ナショナル・アイデンティティの限界

昨日のサッカーW杯最終予選の日本代表の試合は、私にとっては異様な印象を与えた。それは、日本代表の海外組が二日前に合流して、ぶっつけ本番だったのに対して、UAEはスペインで一ヶ月の合宿を行っていて、海外組がいなかった、といった素朴な違和感にとどまらない何かがあった。
それは、言うまでもなく、審判である。
なぜか審判はカタールの人であった。この人が今までの国際試合でどれだけフェアな判定を行ってきたのかは知らない。しかし、そんなことに関係なく、カタールは言うまでもなく、イスラム教を国教とするスンナ派が国民の大半を占める国であり、UAEもそうである。
言うまでもなく、中東のイスラム教世界において、国家などというものは、なんの意味もない。あるのは、イスラム教によるモスクを中心として「同胞」意識だけであって、そもそも、イスラムスンナ派である限り、だれもが

  • 同国人

と同じ意味をもつわけである。イスラム教において、国境などなんの意味もない。
このことが分かっていれば、こういった審判の配置になることを事前に把握して、これが、どれだけ日本にとって「不利」であるかを訴えて、変わってもらうための努力が必要だったことが分かるであろう。
実際、試合の最中、審判は日本に不利な判定を下すたびに、顔がニヤニヤしていて、同じイスラム教徒のためにどれだけ自分が「善行」を行ったのかの「幸福感」を一杯にしていた姿を見れば、これは日本が勝つ負ける以前の話だったことが分かるであろう。
しかし、である。
これについて、一つでも指摘したマスコミがあっただろうか?
ないわけである。というか、これを言っていたのは、ハリルホジッチ監督ぐらいじゃないか。事前に日本の協会が、この審判人事を把握しておらず、彼らも直前に知ったことを批判していたのは。
ようするに、である。
いつもの「電通」である。日本においては電通批判はタブーである。一切の電通の落ち度は、日本で握りつぶされる。この調子でいくと、おそらく、次の6日のタイ戦も、トンデモ審判をつかまされるであろうw
どうしてこんなことが起きるのか?
おそらく、日本人がどこかまだ「ナショナル・アイデンティティ」こそが、世界共通の了解事項だと今だに思っているからなのであろう。だから、UAE戦で「カタール」という、少なくとも、アジアの第三国という条件を満たしている限り

  • 断われない

と思ってしまっている。それだけ、国家単位ということに日本人はなにか意味があると思ってしまっている(「中東の笛」を、まるで、中東「地域」の遅れた「文化」のようなものとして見下しているw)。なんというか、世界の常識がないというか、ナイーブというか、まあ「ゆとり世代」は「無知」ということなのだろう...。