岡田憲治『デモクラシーは、仁義である』

結局、儒教とはなんだったのだろうと考えてみると、柄谷行人が最近書いていたように、まあ、戦争の時代に、孔子が考えていたことが「平和」だったのだろう、ということになるのではないか。
それに対して、老子が言っていることは「自然主義」であり、「現実主義」であり、「存在論」であり、まあ、

  • 科学

なんですよねw これって、ハイエクの言う「自生的秩序」といったもので、私なりの解釈をさせてもらうなら、

  • 人間が滅びる

ような「コスパ最強」なんですよね。まあ、早い話、人間が滅びることこそが「コスパ」が良くなるw それをエリートたちは、「一部のエリートが生き残るために大衆を犠牲にする」ということになるのだろうけど、それって

  • ガチンコの人間同士の<闘争>

という「自然主義」によって、血みどろの死闘の果てに人間が滅びる、ということなのだから、結局、人間が滅びる、ということなんだと、老子に対して孔子は解釈するわけである。
この指摘はなかなか奥深くて、ようするに、世界を自然のままにしておけば、そりゃあ、人間はいつか滅びるよね、という自明のことを言っているに過ぎない。「自然」とか「自生的秩序」って、そういうことなんじゃないのか、というわけです。
お金持ちがどんどんお金持ちになって、貧乏人がどんどん貧乏人になってって。それって、経済を「自然」とか「自生的秩序」のままに任せればそうなるよね、っていうか、

  • そうなっても放っておく

というのが「自然主義」とか「自由主義」というものの含意なのだから、それと同じように

  • 人間が滅びる

も「自然主義」とか「自由主義」の当然の帰結だよね、と思うわけである。
そのように考えたとき、孔子が言っていた「仁」や「義」がなんなのか、が分かってくると思うのである。「仁義」とは、いわば、

  • 人間が滅びないための人間が決めた<決め事>

のことなんじゃないのか、ということが。つまり、「ルール」のことなんじゃないのか、と。もっと言えば、ジョセフ・ヒースの言う「ルールに従う」ということなんじゃないのか、と。
人間が何かの「ルール」に従うということは、人間同士の意志疎通の可能性を担保している、と言うことができる。つまり、お互いが「分かり合える」その範囲と限界を示すことでもあると。少なくとも、なんらかの「ルールに従う」という作法を順守できるという行動が、相手への「信頼」の範囲を確定する。
これに対して、宮台真司さんやその周辺の人たちの言う「複雑社会」は、それさえ担保されない「ルール」非共有社会を指摘しているわけで、そのことを彼は「脱社会的存在」と呼んだ。そして、近年流行りの言葉でそれを説明するなら「モノの秩序」ということになる。

[仁義の意味の]もうひとつは「約束」、「掟」、あるいは「倫理」といった意味です。つまり何らかの「規範(norm)」や「ルール」や「やり方」、「道義」ということです。『仁義なき戦い -- 広島死闘篇』では、テキ屋系列の大友組の暴れん坊息子の勝利(千葉真一)が博打を開いているところへ、博徒である村岡組の若衆頭の松永(成田三樹夫)がやってきて、「テキ屋は博打に手ぇ出さんのが仁義じゃろ。これまでのことは見逃しちゃるけん、だまってゴザ巻けや(撤収しろ)」と言うシーンがあります。
これは「神農(中国古伝説上、交易を教えた帝王。露店商人の隠語で「親分」の意)であるテキ屋稼業の人間は、賭博にはノー・タッチであるという不文律の取り決めがあるんだから、今すぐ止めて帰れ」という意味です。つまりテキ屋は賭博をやらないという「道義」のことを、仁義と言っているわけです。「これだけは外すわけにいかないお約束」です。これを外すと「外道」となります。ヤクザの世界での信用を失い、稼業も続けられなくなります。
しかし、禁欲の戦時中の倫理が反転した「闇市欲望全肯定時代」に雪崩れ込まんとする新世代の若者にとってみれば、そんな古いルールに縛られていたら、濡れ手に粟の利権を対抗勢力に握られてしまい、広島の裏社会を牛耳じられてしまいます。そのため、親父の説教には洟も引っ掛けずにデタラメをやっていきます。まさに、この後の広島ヤクザ戦争は「仁義もなにもあったもんじゃない」、「身も蓋もない銭と欲望をめぐる」大戦争となっていくのです。

