映画版「四月は君の嘘」について

漫画「四月は君の嘘」は、テレビアニメ版に続いて、実写映画版となったわけだが、映画版はどこか「ダイジェスト」版ということになるだろうか。
個人的には、まあ、よかったんじゃないだろうか。というのも、漫画版もアニメ版も、結局、ちゃんと見てなかったので、逆に楽しめた、ということになる。
この作品は、おそらく、最後の宮園かをりの手紙が全てを語っているのだと思う。ようするに、有馬公生と宮園かをりの最初の出会いの瞬間までの、本当は「長い話」があるわけである。ずっと、お互いは、いろいろなことを考えていて、あの出会いの瞬間があった。
そのことを、この宮園かをりの最後の手紙は、雄弁に語ってくれている。
宮園かをりは長い間、ずっと、ターミナルケアを生きていた。彼女はずっと、自分の死のことを、どんな瞬間も考えていた。有馬公生はまさか、彼女がそんなふうに生きていると思っていなかった。彼女がずっと、どの瞬間も、自らの死について考えているなんて、まったく思っていなかった。
しかしそれが、宮園かをりの最後の瞬間が近づくにつれて、有馬公生は、少しずつ理解するようになっていく。
宮園かをりは最後まで、宮園かをりだった。それは彼女が自らの命があとわずかだと知ったときから、そうであろうと決めた、ということなのだろう。
この作品は、「子ども」の世界を描いているのだ。宮園かをりは、子どもの頃、有馬公生を知り、そのときから、彼に恋をしていた。ずっと、彼が好きだった。その想いを心に秘めながら、ずっと、その時の心のまま、最後の瞬間まで生きた。そうやって、ふりかえってみると、有馬公生が耳の不調で、宮園かをりの伴奏をやめてしまう瞬間も、彼女は演奏のこと、今、舞台に立っていること、他人が見ていることに、まったく関心をもっていない。ずっと、有馬公生を励ますことしか考えていない。彼女はずっと、有馬公生に恋をしていたから、彼のためになにかをしてあげられることに幸せを感じていた。
おそらく、この作品の最後には、賛否あるのだと思う。というのは、どうしてもここには、なんらかの「理不尽」が残ってしまうから。おそらく、多くの人が思うのは、最後が

  • あっけなさ

すぎるのだ。本当は、宮園かをりと有馬公生の最後の瞬間までは、もっと深く結ばれることは可能だった。そういった描き方をすることも可能だった。つまり、そこが逆に軽いがゆえに、なんともいえない、物足りなさがある。作品が作品であるがゆえに、

  • きれい

にまとめようとしている「あざとさ」がある。本当はもっともっと、宮園かをりの「弱さ」を描かなければならなかった。でもそれが、作者はできなかった。宮園かをりが「かわいそう」だったがゆえに、こういった「様式美」に逃げるしかできなかった。
つまり、それだけ「最後」を描くのが「はばかれる」だけに、

  • 最初

インパクトをどこまで強烈にできるのかが問われていた。有馬公生は宮園かをりの存在なしには、絶対に立ち直ることはなかった。おそらくは、それが示せたなら、あとはどうでもいい、そういった作品構成に、最初からなっていた、ということなのだろう...。