堀有伸『日本的ナルシシズムの罪』

(イギリスのEU離脱の国民投票について、もっとも合理的な話をしていたのは、ようするに、国民投票にはなんの法的拘束力もない、ということなのだろう、ということであった。つまり、さっさと解散総選挙を行い、民意を反映した与党が公約したマニフェストにのっとり政権を運営すればいい、ということなのであろう。)
前回だったか、私たち人間は、ある種の「測定マシーン」だと書いた。しかし、その場合に、ある疑問を呈した。つまり、「これ」を「測定マシーン」と呼ぶのは正しいのか、と。
確かに、私たちが過去を振り返るとき、その「記憶」は、まさに「測定結果」と呼ぶしかない様相を示しているように思われる。しかし、そもそも測定とは、なんらかの「意図」をもって記録する行為であることを考えるなら、むしろそれは「意図」そのものが、日々の感情の動きという

  • ランダム・ウォーク

の結果であると言うしかないものであり、つまりその測定の「方向」は、常に、ふらふらと、さまざまな方向に彷徨っている「何か」と名付けるしかないような様相を示しているわけで、「それ」を測定と呼ぶのは違うんじゃないのか、ということであった。
つまり、私たちは「測定」しているというより、「生きている」という言葉の方が正しく表現できているわけで、つまりは、この二つの差異が、さまざまな問題の解釈を混乱させている、と言えるのかもしれない。

生まれたばかりの乳幼児は、一人で生きていくことができません。お腹がすいた時、オシッコをした時、自分に何が起きているのかもわかりません。この時、乳児の内側では正体不明の不快感や衝動が高まり、その欲求不満に圧倒され、ひたすら泣き叫ぶ。そこで誰も応えてくれないという「母親の不在」体験は、実におそろしいものです。
しかし、母親をはじめ周りの人々が事態を知って対処してくれることはじめて、身辺の状況を快適に保ってもらえ、乳児は生き続けることができます。欲求不満が強くなりすぎないうちに対処されることで乳児の心は適切に発達し、次第に「母親の不在」について考えられるようになっていくのです。
子どもから見て母親といえども常に自分だけに注意を払えないことがある。自分よりも父親やきょうだいが優先的に愛を向けられることがある。そうした現実を突きづけられるのは、乳幼児にとって非常に悲しくて憂うつな体験です。
しかし、その現実を認めた上で、それを伴うつらい感情を乗り越えていくことは、母親から独立した一つの心を形作るために、不可欠な過程です。
逆に、ここが円滑に進まなかった乳幼児は、母親や家族から離れることに異常なほど不安を感じるようになります。このような不安を「分離不安」と呼びます。
ナルシシズムにはこの分離不安をやわらげ、それが心にもたらす破壊的な影響力を弱める防衛作用があります。例えば、母親が常に自分よりも他を優先し、欲求不満が解消されることのない生活に適応した子どもは、
「自分は可愛くないから、母親が愛してくれない」
「もっと母親にかまってほしい」
とは考えません、その代わりに、
「自分は強いから、他の子どもみたいに甘やかされなくとも平気だ」
「母の愛情など大した意味がないから、自分には必要ない」
というふうに考えるようになります。
ナルシシズムとは弱さや恐怖より、「自分は強い」と感じるのを好む性向ともいえます。ですから、乳幼児の頃に母親からの独立が適切に進まないと、「人に認められたい、愛されたい」という欲求は抑えこまれて隠され、表面上は、そんな願望を持たない子どもができあがります。

私たちという「測定マシーン」は、乳幼児においては、母親の庇護を前提として育てられる。つまり、その時代においては、母親の庇護は「不可欠」なものであり、これなしには、そもそも生きられない。むしろ「正当」なまでに、甘えなければならない。
しかし、そのことと、自らが大人になっていく過程において、母親から自立して、自らで生きられるようになっていくこととは区別されなければならない。
上記の引用が示していることはそのことで、一般にナルシシムズとは、後者のことと考えられているが、実は前者の問題であることが理解されていない。本当はまだ弱い、母親なしには生きられない状態であるのにもかかわらず、自らを

  • 抑え込む

わけであり、つまりは「自傷的」に振る舞う。
つまりこのことは、ある「防衛規制」に関係している。ある「予測」される未来に対して、それを「恐怖」して、「不安」になり、「避けたい」と思うがゆえに、逆に、それらが

  • たいしたことではない

というふうに、自らを「強い存在」として表象しようとする。しかし、実際は強くないから、それによって傷付くわけだが、大事なポイントは、自らがそれによって傷付くところではなくて、自らが傷付いていることを、他人の目から