孔子の言う「仁」は、論語において、少しマジック・ワードのような位置にある言葉だと言えるのかもしれません。それは、老子の言う「自然」が、結果として人間の「滅び」を必然とするなら、孔子の言う「仁」は、人間が滅びに至らないために、人間自らがお互いで決めてきた「約束事」のような色彩があります。孔子の「仁」は、そういう意味で、

  • 方程式における変数「X(エックス)」

のような使い方になっています。この方程式は、ようするに、「人間が滅びない」ならば、どういった解に至らなければいけないのか、を最初から、条件としてもっているわけです。人間がお互いで殺し合いをして、滅びるという結果は、老子の「自然」の必然的な結果です。これは、時間の問題だと言えるでしょう。では、それに「抗う」なら、どうあらねばならないのか? その問いを孔子は「仁」と呼んだわけです。
そういう意味で、孔子とカントは発想が似ています。孔子もカントも、人間が生き延びることは、「自然」ではない、と考えた。それは、人間が「なにか」を「意志」したから、生き延びた、と考えた。そういう意味で、人間が自らで作った「ルール」には、一定の「正当性」がある、という態度だ、と言えるであろう。
他方において、宮台真司さんの「脱社会的存在」に感化されて思考している思想家の考える社会システムは、この人間が言語によって作ってきた「ルール」を、

  • この世界に「善」などない

という「哲学」によって整理していく方向だと考えられるであろう。つまり、一切の「言語」を介すことなく、この社会を「統治」する「システム」だ、と。それは、つまりは、「科学」であり「唯物論」による統治と言うこともできるし、上記の最初で指摘した「自然主義」や「自生的秩序」によって作られる統治だと言うこともできるであろう。
しかし、そういった方向の「秩序」というのは、逆に言うなら、「なんのため」に人間は生きているのか、といった「理想」からも離れていく、といった側面がある。貧富の格差が拡大したとしても、なぜそれを「そのまま」にするのか、なぜそれを「縮小」するのか、といった大義がない。たんに、唯物論的な「科学」があるだけで、それ以上にこれを説明する言葉をもたないわけである。
それは、人間同士が行う「諍い」を仲裁する理由に対しても、現れる。なぜ戦争を止めさせなければならないのか。なぜ、人間が滅んではいけないのか。その理由を見つけられない。それは、そもそも「言葉」による「説明」を拒否した時点で、分かりきっていた事態であるわけだが。
これが「現実法則」の必然的帰結だと言ってもいいであろう。今、目の前で起きている事態に対して、そのあまりにもの「明らか」さであり、「自明」さを、「現実」と言った時点で、全てのことは、たんに「必然」であることを意味するようになる。つまり、その「必然」に抗う地点を失う。この社会の理不尽は、分析するものではなく、深遠なままに「受け入れる」何かでしかなくなる。すべては、詩的に美しく描かれるだけで、一切の暴力も「そのまま」の空気として、たんに眺めるだけとなる。
それは、民主主義についても同じで、掲題の本が示しているように、民主主義とは、なんらかの「ルール=仁義」なのであって、それを「科学」によって嘲笑するのが、こういった「自然主義者=存在論者」たちの作法だ、ということになる。
こういった態度は、例えば、人間が行う「暴力」が拡大することに抗う方法がない。なぜなら、暴力は「自然」だからだ。よって、暴力には暴力で押さえ込むしかない。つまり、強大な国家の暴力を目指すことになる。なぜか? それは、「自然主義者」は、最初から、言葉による「説得」というものを、あきらめているから。そういった行為を、さかしらに侮蔑することが、彼らの倫理だから。この世界が、貧富の格差が拡大し、弱肉強食となっているのは「しょうがない」。だったら、弱者が暴力によって、この社会秩序に立ち向かってくるのも「しょうがない」ということになる。まさに、仁義なき世界、ガチンコの世界だと言えよう...。

デモクラシーは、仁義である (角川新書)

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