社会の仮想化

ここのところ、ランサムウェアの話が後をたたない。コンピュータウィルスがパソコンに侵入して、かたっぱしから、パソコンの中のファイルを「暗号化」してしまう、というやつである。犯人は、その暗号を解除してほしければ、指定を口座にお金を振り込め、というわけである。
だったら話は簡単じゃないか、と思うかもしれない。パソコンに侵入するそれらウィルスが、パソコンの中に入ってこないようにすればいい。または、入ってきても、実行しないようにすればいい、と。
しかし、そんなことは可能なのか? もちろん、一日中パソコンの電源を入れなければ、なにも入ってこないだろう。外部とネットワークでつながなければそうだろう。しかし、ひとたび、外部とネットワークでつないだ時点で、なにが入ってきても不思議ではないし、それらが「さまざまな理由で」、実行されたとしても不思議ではない。実際に、私たち人間が、「それを実行しろ」と、パソコンに、確認ダイアログから「命令」してたなんてオチがあったとしても、なにも不思議はない(それは、人間が「愚か」かどうかにまったく関係ない。例えば、あなたが、次々とやってくる「イエスノー」の質問に、「正しく」答える「ゲーム」をやらされている、と考えてみてもいい。もちろん、ほとんどの場合、あなたは「正しく」答えるのだろう。しかし、だとしても、そもそも、なんでそんな「めんどう」なことを、神経をすりへらすようなことをやらされなければならないのだ。パソコンは私たちを「便利」にするためにあるはずだったのに、ある「苦労」をユーザーに強いるようになった時点で、なにかの「苦役」と変わらなくなるのだ)。
そう考えてくると、この問題を根本的な解決というのはないんじゃないのか、と思えてくる。
世界は「暗号」化される。ただし、その暗号キーがなんなのかは、誰も知らないが。
この「世界」と戦う方法はなんだろう? 例えば、こんな「戦略」はどうだろう?
朝起きて、パソコンを操作して、私は寝る前に、そのパソコンを、OSごと全部、クリーンインストールをし直すわけであるw 毎日、そうする。つまり、私は朝起きると、前日の「一切」の記憶をなくす、というわけである。
これは「私」なのか?
しかし、よく考えてみると、この戦略はなかなか効果的なのかもしれない。ようするに、「暗号化されて困るものをもたない」わけである。まあ、どうしても必要なら、紙にでも印字しておくのだろうし、まあ、「必要」だと言っているのに、他人様が見れるような所に置いておくのがどうなのか、ということなのだろうw
しかし、ここまで極端だと、あまりにも不便すぎる、ということはあるのだろうから、もう少し、「妥協」するところが、ベストだと考えられる。
まず、パソコンに VMWARE を入れて、そこに、もう一つのOSを入れ、「仮想マシン」をパソコンの中に作る。そして、メールやウェブブラウザといった、一切の外部との通信を「その中」でしかやらない。また、そこでOSに保存した、一切のファイルを、仮想化した元のOSの方にコピーしない。
もしも、その「仮想マシン」で、ランサムウェアの感染が分かったら、「その仮想マシンを削除する」わけであるw
これであれば、上記の毎朝クリーンインストールをするというのよりは、「多少」の面倒くささを回避できているだろう、というわけである。
しかし、私は上記の話を考えているとき、これはパソコンだけの話なのかな、と思うようになった。
むしろこの、人間社会にこそ「仮想化」が必要なのではないだろうか?

  • 世界は残酷だ

しかし、だとするなら、その「残酷」さと、直接、むきだしのまま、私たちは世界とアクセス「しなければならない」というのも、おかしな話なのではないか。これが「リアル」なんだ、というのはなんの「倫理」なのだろう。私はこういう態度こそ

  • ロマンティシズム

だと思っている。それはなにか、昔を懐しんで、郷愁にひたっているように思えるわけである。
もしも世界が残酷なら、私たちは世界を「仮想」化すべきだ。そして、世界を「操作」するのではなく、「仮想」世界を変えることで、

  • 媒介的

に現実を操作すべきなのだ。つまりはどういうことか? 「仮想」世界とは、「人間が作った世界」ということだ。それは、人間が、他人があまりにも残酷な被害にあうことがないように、「優しい」世界への「ファザード」を作ったと言うこともできる。一切の世界への人間のアクセスは、その「リスク」を人間の英知によって「ワンクッション」入れた、ということである。
自然は厳しい。
なら、人間はその自然を「支配」すればいい。それは自然を人間の意のままに操作することではなく、自然を「仮想」化することで、人間を、むきだしの自然のリスクから、守れる「なにか」の知識を介入させた、ということである...。