「ガチンコ」に抗って

ハイエクは自生的秩序と言ったわけだが、そもそもさ。自生的ってなんだろう? ようするにこれって、「ガチンコ」という意味だよな。
しかし、「ガチンコ」がいいんだ、というのは、ずいぶんと変な話なのではないか?

日本陸軍第一次世界大戦の全体的な観察や分析、実際の青島攻撃の経験から、今後の戦争は科学力と工業生産力を含めた国家の総合力が勝敗を決し、敵を圧倒する物量が決定力となると知った。勇気や決断、精神力、果敢な突撃精神は時代遅れで、戦いの副次的なものになったとの認識を深めたはずである。
その観点で日本の現実を見た場合、第一次世界大戦後に日本での重化学工業はようやく本格的な軌道に乗り始めたが、アメリカ、イギリス、ソ連などの列強と肩を並べるほどの国力には程遠い。
たとえば大正末期での日本人一人当たりの鋼材需要量は、ヨーロッパ主要国の四分の一、アメリカの九分の一である。そして当時の日本の鉄鋼の生産能力も低かった。
日本が成長していくとしれも、その間に列強の経済規模はもっと大きくなっている可能性が高い。兵器や弾薬の多寡や化学技術に対する投資が、戦争の勝敗を決するという変則に立てば、今後の大戦争で日本に勝ち目はないという結論が導き出されたはずだ。

江戸時代は平和な時代であった。戦争がなかった。その時代において、武士は独特の「官僚」になった。彼らの「精神」性は、脇に差している、刀にあった。例えば、幕末の西南戦争を見ても、確かに、大砲とか鉄砲というものが登場はするが、その戦闘の主役は

  • 騎兵隊

であった。つまり、白兵戦なのだ。鉄砲と刀をもった歩兵の戦闘員が、歩いて、前に突撃する。
そこには、なにかしらの「倫理」があった。
なんとなくその姿には、「精神」が反映していた。
ところが、第一次世界大戦以降になると、上記の引用にあるように、戦争とは、どれだけの「火力」をもっているかの勝負でしかなくなった。そこにおいては、歩兵が「歩く」という姿が、なんらかの「英雄」的な印となるものではない。むしろ、そこには「計算」がある。お互いの戦力を比べれば、どちらが相手を圧倒するのかは、最初から分かる、というものになった。
戦争は行うものではない。なぜなら、行おうとしたその瞬間に、その火力の違いから、どちらが勝つのかは決まっているから。戦争とは経済力の違いだった。どっちが、より多くの戦力をもっているか、買っているか、という違いしか意味をなさない。お互い、卑怯にも、陰から鉄砲を撃って、相手を殺す姿には、なんの英雄的な色彩もない。江戸時代に侍や武士に投影されていた、なんの、「精神」的な意味もない。
明治から昭和初期にかけての、陸軍士官学校において、子どもたちはまるで、農家の農作業のように、共同生活をする。一緒に、団体行動を行い、それぞれを「知る」ようになればなるほど、息がピッタリと合うような、気心の知れた、「いい奴」たちの集団となっていく。
ところが、戦場というのは、そういった農業共同体のような、「話せば分かる」というような世界ではない。

  • 「ガチンコ」の世界

なのだ。たんに、相手を圧倒する武器をもっている方が、圧倒し、全滅する。

  • 世界は残酷

なのだ。しかし、おそらくそういったふうに言うことは、本質を見誤る。というのは、だったら戦闘なんてやらなければいいからだ。
戦闘をやる、と選択しておいて、ボロボロにされたら無慈悲って、むしがよすぎるわけであろう。
なんで負けると分かっているのに戦争をするのかといえば、なにかしら、上記の農業共同体のような

