A・A・ロング『ヘレニズム哲学』

以前から思っていたこととして、私には、いわゆる「功利主義」というのは、なにかがおかしいんじゃないのか、と思っている。というのは、「幸福」の計算として、最大多数の最大幸福というわけだが、まずもって、そんなことは可能なのかが疑わしいからである。つまり、この前も書いたように、他人の「幸せ」が分からない、というのは、そもそものソクラテスが言っていたことであったわけであろう。人間は他人の幸福が分からないという意味で、

  • 孤独

なわけで、この世界に一人、ぽつんと存在している。だれかの「幸福」が分からないことは、孤独にこの世界の中で、自分だけがもっている「幸福」の感情と向き合うことを強いられている。そして、ここから誰も逃れられない。ようするに、功利主義は「為政者」の視点なわけであり、為政者が

  • お前たちはこれが「幸福」なんだろ

と言っているだけな部分が否定できない、というわけである。
つまり、幸福はこういった「他者」を含んだものとしては、計算してはならない。それは必ず「間違える」から。ソクラテスが言ったように、本人が「幸福」であることと、相手が「幸福に見える」ことは、本質的に違っているのであって、人々はどんなに自分が幸福ではないと思っていても「幸福だ」と言うときもあるし、その逆もある。
もしも政治的に、この問題を修正することができるとするなら、「意志」については、計算できるわけである。つまり、「そうあるべきだ」という表明、例えば、選挙での投票の場合は、自分がどう思っているかではなく、それを選択する行為が、本人にその結果を引き受けさせるという「責任」を結果するので、この「集計」は問題ないわけである。
だとするなら、なぜこんな「混乱」が起きているのだろう?

すなわち徳をもった人間とは、そのことで国家社会の成員が心を動かされ、賞賛したくなる存在であり、国家がその人物によって他の国家から尊敬の対象となる存在であり、国家社会の成員がその魅力に引きこまれ、この人にリードしてもらいたいと思うような人間である。そして徳目とは、それぞれの社会において高く評価されるべきと考えられた人物が「どのような点で」評価されてきたのかを示すものなのである。

また正確にはいつごろから言われだしたかわからないが、ヨーロッパでは、「率直さ」は、(特別な何かではなく)だれでもあたりまえにもつべき徳として受けとられている。
これらの徳目に反するものは、その社会においては醜いものと見られ、非難され、拒絶される。古代ギリシアとそれにつづく時代のヨーロッパにおいて、臆病、放埒、不敬神ないし無信仰、愛のないもの、不正義、無思慮、不従順、等々は、「人間の醜さ」であった。率直さに反する「裏表のあること」も拒絶の対象となった。
社会のなかで何が賞賛され何が非難されるかという点で、日本の社会と共通であるものもあれば、かならずしもそうでないものもある。たとえば日本社会にある本音と建前は、ヨーロッパでは拒絶の対象である。したがって倫理道徳に関しては、彼我の違いはあると考えなければならない。
哲学の始原: ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか

このように、過去からの文脈を考えるなら、功利主義のように「お前たちの幸福を計算してやる」といった考えは少数派で、むしろこういったソクラテス的な「無知の知」の考えの方が一般的だったのではないかと思われる。そして、そういった延長上において、徳倫理といった考えがあるわけで、そこにおいて、上記の引用にあるように

  • 率直さ

といったものが「だれもが当たり前にあるべき」ものとして一般に解釈されてきたわけであろう。
しかし、それに対して、露骨に異論を唱えたのが、以前も紹介したリチャード・ローティの発言だったわけで、だからこそ、この「リベラリズム」の構想は論争を呼んだわけであろう。

ここには、リベラルなコミュニティを可能にするすべて、すなわち「最小公分母」----苦痛や苦悶の防止----と「慇懃なる無視」----他のサークルの営み(幸福の追求)に口を挟まない----が明瞭に語られている。これに呼応するかのように、ローティはこう述べる。

我々は、数多のプライヴェートな会員制(exclusive)クラブに取り囲まれたバザールをモデルに、世界秩序の構築を目指すことができる。
......かかるバザールに集う人々の多くは、彼らと掛け合いする大方の相手の信念を分かち持つくらいなら死んだ方がましだと思いつつも、なお、うまい具合に渡り合ってゆくものだ。明らかに、その手のバザールは、アラスデア・マッキンタイアやロバート・ベーのごときリベラリズムの批判者たちの言う、すなわち「共同体」の強く是認的な意味での共同体ではない。......しかし、我々はブルジョワ民主主義的な市民社会を描くことができる。必要なのは、どうしようもなく異質と思われる人物が市庁舎、八百屋、ないしバザールに姿を現したときに、おのれの感情を制御する能力だけである。こういう事態が生じたら、あなたはにこやかに微笑んで、能うかぎりのもてなしをし、その日のきつい駆け引きの後で、所属するクラブへいそいそと帰ってゆくのだ。そこでは、あなたの道徳的な同輩たちとの親しい交わりが、あなたを慰めてくれるだろう。(PPv1, 209)

