自民党という磁場2

自民党が、どういった政治を行おうとしているのかを考えると、なんらかの形で

  • お金持ち
  • エリート

を優遇する政治体制を考えている、ということなのであろう。そういう意味で、アメリカの共和党に通じる政策だと言える。
しかし、そういう意味では、どんな政治体制もそうなんじゃないのか、と思うかもしれない。つまり、「現実」ルールというもので、実際問題として、お金持ちしか大学に行けないし、塾に通えない。エリートしか、大企業に入れないし、国家官僚になれない。自民党が考えているのは、基本的にそういった人たちの「身分」的な意味にまで届くような、

  • 優遇

なのであろう。しかし、それを露骨に行うと国民からの非難を浴びる。その境界線を渡ってきたのが、自民党政治であった。役所の窓口で生活保護の申請を突き返してきた自民党の政治方針には、明確な意志がある。
それは、相模原市の植松容疑者に通じる「コスパ」信仰がある。つまり、

  • 国権主義

なのだ。そして、この「国権主義」こそ、福沢諭吉から今に至る日本であり、自民党のポリシーだと言えるだろう。
そういった視点で考えてみると、その自民党政治は一貫していると考えることができる。貧困層に対する生活保護も、在日韓国人への保護に対しても、水俣病の患者に対しても、原爆被爆者の患者に対しても、ようするに

  • 弱者

への援助に「やらない」とは言わないが、及び腰。ようするに、やる気がない。やらないとまでは言わないが、できるだけ、その支出を減らすことで、「コスパ」を上げようとする。それは、相模原市の植松容疑者に通じるものがあるのであり、ようするに

  • 国家にとって役に立たない

存在を国家が助けない、「国を国民に優先する=国権主義」が明確に見られる。
自民党の政治戦術は非常に明確で、どうやって福祉を「減らす」のかに、その焦点がしぼられている。それは、国民に向かって「福祉をやらない」と言うのではなく、一見すると「対処する」と言いながら、実質的にやらない。やっているふりをする。こうすると、市民運動側も

  • なにか理由があってうまくいっていないのかもしれない

といったような、妙な「納得」を行ってしまう。本当なら、この状況を打破するためには、政権交代が必要なのだが、そもそも、政権交代の「掛け声」をする役割のインテリたちが、

  • お金持ち優遇・エリート優遇

に賛成の人たちなのだから、こういった自民党の「やるやる詐欺」戦略に「賛成」だったりするわけで、にえきらない発言しかしない。ようするに何が起きているのかというと、野党の中に「にせ野党」であり、

を抱える状況となり、うまく「反論」が成立しない、ということになる。
結局、あらゆる「福祉」は、「お前はお国に頼らなくても、まだやれるだろ」と言われると、それに反論するのが「国民の側」であるかのような感覚になる。ようするに、福祉とは

  • 慈悲

であるかのような錯誤になる。お前は慈悲を受ける資格があるのか? という問いにかえられる。つまり、それだけ

  • 国家

への献身を示してきたのか、と問われるわけである。しかし、本来の福祉とはそういうものではない。憲法における、「最低限度の文化的生活」といったようなもので、

  • どんな人であっても

その条件を満たす人であれば「無条件」で与える、というものであって、これに反発する、というのが自民党的な「お金持ち」の政治だ、ということになる。
例えば、靖国神社のように、カミカゼ突撃隊が自分の命を投げうって、相手の戦艦を沈めようとした、といった行為のように、それが、

  • 国(=天皇)を護った

という「事実」が、「福祉」の条件となる。ここにあるのはなんだろう?
つまり、そもそも「国家にとって役に立つ」という前提があり、その条件を満たす人の中で、実際に国家にとって「役に立つ」ことをしてくれた人だから、それに見合った「報奨」をもらえる、というのが基本的な考えになる。
これに対しては、この前の東京都知事選挙での鳥越さん「差別」の、ネット上のバッシングを考えてもらっても分かるのではないか。その反応は、非常に、小沢一郎さんへのバッシングと似た