  • ウェットな感情

が、自分がボロボロに負けている最中も、「相手が冷たい」って怒っているような、だらしなさがあるわけであろう。
第一次世界大戦で、戦争の意味が変わった。変わったにもかかわらず、日本の軍隊はそれを見て見ぬふりをした。もうそれは、戦争ではなかった。
たんに人を殺す「手段」だと言えば、話は早いが、本当に、虫ケラのように、どんどん人が死ぬ。戦争とは、ただそれだけの事実を言う行為でしかなくなってしまった。大量殺人の時代。その最終形態が、原爆であった。
これが戦争だ。
戦争が開始と言った時点で、都市全員が灼熱の原爆で一瞬で、どろどろのスープに変えられる世界。こんな世界のどこに、江戸時代の武士の精神性などあるだろうか。
おそらく、私たちはなにかを勘違いしていたわけである。
ガチンコっていうのは、こういうことで、ようするに「自然」っていうことですよね。つまり、「老子」なんだ。
しかし、老子というのは、一種の「ニヒリズム」なんですよね。つまり、最初に儒教がある。儒教は、孔子が、戦争の時代の中で、平和を考えたわけで、それは「人知」による、自然の支配を意味していた。つまり、孔子の言いたいことは、人間がこの自然を支配して、コントロールするから、少しずつでも良くなっていくんだから、この人間の良くしていこうという「働きかけ」が、決定的に重要なんだ、ということなわけであろう。
それに対して、老子が何を言ったのかというと、つまりは、こういった人間の行為は、自然による「自生的秩序」にむしろ、「悪影響」を与える、と。かえって、自然が作りだす、均衡のとれたバランスを破壊するのが人間の「恣意性」なんだ、というわけであろう。
これは確かに一理あるわけで、人間は結局のところは、その人の「自意識」によって行動するしかないわけで、そうであれば、必然的に、その人の利己的な側面が重要視されてしまう。
しかし、である。
たとえそうであったとしても、じゃあ「自然に帰れ」ですむのか、ということであろう。
例えば、経済を考えてみてもいい。
サラリーマンは、「競争社会」を生きている。そういう意味では、「残酷」な世界である。しかし、サラリーマンは少なくとも、毎月のサラリーをもらっているという意味では、カタストロフィーの一瞬前までは、普通に、生活が成り立つわけだ。そういう意味では、比較的リスクの少ない存在形態なんじゃないのか、と考えることができる。もちろん、途中で倒産してしまえば、定年まで働いて、退職金をもらう、という形にはならないわけなのだから、ずいぶんと損だと思うことは可能であろうが。
大事なポイントはここで、人間社会は、自生的秩序に対して、なんらかのリスク回避や「保険」をかけている、ということなのだ。
リベラルは一方において、競争や成長を礼賛する。
しかし、本気で「競争」するということは、「ガチンコ」をする、ということなわけであろう。なぜなら、それが「自然」なのだから。しかし、そんな世界、ほんとに、良い社会なんですかね。
たとえそこに「成長」があるのだとしても、その成長はなんらかの意味で、「人間によってコントロールされているもの」でなければ、その成長の陰には、悲惨かつ無慈悲な人間の涙がある、ということなんじゃないのか。
例えば、子どもたちの受験戦争を考えてみよう。子どもたちは、偏差値で、進学校をふるいいにかけられる。しかし、他方において、子どもたちは「教育」を受ける存在だったのではないのか。一方で教育と言っておきながら、他方で「偏差値=ガチンコ」というのは、矛盾しているんじゃないのか。
「むきだし」のこの世界の自然は残酷である。そうだからこそ、孔子は、その世界に逆らうようにして、そこに

  • 人間の秩序

が必要だと構想した。それが儒教であって、儒教は自然の残酷さに対して、人類が「対抗」する手段を意味する。たんに「むきだし」の世界にさらされる人間を、私たち人間集団が「みんな」で、かばおうとして考えた、防波堤なんだと思う。
そして、この防波堤は今に至るまで、完成には至っていない。まだまだ多くの欠点を内包している。だからこそ、これを完成させようとする人間の努力は止まらないわけである...。