アニメ「君の名は」にみられる<処女>幻想

アニメ「君の名は」を見たときに思った、もう一つの、私を不快な「吐き気」をもよおさせたものが、主人公の瀧が東京という都会の高校生であったのに対して、ヒロインの三葉が田舎の高校生だったことであろう。ようするに、この作品は典型的な

  • 田舎の女 ... 汚されていない処女
  • 都会の女 ... 汚されまくった後の「やりまくり」ビッチ

といったような、都会の男の「ドーテー妄想」の告白であるわけである。つまり、こう考えてもらいたい。この作品は、もしも、瀧が田舎の高校生で、三葉が都会の高校生であった場合に、そもそもこの作品は成立しえただろうか、と。三葉は田舎の神社の娘で、巫女装束を着て、神秘的な儀式を行う。つまり、そこにおいて

  • 処女の「価値」

が隠喩されている(巫女であることの隠喩がすでにそうなのだ)。瀧という少年が見出すのは、都会の「お姉さん」の「やりまくり」ビッチな「価値」ではなく、ウブな田舎の女の子の「処女」性に、女の「価値」を見出すところに、なんらかの「人生の勝ち組」的な価値観が示されている。
同じような問題を、先週の videonews.com において、なぜこれほどまでに、子宮頸がんワクチンの被害が拡大してしまったのかに関連して宮台さんが指摘している。
そもそも、子宮頸がんワクチンは「予防摂取」である。ということは、リスクがあれば、やらなければいい。ところが、若い小学校高学年くらいからの女の子たちが、次々とこの「予防摂取」を受けて、深刻な被害が発生している。普通に考えるなら、なぜ、この女の子たちは拒否しなかったのか、ということになるであろう。
例えば、エイズであれば、感染すれば、その一人に対して国家は、何千万円という金額が必要になる。だったら、

  • 国民全員

エイズの「予防摂取」を受けさせればいいんじゃないのか、となる。しかし実際には、そういったことは行われていない。というのは、エイズはコンドームを使えば防げる、という考えが一般的だから。だとするなら、子宮頸がんワクチンもそれでいいんじゃないのか、ということになるはずではないか。
大事なポイントは何か。それは「予防摂取」には「リスク」がある、ということである。

宮台 基本的に例えば、ジェンダーフリー教育批判のようなものがあって以降、学校では、例えば性の快楽の部分に関わるようなコミュニケーションというのは一切できなくなっていて、とにかく妊娠の恐怖、性感染症の恐怖をただ言うだけ。従って、若い人たちは、だいたい中学生くらいから、性っていうのは怖いものだ、性感染症、妊娠、人生を棒にふるって、マジでずっと教わってきてるって言うんです。
VIDEO NEWS子宮頸がんワクチン提訴に見る薬害の連鎖が止まらないわけ

宮台 テストの答案の回答、あるいは感想欄に、自分たちの構えは、やっぱり小中学生くらいから始まっていて、性に関する恐怖を非常にうえつけられると。それが、今度は高校に入ると、スクール・カーストと結びつくって、彼女たちは書いてくる。つまり、人生、棒にふるかもしれないセックスにコミットするっていうことは、馬鹿だから、育ちが悪いから、あるいは、未来を考える能力がないから。そういうふうにして、スクール・カーストの下層だっていうことになる。
VIDEO NEWS子宮頸がんワクチン提訴に見る薬害の連鎖が止まらないわけ

宮台 そうすると今回のHPVワクチンはまだ性交渉がないっていうことを前提にしてやるわけだけで、でも実際には、中学生にも7、8パーセント性交渉している人がいるし、高校生にいたればもっとたくさんいるわけだ。昔よりはもっと割合は下がったとはいえね。しかし、そういったことについても、今議論はできる感じじゃないし、あるいは性にコミットしている、あるいは自分はもう性交渉しているんだということが、昔はポジティブな意味をもったし場合によっては、進んでいるんだな、前の方にいるんだなといった感じがあるとすると、あ、この子はレースから脱落したわ、そういう感じなんですよ。
VIDEO NEWS子宮頸がんワクチン提訴に見る薬害の連鎖が止まらないわけ

「予防摂取」というのは、言葉が示している通り、別にそれを受ける人は、その病気にかかっていないわけである。だったら、なんでそんな「薬」を体に入れなければならないのか? いや、入れなければならない理由なんてない。あるわけがない。そもそも、薬と毒なんていうのは、紙一重なんだから、入れない方がいいに決まっている。
ところが、こうやって「簡単」に、この「予防摂取」をしてしまった子どもたちの「背景」に、上記のようなコミュニケーションがあったんじゃないのか、という仮説が成り立つ。つまり、この予防摂取を「受けない」という態度自体が、周りに対して

  • もう、この子は「スクールカースト」の下に行っちゃった(=性交渉をやっちゃったから「予防摂取」が意味がないからやらない)

といった「メッセージ」になってしまっていたんじゃないのか、と。
しかも、過去の薬害事件が常にそうだったし、今だに、福島第一の低線量放射性物質に対してもそうであるように、水俣病のときもそうであったように、

  • 有害性が「証明」されていないんだから、たれ流していい(それを止めろという奴は、それによる企業の「実害(=儲けの損害)」を保障しろ)

といった「科学証明絶対主義者」の「攻撃」にさらされ、こうやって「被害」を訴える人がむしろ「人格攻撃」を受けることになる。本当は、その薬なんて関係ない原因でそうなっているんだろうとか、病気を演じているんだろう、とか。
まあ。それについては、福島産の農産物を「風評被害」といって、さんざん買わない人を糾弾していた自称「科学者」たちの攻撃性を見ればよく分かるであろうw こういった自称「科学者」が、全国の幼い女の子を「攻撃」する。予防摂取を受けないということは、ヤリマンなんだろ、とか。そうじゃなきゃ、受けないって「頭がおかしい」よな、とか。
怖いね、自称「科学者」って。
そうやって、どんどんとこの「薬害」の被害が広まってしまったわけだが orz
都会の男の子にとって、もはや、恋愛は「恋愛僻地」、つまり、「田舎」に幻想を見出すしかない。それは、そう「教育」されてきたから、ということになる。田舎は「妄想」をかきたてるのだ。都会の男たちは、まだ「汚されていない」、幻想の「処女」を求めて、田舎に恋愛対象を求める。
しかし、私は逆にこれを見て思ったわけである。じゃあ、田舎の男はどうしたらいいんだろう、って。まあ、分かりやすい話であろう。どうも、東京の男たちは、さんざん、都会の女で「遊んだ」後、彼女たちは「セックス・フレンド」ではあっても、「結婚対象」ではない。結婚対象は、田舎で、じっと、自分を待っていて、自分のために自らの「操(みさお)」を守っていてくれる「処女」をもらう、というわけなのであろうw
なぜなら、上記にあるように、そのように「スクール・カースト」がなっているから...。