  • ヘイト・クライム

として行われたことが特徴であった。その批判の特徴は、例えば、候補者討論会での彼の話し方が「ろれつが回ってなかった」というふうに見えた時点で、彼には

という形で、鳥越さんを応援しない、という形で議論がされる。しかし、たとえそう見えたとしても「ろれつが回っていない」ように見えたからといって、そういう人に、被選挙権がないとでも言うのだろうか? よく注意して、その人の意見を聞いてみると、例えば、鳥越さんは原発反対を明確にしたが、そうやってバッシングをしている人たちは、原発賛成だったりする。つまり、まったく違った意見を理由にして、彼の「資質」を問うているように見えて、実際は、彼の原発政策を徹底して潰そうという意図が含まれていたのではないか、という疑いがあるわけである。
もしも「ろれつが回っていない」ということが、その候補に投票しない理由になるとするなら、それは「ろれつが回っていない」人は選挙に立候補する資格がない、ということを言っているのと変わらない。つまり、なんらかの「どもり」の傾向をもつ人は立候補するな、と言っているのと変わらない。
同じように、鳥越さんの年齢を問題にした人もいた。しかし、もしも年齢が問題なら、そもそも選挙制度上、一定以上の年齢の人は立候補できないようになっていなければならない、ということではないのか。つまり、これは明確な年齢差別であった。
それ以外でも、さまざまな鳥越さんの対応に対する「資格なし」的な、「嫌味」が行われた。まさに、その光景は「いじめ」と変わらなかった。
そういった態度にはどこか、上記の自民党的な「能力」に対する「コスパ」至上主義的な態度があった、と言えるであろう。つまり、学校の試験であれば、トップ10に入っていない奴が、生徒会委員長の選挙に立候補する資格がない、というような。
しかし、そういった視点で野党候補を評価してはならない。
野党とは与党の「カウンター」の側面があり、与党の

  • 問題

を解決する存在として現れているわけなのだから、そういった与党の「評価の軸」と同じ基準で測ってはならない。野党は最初から「弱者」であることが、前提であり、だからこそ、その弱者がどういった反逆ができるのかが問われているはずであるのに、与党の「能力競争」の尺度で、同じ土俵にのせられている。
つまり、鳥越さんが象徴していたのは、私たちが「弱い」という表象であったはずであるのに、それに対して「弱い」なら、都知事にふさわしくない、とやったのが、いわゆるネット言論であった。
そういった視点で考えたとき、例えば、宇都宮弁護士により、鳥越さんディスというのは、典型的な「弱者」ディスになっていた。宇都宮さんは、鳥越さんが、都知事の能力を備えていない、として、攻撃した。彼では、東京都民は救えない、と。しかし、そんなふうに言うなら、強者である自民党系の候補が勝つに決まっている。宇都宮さんが考えるべきは、なぜ自分が野党共闘の候補として推薦されないのかだったのであり、そのことの考察なしに、鳥越さんの「能力」を問題にするなら、それは、もう一つの「弱者差別」にしかなっていないことを分かっていない。
私たちは弱者だ。だとするなら、弱者は弱者で「集団」になるしかない。つまり、そういった「能力」だとか「学歴」だとかいった、「差別」と戦わなければならない。なぜ「弱者」が都知事になってはいけないのか? むしろ、そういった「基準」が、自民党的「差別」を生き延びさせてきたのではないのか。
野党共闘は、山口二郎が言っていたように、「人民戦線」としての色彩があった。つまり、「反ファシズム」としての戦線をここに引くという、明確な意志が込められていた。だとするなら、この一線に反対する人たちの態度には、どこかしら

に親和的な色彩を読み込まざるをえなかったのではないだろうか。鳥越さんが「だめ」だという、その「だめ出し」の態度には、どこかしら「弱者」への「軽蔑」があったのではないのか。都知事は「能力者」しかなってはならない、と。それは、右もそうだし、左もそうだった。こういった「差別主義者」が日本の中枢を支配している限り、日本的福祉の理想は実現されない。
しかし、その理想を彼らは、「リベラル」を自称していながら、本当に共有しているのだろうか? 例えば、彼らは自らを「リベラル」と自称しながら、露骨に

