井手英策・古市将人・宮崎雅人『分断社会を終わらせる』

結局、民進党の党首選挙がまったくもりあがらないのは、彼らがまったく現状を打破できないことが、彼らの姿勢から明らかであるからであろう。それは、一言で言えば、「連合」である。つまり、原発政策だ、ということになる。労働組合とは、大企業がもっているものであって、ようするに、電事連がそうであるように「原発推進」なのだ。そうである限り、民進党原発に明確な反対の姿勢を示せない。よって、地方のエネルギー政策は、今のまま、ということになる。
民進党の党首選挙を見ていての違和感は、彼らは意識的なのか無意識なのかは別にして、この問題を避けている、というところにある。もしもこの問題を避けるなら、そもそも、民進党自民党には、ほとんど差異がない、ということになる。事実、民進党の党首選挙では、自分がいかに「自民党と違わないか」を主張している。それによって、今は自民党に投票している人に対して、

といった感想をもってもらうことを目的にしているかのような態度を並べる。
もしも民進党が、「連合」の政党なら、連合とは大企業「だけ」の組合なのだから、実質的に「大企業」の

  • 意向

だということになる。だから、TPP賛成であり、原発賛成だし、消費税増税賛成だ、ということになる。だとするなら、それって自民党という「大企業の経営者」たちの支持母胎と変わらない、ということになる。両方とも、

  • 大企業

を代表しているのだから、言っていることは変わらない。そもそも、こんなところに差異などあるのだろうか?
なぜ、この国の政治はここまで劣化してしまったのだろうか? 一体、どこに「大企業」以外を代表する政党があるのだろう?
まずもって、

  • みんな

という表現はやめた方がいい。民進党を構成しているものが「連合」なら、早く、自民党に吸収されるべきなのではないか? 民進党アイデンティティが「大企業」なら、彼らは、まずは自分たちのアイデンティティが「大企業」なんだと、はっきりさせるべきだろう。それができないということは、なにかをごまかそうとしている、ということを意味するに過ぎない。
民進党が「連合」を自らのアイデンティティにするなら、連合とは「大企業」の社員たちなのだから、「裏側」で「大企業」の経営者と繋がっている。この問題をどう考えるのかをはっきりさせない限り、民進党はいつまでも「なにを言っているのか分からない」集団でしかない、ということになるであろう。
民進党はおそらく、今回の党首選挙においても、この「連合」の問題を解決できない。そうである限り、「裏側」で自民党と繋がる勢力でしかない、という視線で国民から見られる(もちろん、民進党の政治家の一人一人には、そういった問題意識をもっている人がいることが確かだとしても)。彼らが正面から、この問題を「国民」に向かって、その「解決策」を明示しない限り、絶対にこの問題は解決されることはない。早い話が、私たちには二つの自民党はいらないのだ。
例えば、この前のNHKの「貧困女子学生」問題に「怒っていた」ネトウヨが言っていたことはなんだったか? NHKの番組で紹介されていた女子高生は

  • 明らか

に「貧困」じゃないだろ、と言っているわけである。しかし、である。そもそも、「生活保護」であれなんであれ、それは

  • 定義

の問題でしかない。「貧困」か「貧困でない」かどうかは、法律における「定義」の問題でしかない。そういう意味では、あれを「自明」だ、という主張は、憲法第9条で「軍隊をもってはならない」と呼んでいるその軍隊が、日本の自衛隊そのものではないか、という「批判」と、まったく瓜二つなわけである。
私たちは、そういった「存在論」であり、「現実論」でありといったような、「自明性」にもとづいた議論をする限り、NHKの女子高生は「貧困でない」と言っている人がそう言う限り、「貧困でない」という主張を

  • 一定の正当性をもっているものとして、一定の割合で、その主張を認めなければならない

ということになってしまう。これを私は「自明性の哲学」とか「存在論」と呼んでいる。
そもそも、日本における「生活保護」という制度は、法律で「定義」された、制度なのであって、そこに、個人の裁量が入り込む余地はない。だれが「生活保護」の対象になるかどうかは、あくまでも法において「定義」された条件にもとづいて判定されるに過ぎず、それに対して、「お前は貧困だ」とか「お前は貧困でない」とか言ってもしょうがないわけであろう。
しかし、「自明性の哲学」や「存在論」においては、そういったことは「どうでもいい」わけである。俺がお前を「貧困でない」と思ったら、こいつは貧困でないし、そうでなければそうでない。だから、「怒る」のであり、それ以外の判定など「知るか」というわけである。
しかし、同じようなことを、憲法第9条に対して言っている人たちの「振る舞い」を思い返したとき、どうしてこっちに対しては正当性があると言い、他方に対しては正当性がないと言えるだろうか? 憲法9条が「おかしい」なら、貧困女子高生も「おかしい」と言うし、そういった国民の

