嘉戸一将『北一輝----国家と進化』

この日本は、明治の憲法制定によって作られた、と言っていいだろう。ところが、この日本に住んでいる多くの人は、それが「どうなっているのか」「どうしてこうなっているのか」に疑問をもたない。
このことは、よく考えてみると、不思議な話である。
多くの日本人は、日本の憲法が今、このようになっていることには、きっと「意味」があると思っている。まさか、まったく滅茶苦茶な理由で、こんなふうになってはいない、と思っている。つまり「合理的」だと思っている。まさか、自分たちの先祖がそんなに「ダメなまま」にしておくことを恥ずかしいと思わないような人ではないと思ったわけである。
しかし、である。
掲題のタイトルになっている北一輝は、

北は一九〇四(明治三七)年頃、早稲田大学の聴講生だったが、浮田和民の講義とともに有賀長雄の講義を、「好感を以て迎へてゐた」と言われている。

まあ、潜りの聴講生だったとか。そういう感じで、一切の正規のアカデミズムに所属したことのない在野の彼が、いずれにしろ、彼はここで、今だ、アカデミックな舞台においても「難問」であった、明治憲法の「正当性」の源泉についての、最新の理論と取り組むことになったわけであるが、問題はその内容だったわけである。
言うまでもなく、明治憲法において、まず最初に参照されなければならない、伊藤博文の『憲法義解』であるわけだが(以下に現代語訳があった伊藤博文著『憲法義解』の現代語訳(HISASHI))、そこでは、どこかヘーゲルを思わせる「国家有機体論」が語られている。しかしそれを、伊藤は誤解していた。

しかし、このシュタインの「人格」としての有機体説を講義で聞いた伊藤は、「人格」ではなく「人体」として理解していた。シュタインによる講義の記録には次のように記されている。「邦国ノ制ヲ詳説セント欲セハ、必ス先ツ社会ノ人体質ヲ有スルノ一事ヲ論究セスン「ハ」アルヘカラス」。「人格」を「人体」と解してしまったことは、シュタインの有機体説との大きな隔たりをもたらすことになる。というのも、「人体」としての有機体説は、西洋中世の身分制的な有機体説を意味することになるからだ。実際、頭としての天皇が、両足になぞらえられた国民を、道徳的に帰服させることを目的とする有機体説が提唱されている。

言うまでもなく、ヘーゲルは「自由」の哲学者である。つまり、彼の言う「有機体」国家は、そもそも、国民一人一人に「差」などあるわけがない。その「自由」という一点において、差があるわけがない。そして、それは北一輝にとっても同じわけである。
たとえば、北一輝は2・26事件との関わりなどから、彼の晩年の活動を見て、「右翼」だと言われ、当然、天皇崇拝を語ったのだろうと思われている。確かに、当時の検閲の関係もあり、そういったオブラートに包んだ表現を使うこともあったが、彼の主張は、形式的には、徹底した

  • 民主主義

であった(ちなみに、彼の処女作であり代表作の『国体論及び純正社会主義』は、以下に現代語訳がある『国体論及び純正社会主義』全現代語訳)。そういう意味では、天皇ですら、彼の理論の支柱にはない。とにかく、彼が考えているのは「究極」の民主主義なのであり、そこに一切の妥協はない。
しかし、である。
ここは、北一輝ヘーゲルは似ているのだが、北一輝の「国家」は「進化」する。そして、その究極の国家像において、国民は「民主主義」的な自由と平等は、見る影もないような、よく分からない「抽象世界」に行ってしまうわけである。

しかし、北の言う自律性は一般的な意味とは異なっていることに注意しなければならない。

国民は系統的団結を道徳の最高善となし外部的強迫力たる祖先の霊魂或は刑罰等を待たず、自ら良心の無上命令として進で系統主義の下に為すに至れるなり。[1:301]

