アニメ「君の名は」のエンディングについて

アニメ「君の名は」について、もう一度考えてみたい。
まず、この作品の「メッセージ」はなんだろう? 何が言いたいのだろうか。まずそれを「隕石」の墜落で、村が壊滅し、多くの村民が亡くなる「悲劇」にあると考えてみよう。作品は、その問題が瀧と三葉の「入れ替え」によって救済された、ということになる。作品はそこのところが、うまく作られていて、最終的な「結果」において、瀧も三葉も

  • 「隕石」で村人が死ななかった

時代に生きていく結末となっているのでありながら、お互いがその

  • 「隕石」で村人が死んだ

世界の「記憶」を失っている、という形になっている。
これは、どういうことだろう?
おそらく、この作品は「瀧の妄想」だ、というところにポイントがある。つまり、徹底してこれは「瀧の妄想」の中の話だということを把握しておく必要がある。
これは、瀧が「隕石」が墜落して、ある村が「壊滅」した、というニュースを見たときから始まる。瀧は、その村の村人が、このような形で「壊滅」したことを理不尽だと思った。こんなことがあってはならないと思った。それは、3・11で、東北の海ぞいの村が滅びたのと同じである。
もしも、瀧が「この村人を救う」ことが可能だったなら、と考えてみよう。つまり、どんな「奇跡」が必要だったのか、と。当然、隕石が落ちる「前」に、村人にその危険を知らせることが必要であることが分かる。しかし、どうやって?
そこから、それを伝えることを可能にする「神秘」が必要だということが分かるであろう。瀧の妄想は、それを「JKの<処女>性」に見出すことになる。
例えば、こんな思考実験をしてみよう。もしも、高校生の三葉が、同級生の勅使河原克彦と付き合っていて、もう何度か、性交渉もやっていた、としよう。すでに、高校生の彼女が、そうなっていないと想定するより、自然であることが分かるであろう。その場合、名取早耶香は存在しない、ということになる。このアニメでは、勅使河原克彦の見た目は、瀧と比較したとき、ものすごい「悪意」を感じさせるほどに「むっさい」風采にさせられている。しかし、地元の建設業の社長の息子が、こんな「純朴」な印象であると考える方が、不自然ではないだろうか。
すでに、勅使河原克彦は三葉に、告白をしていて、二人は「恋愛関係」になっていた。しかし、そうすると一つ「困った」ことになるわけである。つまり、この作品は三葉が「神秘的な力」をもっている、ということが前提になっている。だから、瀧は三葉に、村の危機を伝えることを可能にしている。
例えば、三葉のおばあちゃんの「一葉」は、三葉に、自分が子どもの頃も、そういった三葉のような「能力」をもっていたことを告白する場面があるが、ではなぜ一葉おばあちゃんは、その能力を失ったのか。言うまでもなく、そこには、「巫女」としての能力の喪失、つまり、「処女性の喪失」が隠喩されているわけである。
三葉の「能力」は、瀧が村を「救う」ためには、どうしても必要であった。しかし、その「設定」を採用したがために、この作品はある「強引さ=矛盾」を背負ってしまった。つまり、JKの三葉が「ヴァージン」でなければならない、というところに。
この設定は、先ほども指摘したように、どう考えても「人工的」な趣きを、作品世界に与えてしまう。どうしても、違和感を与えてしまう。三葉の妹くらいの「小学生」くらいなら、まだよかった。しかし、村を救う「説得力」をもたせるためには、どうしても、JKである必要があった。
(もしも三葉が勅使河原克彦とつきあっていたとしよう。そして、三葉と瀧の「入れ替え」が起きたとしよう。すると、瀧の心が入った三葉が勅使河原克彦とセックスをする、ということになり、もはや、なんのコメディか分からないような話になるわけであるw)
こう考えると、三葉というのは「実在しない」、瀧の「妄想」が作ったキャラクターだ、ということになる。
つまり、である。
高校生になっても、いつまでも好きな男の子もいない「ウブ」な三葉というキャラを生み出してしまった瀧は、その「妄想」の中で、彼女についての

  • 落とし前

をつけなければならないところに追込まれていくわけである。確かに「三葉」という少女を捏造したことで、瀧の妄想の中では、この世界は、3・11の津波で、多くの人は死ぬことなく、救われる。確かに、それは、もしもそんなことが起きていたとするなら「すばらしい」ことだと言うしかない。しかし、妄想は妄想でしかない。どだい「無理」がある。
そのことを瀧は、「三葉」という一人の少女に集約する。瀧は「三葉」という、高校になっても好きな男の子もいない「純情」な少女を捏造し、その少女とのさまざまな「関わりあい」によって、その村(=3・11の被害者)を救ったがゆえに、その少女の

  • リアリティ

を追及しないわけにはいかなくなった。つまり、本当に「3・11」で津波で多くの人が「死ななかった」ということが、なんらかの「リアリティ」をもたせるためには、どうしても、この三葉という女の子を「リアル」にする必要がある。もしも三葉が、この作品において、

  • 嘘くさい

と観客に思われたなら、この作品で救った「3・11」の死者も「嘘くさい」作り物になってしまう。よって、この作品において、三葉の「リアル」は何よりも重要な問題になったわけである。
「だとするなら」、その少女はどうならなければならないのか? あれだけの「深い」交流をもったのだから、その少女が、瀧に「特別な感情」をもつことは当然であろう。たとえその記憶が失われようと、その「強さ」においては変わらないわけである。
だとするなら、どうならなければならないか?
つまり、この作品は、瀧と三葉がもう一度会う「から」、村を救ったという「奇跡(という異常)」が「リアル」になるわけである。よって、どうしても、二人はもう一度会わなければならなかった。そうしなければ、この作品は終われなかった(瀧が自らの「妄想」に気付いて、すべてが夢だったと終わるしかなかった)。
(実際、このアニメにおいて、あの隕石の墜落の後の、三葉側の「ストーリー」は一切描かれない。なぜなら、三葉側の「ストーリー」をもしも少しでも

  • 進めて

しまえば、この作品が「瀧の妄想」であって、その瀧の妄想の中の「側」で、三葉のなにかの事情が「進んで」も、瀧はそのフラグを回収できないのだから、どうしてもそれが「ストーリー」の外部になってしまうしかないから。)
よって、この作品は、こう終わるしかなった。大事なポイントは、あの最後の「出会い」が、本当のリアルである必要はない、というところにある(実際の三葉と会えたのかどうか、といったこと)。つまり、「この瞬間で作品が終わる」というところに、ポイントがあって、少なくとも、瀧の側においては、あの最後の瞬間「彼女は三葉(もう名前は覚えていないが)だ」という、確信(彼女についての「リアル」)を掴もうとしている、という「ストーリー」が、この作品を「完成」させる、ということなのであって、だから、この作品はこんな終り方なのである...。
(そう考えてみると、この作品はどこか、リチャード・マシスンの『ある日どこかで』を思わせますね。)