  • 怒り

に対して、どういった政治を行うのか、が問われている、ということになるわけであろう。ようするに、こういうことを言い始めた人がいるなら、もう、どうしようもないわけである。なんらかの「手当て」をするしかない。つまり、そうやって「怒っている」人に対して、なんらかの

  • オールタナティブ

を示すしかない。つまり、そういった「自明性」の罠に囚われている人には、「じゃあ、どっちなの」と問いかけるしかない。つまり、彼らの視点を「相対化」するしかない。
今の自衛隊が「子どもが見たらどう見ても憲法9条に違反する」と言う人に対しては、憲法9条の範囲の「自衛隊」は、じゃあ、なんなのか、と問いかけるしかないであろうし、憲法改正して、9条に軍隊を認めると書くべきと言う人には、そもそもの今の憲法が国連を中心とした「地域安全保障」の理念によって、日本を含めた「地域安全保障」に、アメリカ軍を含んだ地域的なシステムを構想していたことを

  • 踏襲するのか破棄するのか

を問いかけることになるであろう。つまり、この問題の「本質」はここにあるのだから、この本質を避けて、自衛隊を「軍隊」と呼ぶのかどうかを考えても意味がないからだ(こういった違和感に対して、一番分かりやすい反論は、実際に今の自衛隊が極端に「防衛」的な武力しかもっていないことをどう解釈するのか、ということになる。もちろんそれは、アメリカが日本の自衛隊アメリカ軍の補助的な位置付けに甘んじさせるという明確な意志によってされているわけだが、そのことは逆に言えば、アメリカにとって、日本という「隣国」が、あまりに攻撃的な戦力をもつことが「自国の直近の脅威」となることを分かっているから、なのであろう。それに対して、今の憲法を変えるということは、それがこの「地域安全保障」の理念から脱退するのかどうか、が問われていることを忘れている。そもそも、戦後のGHQの占領軍は「国連軍」だったのであり、日本とアメリカの、この地政学的な位置を考えても、日本がアメリカと「独立」して、軍事的「自律性」を主張することは、直接に「アメリカの脅威」につながることを忘れている。核爆弾の時代になり、アメリカにとって、日本が「隣国」としての位置を考えても、そもそも、戦後の世界秩序において、日本がアメリカと「独立」の軍事的オプションをもつと意志することが、アメリカの「平和」にとって、何を意味するのかを忘れている。そういった認識があれば、今の憲法9条を変えるかどうかや、今の自衛隊を一般の「軍隊」と同じと言わなければならないかは、そんなに簡単なことではないことが分かるはずである)。
また、今の「生活保護」が「子どもが見たらどう考えても<貧困>じゃない」から、生活保護を受けさせなくしなければならないとするなら、「じゃあ、どっちなの」と問いかけるしかない。つまり、彼らの視点を「相対化」するしかない。
あなたは「明らか」だ、と言った。だとするなら、「生活保護」をもらう人を「選別」できる「スキーマ」を用意しなければならない、ことになるであろう。あなたは「自明」だと言ったんだから、そのシステムを「自明」なまでに完成させなければ欺瞞であろう。やれると言ったんだから、やってもらうしかない。しかし、もしもあなたがそれを行うことに動機づけられないというなら、

  • 全員

生活保護を与えるしかないであろう。なぜなら、だれもその「自明」な選別方法を提示してくれない、と言うのだから。
NHKの女子高生が「貧困でない」と言うなら、その他の全ての日本人が「貧困」か「貧困でない」かを自動的に判別するシステムがなければ、フェアではないだろう。彼女だけ「判断」した、というなら、なぜ他の日本人は判断しないのか。その差はなんなのかを明らかにしなければならない。それは<あなた>自身もそうだ。あなたは、本当に今の「税の控除」を受ける資格があるのかどうか。それを、他人から判断されなければんらない。それは、あなたがNHKの女子高生を「貧困でないことは自明だ」と言われたのと同じように、「あまたが税の控除を受ける資格がないことは自明だ」と言われるリスクを受け入れなければならない。
これこそ、ソクラテスの「弁証法」であり、私たちの「自明性」であり、「存在論」を徹底して「疑う」作法なのであって、こういった態度から免れることはできないのだ。
しかし、である。
もしもこういった「自明性の哲学」を免れる方法があるとするなら、それはなんであろうか? それは「なぜ」こういったアポリアが発生するのかを問い直すことなしにはありえない。
掲題の本の主張は、一言で要約するなら、日本はスウェーデン型の「大きな政府」を志向しなければならない、ということになると思われる。なぜなら、それだけが唯一「正義」を実現できる制度だから、と。