つまり、北の言う自律性は、むしろ国家あるいは社会への自発的な服属を意味する。個としての国民は自律的な立法者でもなければ、自律的に道徳を創造しうる者でもなく、個であることを放棄することが「自律的道徳」となる。というのも、北にとって「汎ての道徳は社会の生存進化の為めなり、道徳的判断は社会の生存進化の目的に応じて作らる」[1:304]からだ。あるいは個であることの放棄こそが社会主義への「進化」である。

社会主義者は如何にすとも個人主義者たる能わず。若し社会主義の名の下に貧民階級の人としての幸福を主張する以て足れりとする慈善家あらば、鉄よりも冷たき科学によりて一切の理論を行る吾人は社会主義の忠僕たらんが為めに斯る慈善家を軽蔑すべし。[1:164]

このように個であること、私的であることを放棄し、「社会と云ふ一個体の部分」[1:164]となること、そしてそれゆえにもはや道徳が解消されるとを、北は「人類」から「神類」への「進化」として語るのである。こうした北の社会進化論こそが、彼の構想する準拠だったことはもはや言うまでもないだろう。

こういった論理構成はヘーゲルと似ていて、完成するまでは、一見すると、自由で平等な市民社会を目指しているように見えたのに、話がどんどん抽象的になって行けばいくほど、

になっていく。まず、個人の「人格」がなくなる。というか、個人はこの段階においては、「共同体」に溶け込んでしまっていて、もはや、一人一人を弁別する手段もない。まあ、伊藤計劃の「ハーモニー」における「意識」がなくなった世界のような様相を示し始める。
確かに、北一輝は一方において、「社会主義者」と自称しているように、天皇制を重要視していない。なんらかの段階的な存在くらいにしか思っていない。しかし、他方において彼の考える「自由」であり「平等」は、マックス・シュティルナーのような

に行かない。ヘーゲルであり、

の考えた、「全体主義」国家へ向かう。

何故、理性による支配に力が必要なのだろうか。もちろん、外敵かポリスを守るには重要な役割が期待されている。しかし、それだけではない。先に見た筧克彦のプラトン論にも見られたように、プラトンの『国家』は「理性的部分」が「欲望的部分」の声に耳を傾け、健康のために「節制」を通じてそれを飼い馴らすというような精神生活をモデルとしているのではなく、超越的なイデアに準拠した理想のポリスの制作を規範として課している。制作である以上、力が不可欠なのである。

プラトンの国家がスパルタがモデルだったという話は有名であるが、彼の「哲人」政治は、このように

  • 軍人の暴力

を哲学者が「自由に使う」ということが「前提」の話なのであって、北一輝が晩年において、革命を「日本陸軍」の若手将校と手を組んで行う「クーデター」に可能性を見出そうとしたというのも、プラトンに近い、ということが分かるわけである。
北一輝にしろ、ヘーゲルにしろ、プラトンにしろ、一見すると、最初はいいことを言っているような風体を装っていたら(事実、戦後の日本の国家政策は、北一輝が構想したアイデアの7割くらいは、採用されていたのではないか、と言われている)、一度その抽象性が上がると、

になりさがる。しかし、ポストモダンにしても、その悲観主義であり、ニヒリズムは、こういった「全体主義」社会になることは

  • 運命

と受け入れる態度だったわけであろう(そういった、全体主義国家の中で、どうやって「個人」が「楽しむ」生を見つけるかを模索していたわけで)。
結局、国家の「価値」を、個人を超えたものとして表象する限り、プラトンであり、ライプニッツであり、ヘーゲルであり、北一輝でありといった「全体主義」の亜種に辿り着かざるをえない。そう考えるなら、マックス・シュティルナーのような「アナーキズム」以外の回答はないはずなのだが、今だに日本の国会は「二重国籍」がなんだと言っているのを見る限り、この呪縛から抜け出せていない、ということなのだろう...。

北一輝――国家と進化 (再発見 日本の哲学)

北一輝――国家と進化 (再発見 日本の哲学)