なぜ「みさき」は再び飛んだのか?

アニメ「蒼の彼方のフォーリズム」について、公式設定資料集という本が売っているが、そこで、アニメ版の監督のインタビューがのっている。いまさら言うまでもないが、この作品は原作として、同名のエロゲーが「原作」と銘打っているわけで、どうしても、原作との対比を逃れることはできない。
このインタビューを読むと、いくつかの基本的な「前提」が、このアニメ版にはあったことが分かる。まず、監督自身が原作には関わっていなかった「サラリーマン」監督だということが語られる。つまり、監督は最初から、このアニメ版の監督を引き受ける時点での「前提」があったことを臭わしているわけである。
そもそも、テレビ・アニメは1クール12話を前提とした、少ない時間の中に話をつめこむことを宿命としているもので、原作のような凡長なストーリー設定は最初から不可能である代わりに、原作で私たちが夢みていた、アニメ的な「動き」を実現しているところに特徴がある(この静止画がもしも動いたら、と)。
その中で、何が原作との「対立」を呼ぶのかといえば、タイトルにあるように、原作は四人のヒロインに対応した「四つのストーリー(だから、ゲーム)」として分岐しているのに対して、アニメ版は「一つのストーリー」として表現するしかないところにある。
一見するとそのことは、原作における「ヒロイン」が、アニメ版における「ヒロイン」を選択することによって解決しているかのように聞こえるかもしれない。そういう意味では、この「サラリーマン」監督が始める早い段階で、明日香がヒロインとなることは決まっていたことで答えとなっている気もするのだが、そんなに簡単な結果とはならなかった。

最初にお話を伺った際に、「スポ根をやってください」というオーダーがあり、恋愛要素についてもあんまりなくていいということだったので方向性は最初から決まっていましたね。

蒼の彼方のフォーリズム 公式設定資料集

蒼の彼方のフォーリズム 公式設定資料集

みんなでわいわい青春モノやろうぜ、というノリで作ってました。恋愛要素に関してはアニメはほぼ......いや、まったくなかったですね(笑)
蒼の彼方のフォーリズム 公式設定資料集

明日香に関しては原作と多少ニュアンスが変わっているかもしれません。明日香を主人公に据えて作るというのは最初の段階で決まったことだったのですが、原作のままのキャラクター性だと主人公として物語を引っ張っていくうえでちょっと足りない部分を感じたため、原作よりは少しアクティブに、より天然に寄せています。
蒼の彼方のフォーリズム 公式設定資料集

ようするに、なぜ原作が4つのストーリーになっているのかは、コーチの昌也と、それぞれの4人のヒロインが「恋愛関係」になるから、に尽きているにも関わらず、アニメ版はこの「恋愛要素」を完全に除去したから、ストーリーの分裂を避けられた、という構造になっているわけである。
そこで、どうなったか?
結果としては、

  • 主人公 ... 明日香
  • ストーリー ... 明日香ルート + みさきルート

となった。こうやって明示してみると、このアニメの何が問題なのかが分かるのではないか。つまり、問題は「みさき」なのだ。つまり、

  • みさき問題

に集結している。なぜ「みさきルート」をアニメ版は、一部であれ、取り込まざるをえなかったのか。それは、そもそも「エロゲ版」の原作においても、この「みさきルート」が多くの原作厨を引き付けたから。そもそも、これを捨てたら、「蒼の彼方のフォーリズム」とは違う何かと、受け取られることを理解していたからであろう。
つまり、何が問題なのかというと、こうして「みさきルート」の一部が明日香ルートに対して取り込まれたことによって、その「みさきルート」の「落ち」が、どうしても、原作にはない「差異」を生み出してしまっているところにポイントがある。
みさきはフライング・サーカスの夏の大会で、自らの「才能」の限界にぶつかり、このままフライング・サーカス部を続ける動機を失う。部活を止め、自堕落な毎日を送る彼女は、明日香に向かって、「(自分は)もう飛べない」と、弱気な言葉を残す。
こうした、みさきの「弱さ」は私たちの弱さだ、と言っていいであろう。私たちは弱い。弱いし、ずるいし、すぐ逃げるし、悪なのだ。みさきはたんに、今回の自分の態度を問題にしているのではなく、昔から自分はそうだった、と言っている。彼女は、自分とは昔から「弱かった」ことを反復している。ある意味では、たんに、それだけであることを受け入れてもいるわけである。
それに対して、原作のみさきルートは、「恋愛」解決となっているわけで、つまりは、

となっている。つまり、「みさき問題」は彼女の「昔からの、その性格」の問題と向き合うことなしにありえない、となっている。なぜ彼女は、そういった「慣習」を生きるようになったのか? そこには、間違いなく、幼い頃、昌也とフライング・サーカスを通して関わった短い時間の経験が関係していた。つまり、みさきが変わるには、その幼い頃の「昌也問題」に決着をつけること以外にはない、ということに、彼女が気付くことで、彼女の中での「昌也」の大きさが意識されていく。
しかし、である。
先ほども言ったように、アニメ版では、このルートを通ることができない。つまり、「みさき」をどうやって「救う」のかを、このルートを使って行うことが、最初から禁じられている(明日香をヒロインにしたことで)。よって、どうしてもアニメ版は「ストレス」を見ている人に与えてしまう。
では、アニメ版では、どうやって、みさきは救われているのか?
アニメ版第9話で、明日香に試合を申し込まれたみさきは、その試合で勝った後、次のような言葉を残す。

みさき わたしね、わかったんだ。怖かったのは、始めて真剣になれるものを、夢中になれるものを見付けたから。でもわたし。ほんとはまだ、ちょっと、怖いかも。明日香は?
明日香 わたしは、とにかく、上を向いて飛ぶだけです。答えは、やっぱり空にあると思います。
みさき かもね。

こういった回答を、私たちは

と言うことができるであろう。ようするに、アドラー的解決は、フロイト的解決から見ると、まったく「解決」になっていない。まったく、根本的な「治療」を行っていない。だから、みさきは「まだちょっと怖い」と言うわけである。
みさきは救われない。そのことは、私たちが「救われない」ことと同じだと言えるだろう。よって、みさきの性格も変わらないし、また、彼女はなにかに「怖く」なって、逃げるであろう。しかし、そんなことは当たり前なのだ。問題は、そこにある

  • 差異

なのだ。アニメ版で、秋の大会で、みさきは乾沙希と準決勝で戦うが、そこにおいて、みさきはもはや「才能」のことを言わない。彼女は、乾沙希に向かって、自分のバチバチとぶつかるスタイルで、「自分とは何か」を示そうとする。そして、それに乾沙希は、そのことの

  • 意味

に真剣に向き合い、応答することになる。みさきは、そのことが「意味すること」が勝敗以上に大きいことを、この、原作にはなかったストーリーにおいて示すわけである...。