皇室典範2.0

私は憲法改正に反対なのではなく、憲法改正を言っている連中が「皇室典範」について「言わない」ことの欺瞞が嫌なのだ。いっちょまえに、「憲法改正案」なるものを作り、

などと訴えた連中はなぜか、

を作らない。そのとき思ったのである。なるほどね、と。
なぜ日本の憲法は改正されないのか? それはなぜ「皇室典範」が改正されないのかと同値である。皇室典範を変えないから、憲法も変えないのであって、それ以上でも、それ以下でもない。偉そうに、「憲法を変えなければならない」と言っている連中に限って、

と言っているわけで、なんのことはない。皇室典範を「変えてはならない」という連中をひっくり返した先に

  • 憲法第九条を変えてはならない

があるに過ぎない。「憲法九条を変えよう」と言うことが、「皇室典範を絶対、一文字たりとも変えてはならない」なら、「皇室典範を変えよう」と言うことが、「憲法九条を絶対、一文字たりとも変えてはならない」となることに、どうして構造的な問題がないと言えるだろうか。
憲法を変えるなら、皇室典範を変えなければならないし、逆もまた正なのだ。そのことが何を意味しているのか? 憲法改正は、この憲法の作成に関わった「昭和天皇の<意志>」の向き合うことを意味する。つまり、憲法を改正するということが、この戦後憲法の作成過程に深く関わった「昭和天皇の<意志>」を尊重するのか、反逆するのか、を私たちに突き付ける。つまり、憲法改正のその「内容」に対して、必ず、

  • それが「昭和天皇の<意志>」を引き継ぐものなのか、反逆するものなのか

が問われずにいられない。この問題から目をそらした「憲法改正」などというものは存在しないのだ。だからこそ、憲法改正は「皇室典範の改正」なしには、存在しえない。なぜか? もしも憲法改正を行うなら、それは、同時に、一切の日本の法律を見直す、ということを意味する。つまり、当然、皇室典範の改正を言わない、という態度が「欺瞞」だ、ということを意味する。
憲法改正するということは、その新しい憲法に基づいて、皇室典範を改正

  • しなければならない

ということを意味する。憲法が変わっていながら、皇室典範が「絶対に変わらない」などということはありえない。どんな憲法の改正に対しても、それに「対応」する、皇室典範の部分に改正が必要になる。この二つはセットで切り離せないのだ。
憲法改正案を書くということは、必然的に、「それに対応した」皇室典範が提示されないことは「自己矛盾」なのだ。それが行われない、ということ自体が、なんらかの「自己欺瞞」を物語っている。
ここにある「構造」はなんだろう?

つまり、この二つの「天皇」という表象にあらわれた「対立」が、ここには現出しているわけである。つまり、日本国憲法の改正を主張して、皇室典範の改正を「絶対反対」と言っている連中は、飛鳥時代から連なる「天皇制」に価値をおくが、明治以降の私たちがよく知っている「天皇ファミリー」を、相対的に価値の低いものとみている。他方で、皇室典範の改正に抵抗感がなく、憲法第九条の改正に絶対反対の人は、私たちが慣れ親しんできた、明治以降の「皇室ファミリー」の人たちに人格的な崇拝をもっている一方で、そういった飛鳥時代から続いているとされる「天皇制」という「カラクリ」に、まったく無関心だ、というわけである。
もしも「憲法改正」を言うなら、必然的に「皇室典範改正」を言わなければ、それは、矛盾であり、自己欺瞞だ、ということになるであろう。まさにこの二つは、双対的な関係にあるのであって

を嘲笑する連中は

を嘲笑することなしに、その立場を主張することは許されないわけだ...。