  • 左翼

を軽蔑している。特に、日本共産党を軽蔑している。つまり、彼らはこのことが「矛盾」である可能性を本気で考えたこともない。彼らは日本の福祉は「正義じゃない」と考えている。彼らの考えている「正義」は、世界の果ての、アフリカの飢えて死にそうな子どもたちを救うことなのであって、日本の「しょせん」は相対的貧困にすぎないものを差別だと思わない。
ようするに、最初の問題に戻るのであって、彼らは

  • 国権主義者

なのだ。国家が、国民を救う。国家が国家の強大な力によって、「弱者」を救う。それは、国家がパワーをもっているから、「弱者」を救うのであって、最初から、国家の「強大さ」が前提になっているのであって、国家の無謬の強力さが、

  • なにが正義なのか?

を判断する能力の無謬性を証明し、国内の弱者を見殺しにしながら、世界の果てのアフリカの飢えた子どもを「救う」ことを生き甲斐にさせる。アフリカの飢えた子どもの命の尊さに比べたなら、日本の相対的貧困など、たいしたことではない。だから、日本の弱者を救わない。つまり、日本国内は弱肉強食が当たり前。大学に入ってエリートになるのが、富裕階層であることは当たり前。それのなにが悪いのかが分からない。
というのも、これが「パターナリズム」の特性なのだ。彼らエリートは「何」をすべきなのかを「決める」のは自分たちだということを疑わない。そうである限り、彼らにとって「不利」な結果が導かれることはない。なぜなら、彼らの「能力主義」は、

  • 自分より頭の悪い奴が言っていることが、自分が言うことより<正しい>わけがない

という結果になることが必然的に導かれるから。ようするに、

  • 自分より馬鹿な奴に、自分が支配されたくない

という罵詈雑言なのだ。さて。これのどこが民主主義なんですかねw 私は野党は徹底した「弱者」戦略をとらない限り、今後の政治のキャスティングボードを握れないと思っている。野党は自分に「能力」があるから、自分がその地位にあることが「ふさわしい」という主張をしている限り、絶対に与党の陥穽にはまってしまう。
どういうことか?
頭のいい奴であるから、選挙で勝つ「べき」という戦略は、「だったら与党議員でいいよね」という結論しか生まない、ということなのだ。なぜ野党に投票するのか? それは、野党が

  • 弱者

の側だから。野党が誰を「代表」しているのか、に気付くからに過ぎない。こういった戦略を貫けない限り、野党の勝利はありえない。そういった視点で考えたとき、自分たち野党の側に擦り寄ってくる連中の中の

  • 敵(てき)

を、本当の意味で排除しなければならない。自分たちの思想と違っている人は、自分たちの仲間ではない。彼らは、一見、野党を応援しているように見えて、彼らの主張の中身は、自民党の応援団なのであって、つまりは、トロイの木馬であり、野党内与党であり、野党内自民党応援団だ、という「本性」を表してくる。
野党共闘がもしも、真の意味でその存在価値を示すとするなら、こういった連中を、簡単に自分たちの「仲間」の中に入れてはならない。それは、今回の都知事選挙で、一貫して、鳥越候補をディスり続けた連中を、絶対に、内部に取り込んではならない、ということになるであろう。
大事なことは、こういった連中は、いつでも野党を裏切る、ということである。
信頼できない。
その多くは、おそらく、電通を介して、自民党のネット工作員として、バイト料をもらって、発言していたのであろう。こういった人は、たとえ、これから、自民党と対立するような言説を始めても、すぐに野党共闘をディスり始めて、野党の勢力を減少させることに血眼になる。
おそらく、大事なことは何を自分たちの「基盤」に位置づけるのか、ということになるであろう。そもそも、野党共闘は、与党による安保改正の「憲法違反」を強引に押し通す姿勢への危機感から始まった。だとするなら、この一線において、明確な姿勢を示せない人は「信用」できない、ということになる。
つまり、野党には明確な「メルクマール」が求められている、ということになる...。