  • ごまかす

という方に、最大の精力を注いでいる、というところにある。
例えば、本当は自分だけが得をしたいと考えていて、それをなんとかして他人に認めさせたいと思ったとき、「これは自分だけじゃなくて、みんなにとっても得になるんだ」といったような「言い訳」をして、他人を説得しようとする場合に、大事なポイントは、本当は「自分だけが得をしたい」と思っているのに、その事実に正面から向き合わない、というところにある。つまり、なんとかして、自分に対して、自分が「真実」に向き合わないようにしようとする。他人に向かって、「これはみんなのためなんだ」と口先で言っていながら、なんとかして、自分がその「嘘」に正面から体面しないように、逃げ腰で、最初から腰が引けたような感じで、他人事のように振る舞う。
これを上記の「測定マシーン」のアナロジーで説明するなら、なんとかして、「測定しない」ように振る舞っている、と解釈できるであろう。真面目に測定をしてしまうと、嫌でも真実に向き合わなければならなくなる。だとするなら、徹底して、測定を避ければいい。そうすれば、「測定されていないんだから、真実は分からない」と言って逃げることができる。
うーん。これを「測定」と呼んでもいいのだろうかw
人間にとって大事なことは、「真実」ではない。むしろ、「真実」は私たちを傷付ける。私たちにとって大事なのは、自分という「殻」なのであって、なんとかして、この殻によって、自分たちが傷付かないようにすることだ、とも言えるわけである。
つまり、私たちは「命あっての物種」といった側面がどうしても免れられない。生きていなければ、始まらない。だとするなら、なによりも、自分の命を守ることを優先することは正当化されるのではないのか、と。
これは、半分は正しいが、半分は正しくない。半分正しいというのは、以下の意味だと考えられる。

うつ病心理的な次元だけで成り立っている病気ではなく、脳を中心とした身体が衰弱し、その機能が弱っている状態です。もともと葛藤について考える力が欠けている可能性もありますが、それよりも脳の働きそのものが(過労などで)弱っている現状に配慮しなくてはなりません。
その弱った体(脳)の機能を回復させることを目的とした治療観が、休養と薬物療法抗うつ薬の服用)です。日本では、一九七八年に精神科医の笠原嘉が発表した「うつ病の小精神療法」が、その後のうつ病治療のスタンダードとなっています。

私たちは、自分が生きやすい世界にするために、この世界に立ち向かっていかなければならない。しかし、そのためにはまず、自らの体力を回復しなければならない。そうでなければ、戦おうにも闘いようがない、というわけである。
疲れている。だからこそ、上記にあるような「防衛規制」が働く。しかし、そういった「不合理」な戦略は、そもそも、他者に対して説得的には働かない。だから余計、恫喝的になる。自分の思うように周りがなっていかないことに、欲求不満をもつ。

客観的で現実を直視して合理的な解決策を考え抜くのではなく、分かりやすいスローガンを掲げたり、スケープゴートを仕立てて皆で攻撃したりすることで、「想像上の一体感」を高めようとする。為政者が対応できない国内問題を解消するために、他国との戦争によって国をまとめようとした数々の歴史が思い返されるべきでしょう。

ナルシシズムの特徴は、「防衛規制」にある。ある他者への説得が難しいと思っているが、そこを譲ると自らの実存的な危機と直面せざるをえなくなるときの、さまざまな

  • 非合理的

な「防衛規制」が、問題とされる。なぜ「正攻法」、つまり、理づめで論理的に、今の問題に立ち向かって行けないのか? それは、そのことの「困難さ」を事前に予測しているから、と言わざるをえない。そういう意味では、そういった感情的な対応は、ある意味において、他者支配のより

  • 簡単

な手段である、とも言えるわけである。確かにこういった手段は、自分の身近な人たちを、恐怖で操作するというレベルまでは、短期的には「成功」するのかもしれない。しかし、しょせんは「無理」の上塗りなのだから、長くは続かない。どこかで、無理がたたって、少しずつ綻びがでてくる。
その無理への自覚が、意識的であるか、無意識的であるかは、重要ではない。そのことを上記の「一体感」が結果として示すことになる。無理筋で、周りを無理矢理合意させて進む手段は、結局はどこかで壁にぶちあたる。それを今の自民党憲法草案に見ることができるのかもしれない。
すべてはサヨクが悪い。あらゆる問題の悪の根源はサヨクだ。サヨクさえ叩き潰せれば、未来はユートピアになる。その答えが、自民党憲法草案だとw
サヨクを叩くことの「一体感」、「快楽」が、なぜか、

  • あらゆる

この世界の問題の「解決」に置換される。なぜそうなるかの合理的説明もない。一つだけ分かっていることは、敵と戦わなければならない、という理屈が、自分が本当は直面して「戦わなければならない」さまざまな問題に対する「優先度」を下げてくれているように思えている、ということに過ぎない、というわけである...。

日本的ナルシシズムの罪 (新潮新書)

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