では、勤労国家レジームは、そもそもどういう特徴をもっていたのだろうか。
減税と公共投資を骨格とするレジームのもとでは、社会保障に多くの予算を組めない。したがって、社会保障は就労ができない人向けの現金給付に集中し、サービス、すなわち現物給付の占める割合は「限定」されることとなる。教育や住宅にまで視野を広げれば、このサービスの限定性はさらに際立つ。
しかも、限られた資源を配ろうとすれば、低所得層や高齢者、地方部といった具合に、分配の対象を「選別」せざるをえない。
以上の限定性、選別性の背景にあったのは、勤労による所得の増大という前提である。「自分でできることは自分でやりなさい」ということは、裏を返せば、政府は最低限の救済措置しか講じないということだ。つまり、自分で貯蓄して将来設計をしなければならないという意味で、「自己責任」の論理が徹底されていたわけである。

よく考えてみてほしい。「自分で貯蓄して将来設計をしなければならない」社会は、それが「だれでも可能」である間はまだいいわけである。しかし、多くの人が少ない収入を強いられる「成長が小さい」時代になると、途端、に「それ」を強いられる個人は

  • 難しい毎日

を送らざるをえなくなる。「自分で貯蓄して将来設計をしなければならない」と言われてもそれができない。それができるのは一部の限られた人だけ。そういった時代になったとき、それでもこの「ポリシー」を国民に貫かさせているのが、日本の「失われた10年」から、今に至るまで、ということになるであろう。しかし、そもそも、国民は収入が少なく、「自分で貯蓄して将来設計をしなければならない」ができていないのだから、当然、それに近づけるために、どこまでも支出を減らすという「国内経済の衰退」に資することしかできない。まったく、景気が回復しない。

じつは、デンマークスウェーデンのように、低所得層も含めて広く負担を課すことに成功している国は、低所得層だけでなく、中高所得層も含め広い範囲え給付をおこなっている。
低所得層にもそれなりの「負担」を求めること。中高所得層のもちゃんと「取り分」を与えること。人間の感情を考えれば当たり前のことである。この発想が日本の財政には決定的に欠けている。保守の好む「勤労」を前提とし、それが叶わないかわいそうな人びとに限定して「救済」を施してきた勤労国家レジームの代償は大きかった。
日本のリベラルや左派は格差の是正を訴えてきた。だが、貧しい人への給付を増やせばよいという単純な問題ではないのだ、日本人の伝統的な価値観、格差是正の「しかた」を徹底的に考え抜かなければ、中高所得層の怒りを買うだけだろう。言い換えればそれは、「善意のリベラル」「善意の左派」が格差拡大の原因となる危険性をはらんできるというこでもある。

スウェーデン型の「大きな政府」であるということは、「みんな」に平等に支援する、ということである。それは、貧しい人も裕福な人も分け隔てなく、と。例えば、「子どもの教育」を考えてみてほしい。私たちは、親の裕福さで、子どもが受ける教育に「差」ができてもいい、と思うだろうか? 子どもが親を選べない。だったら、子どもが受けることになる教育は、親の資産に関係なく「平等」に与えられるべきではないか。つまり、国家が

  • 平等

にほどこせばいい、ということになる。つまり、子どもの教育にかかる支給物からなにから、国が子どもに直接「平等に配れ」ばいい。例えば、教科書は国家が直接、子どもに渡せば、教科書を買える「家庭の懐事情」に関係なく平等に渡る、ということになるであろう。
しかし、である。
そもそも、こういった「大きな政府」以外に、未来の国家像として支持可能な政府というのは想像できないのではないか? ようするに「自明性の哲学」は、まったく、現実を反映しない。それこそ「クレージークレーマー」問題なのであって、自衛隊憲法9条違反だということは「自明」じゃないかと切れる連中がいればいるほど、「生活保護」を受けとっている連中が受けとる資格がないことは「自明」じゃないかと切れる連中と「同型」なまでに、扱いきれなくなる。
だとするなら、その唯一の「解決」は、国民全員に「必要最低限度」のサービスを、無条件で与える「大きな政府」しかありえない。それは、それができるかどうかの問題ではなく

  • 正義

がどこにあるのかを考えるなら、これ以外の選択がありえない、ということを意味しているわけである...。

分断社会を終わらせる:「だれもが受益者」という財政戦略 (筑摩選書)

分断社会を終わらせる:「だれもが受益者」という財政戦略 (筑摩選書)