにある。なぜなら、ヤンキーはそもそも、自分は勉強では優等生に勝てないことを分かっているからなのだ。彼らヤンキーは、「根性」では絶対に優等生に負けないと思っている。もしも、根性で優等生に負けたら、自分たちのアイデンティティがなくなってしまう。つまり、ここに

  • 逆説

がある。ヤンキーはこと「根性」において、「フェア」である。絶対に「ずる」をしてはならないと思っている。それは、合理性ではない。いや、だということは、非合理であればあるほど、彼らヤンキーにとって、その「勝負」は大きなコントラストをもって、目の前に現れてくる。みのりの「絶対に笑わない」という

  • 根性

は彼らヤンキーにとっても、一目置かざるをえないような倫理を意味するわけである。
上記とはちょうど反対ではあるが、同じ構造となっているのが、アニメ「戦う司書」のエンリケノロティであろう。この世界の構造は非常に興味深くて、ようするに、かなりの割合で世界は「奴隷」化されている。その奴隷という生態が、上記で言う「いじめ」の非人権性に対応している。
この「奴隷」という生活の中で、あらゆることへの虚無感の中を生きてきたエンリケにとって、最後の希望は「笑う」ことであった。エンリケは産まれてから一度も笑えなかった。笑うということをやったことがない。どうすることが笑うということなのかが分からない。笑うという行為が、自然に自分の内側から湧いてこない。
(一見すると上記と逆のように思われるが、上記においてはむしろ、その「笑い」が「嘘」であるところに特徴があるわけで、そう考えるなら、対応しているとも解釈できるであろう。)
エンリケの体は、モンスター化された身体のため、基本的に不死化されているのだが、人生に絶望をしているエンリケは、今までの人生で、あまりにも多くの人を殺した自らを呪い、自らを殺してくれる人を探し彷徨い歩く。そんな彼と出会ったノロティは、逆に、彼に生き続けること、図書館の司書となって、一緒に戦ってくれることを求めるわけである。
アニメ「とある科学の超電磁砲'S」の前半は、シスターズ編ということで、主人公の御坂美琴のクローンの問題が問われる。
このアニメにおいて、上記と同様の「絶対悪」の場所にあるのが、「学園都市」という「科学テクノロジー」であり、人体実験の非人道性である。
第2期のこのストーリーにおいて、重要なポイントは、御坂美琴を慕って彼女に寄り添ってくる「妹たち」、つまり、彼女のクローンたちとの「日常」の風景であろう。御坂美琴は自らのクローンが大量に作られては、次々と、毎日のように、一体ずつ殺されている現実に絶望する。
正確に言うと、クローンは妹ではないであろう。しかし、私たちの一般的な「通念」に照し合わせたとき、「妹」として表象することが慣習的に一番自然であると判断して、クローンたちは、そういった表象を御坂美琴に重ね、

  • 甘える

わけである。確かにそういった姿は、クローンも人間と変わらない、自然な感情をもった存在である。しかし、彼女たちは自らが、すぐに実験動物として殺されることになる「運命」を受けいれている。というか、彼女たちは「そのため」に産まれて来た、ということを十分に理解している。しかし、そのように「悟る」クローンを見ている御坂美琴には、それは受け入れられないわけである。彼女たちクローンが今このようにあるのは、

  • 自分

が深く関係している(クローンとは彼女のクローンなのだから)。だとするなら、彼女たちが生き続けることを「あきらめている」ことと、自分の「態度」が無関係とは思えない。
上記の三つのケースに重なる特徴はなんだろう?
私たちは往々にして、「絶対悪」というものを想定しがちだ。それは、受験問題と似ている。つまり、

  • 二元論(正解か誤答か)

である。上記で言えば、「いじめ」であり「奴隷制」であり「人体実験」であるわけだが、私はここで、これらが、なんらかの意味で「正当化されうる」と言いたいわけではない。そうではなく、これらであっても、それが「現実」のなんらかの構造に組込まれている時にそれを、たんに「絶対悪」として断罪して、それ以降の思考を止めてしまうのであれば、それは「思考停止」だと言いたいわけである。
たとえそれが「悪」だったとしても、その「中」を生きている人がいるなら、その現実と向き合うことから始めなければならない。「悪」が存在することは、たんに「絶望」であるわけだが、そうして、たんに「絶望」していることは、結局は