だから、ローティの理想社会の住民は、バザール(政治的空間)のヴォキャビュラリーと、会員制クラブ(個人たちの空間)のヴォキャビュラリーを使い分けなくてはならない。ローティの主張する「公/私の区別」、より正確には「政治的/個人的の区別」が登場するのは、この場面である。

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)

リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)

日本のエリートの特徴は、3・11のときの御用学者が典型であったように、他人の前で

  • 平気で嘘を言う

わけである。なんのけれんみもなく、嘘を並べる。なぜか? 彼らがお金をもらっている相手の意向をくんで話しているから、お金をくれる人が「言ってほしい」ことを言ってしまうわけである。今、自分が話しかけている人に、どうして自分が

  • 本当は思っていること

を言わなければならないのかが分からない。つまり「率直さ」の徳をもっていないわけである。率直であることが、人間社会を唯一成立させる、最も重要な属性である、と思っていない。つまり、そう思っていないという時点で、こういった人が信用ならない、さまざまな場面で、この社会に有害な結果をもたらすことになる可能性がある、そういう存在なんだ、という認識が欠けている、というわけなのだろう。
さて、「率直さ」という徳倫理については、これでいいと思うのだが、では、反対に、「幸福」というのは、どうなのか。つまり、功利主義的な「幸福」が違うというなら、本来、「幸福」とは、どういったものを考えられてきたのか。
私は、この問題を最も象徴しているのが、エピクロスになるのではないか、と思っている。つまり、エピクロスの「忘却」が、功利主義を生んだのであって、この逆ではない、ということである。

彼[エピクロス]の快楽主義の最も顕著な特徴は、快楽と苦痛の中間に位置づけられる状態ないしは感情を否定する点にある。快楽と苦痛は、反対関係ではなく、矛盾対立関係にある。一方が欠如すれば、必然的に他方が存在することになる。もしも快楽がすべて、ある種の感覚とみなされるなら、快楽と苦痛のこの関係はまったく意味をなさない。というのも、明らかにわれわれの大多数は、苦痛も快楽も感覚することなく、覚醒時の大半を過ごしているからである。しかし、われわれが自らを省みて、自分は幸福でも不幸でもない、あるいは、何かを楽しんでいるのでも楽しんでいないのでもないと記述しうるような覚醒時の期間というのは、はるかに短いものである。

掲題の本の第二章は「エピクロスエピクロス哲学」というタイトルとあり、まるまる、エピクロス哲学を題材にしており、その中でも「(9)快楽と幸福」という節で、彼の幸福論を確認できるが、その内容は、現代の私たちから見ると、驚くべき内容である。
エピクロスは一般に「快楽主義」と言われ、いわれのない非難を浴びてきた。しかし、彼の言う「快楽」は上記にあるように、徹底的に相対的であり、消極的快楽主義とでも言うべきものになっている。例えば、彼はさまざまな身体的な快楽、食欲であり、性欲でありを否定しているわけではないが、それがその後においてもたらされる「結果」において、さまざまな苦痛を自らにもたらす結果になるのであれば、むしろ

  • 避けるべき

と言う。つまり、こういう意味では、ある快楽を、ある場合には、「抑制すべき」と言っている。
こういった態度は、まったくもって、ソクラテスが示していた

  • 抑制主義

を最も正当に引き継いでいる哲学者だと言えるわけである。

人々が追及すべき快楽は、ベンサムの「最大多数の最大幸福」ではない。エピクロスは、他者の利益を行為者自身の利益より優先すべきであるとか、他者の利益を行為者の利益とは独立に評価すべきである、とはけっして勧めない。彼の快楽主義の方向性は、完全に自己中心的なのである。

これは、現代の功利主義的エリート主義、パターナリズムに惑溺した現代人には驚くべき主張に思われる。ここには、まったき「快楽計算」がある。功利主義と同じように、快楽計算を行っている。ところが、完全なまでに、この快楽計算は「自分一人」に閉じている。他者が関係していない。そういう意味では、ソクラテスが指摘した、功利主義の「間違い」が、こちらでは回避されているわけである...。

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派