  • その「悪」を受け入れている

ことと同値な行為だと言わざるをえない。ようするに、その「悪」に

  • 対抗

する契機が求められているわけである。
人間社会に「絶対」はない。もしも「悪」が一見「絶対」に見えたとしても、その「悪」には「構造」がある。つまり、因数分解をして、その「構造」を分解していくと、ある特徴が現れる。悪は単に悪なのではなく(絶対的なのではなく)、ある種の「構造」によって強いられているわけである。
だとするなら、その「悪」に「対抗」する運動が求められている、ということを意味するであろう。

これに対し、「(日本に来て)これまで見た中で、最も劣悪で容認しがたい番組」だとして抗議の声を上げたのは、日本在住14年という中国人女性だ。
女性は番組終了直後に、TBSへの抗議とBPOに審議を要請するための集団行動を、中国版Twitter「微博」に中国語で呼びかけた。
女性は、「番組に出演していた各方面の50人の中国人は、みんな在日歴が長く、見ている人に日本で生活をしている中国人の考えを代表しているような印象を与えている。しかし(中略)討論の内容は本当にタチの悪いものだった」「(VTRで紹介された非常識な行為について)スタジオの中国人は少数による非常識な行為だということを主張せず、さまざまな言い訳や弁明、さらには(これを批判する日本人に対して)攻撃的な言葉を使っていた」と、番組を批判。
見る者に「中国人のこれらの非常識な行為は彼らの本質によるもので、多くの中国人は問題であるとも認識していない」といった印象を与えてしまうとの危惧をあらわにした。 
また、「番組は19時からのゴールデンタイムに放送されていて、子どもも見ることができる。(中略)日本にいる中国人の子どもたちはみんな傷つく。同級生や同級生の親がこの番組を見たら、私たちの子どもがいじめられる」といった懸念も示す。
さらに、TBSの「ご意見・お問い合せ」ページとBPOの放送人権委員会申し立てページのリンクを掲載し、行動を呼びかけている。
これらの書き込みは、5月26日時点で2万回以上リツイートされ、4,400件以上のコメントと3,000件以上の「いいね」が寄せられている。こうした反応は、日本在住の中国人のみならず、日本人、さらに中国大陸からのものも含まれている。
一方、同番組に出演していたジャーナリスト・周来友氏の元にも、抗議の声が寄せられたという。
「番組を見た中国人から、Twitter経由で『売国奴』っていうメッセージが来ました。番組に出ていたほかの中国人も批判に晒されていて、困っています。収録ではみんないろいろなことを発言し、VTRについて『こんなの、ごく一部の人間だけだよ』とも主張した。しかし、オンエアーを見てみると、マナー違反を正当化しているような部分だけ使われていた。バラエティ番組なので、しょうがないのでしょうが。ただ、日本のバラエティを知らない中国人が見たら、腹が立つ内容だったかもしれない。今後は、テレビ各局とも気をつけるべきだと思う」
辛坊治郎『直撃!コロシアム!! ズバッと!TV』の“中国人ヘイト”企画に在日中国人が激怒! BPOに審議要求へ|日刊サイゾー

辛坊治郎とかいう「電波芸人」が今まで何を行ってきたのかを考えるなら、ヘイトスピーチ禁止法もできた今において、こんな悪質な番組を作っている連中をそのままにしておいてはならない。ようするに、こういった「悪意」をもった連中によって

  • なめられている

わけである。大事なことは、これが法律的に合法か違法かではなく、馬鹿にされたのなら「対抗」しなければならない、というところにある。もしも「対抗」しなければ、彼らはもっと味をしめて、つけあがり、エスカレートさせていく。彼らの「悪意」がもしもなんらかの構造的なものなら、その構造に抗わなければそれは、「受け入れた」と解釈され、それが常態化してしまう。「対抗」は一つの倫理なのだ。もしも、彼らに「悪」を躊躇させるとするなら、それは、私たちの「対抗」だけなのだ...。