橋下努「リバタリアン・パターナリズム批判(下)」

さて。ここで私たちは究極的な、「パターナリズム」とはなんだろう、と考えてみよう。そもそも、なぜ「パターナリズム」は批判されるのか? それは「あなたのためだから」が、

だから、であろう。もう少し厳密に言うなら、「あなたのためだから」と判断したことが「正しい」とか「正しくない」に関係なく、当事者は

  • 自分に判断させろ

と言っているわけである。そうであるのに、無理に第三者が「判断」するという行為自体が、怒られている。つまり、これは最初から「内容」の問題ではないのである。
私はここで「究極」の「パターナリズム」を考えてみよう。つまり、ここで「究極」と言っているのだから、そういったパターナリズムの「あらゆる」瑕疵が「解決」されたパターナリズムとはなにか、という、どこか「矛盾」した問いをしているわけである。
こんな思考実験をしてみよう。
あなたは今、あるヴァーチャル・リアリティの装置を装着しているとする。頭であり目につけているその機械を通して、相手側は、その人とまったく「同じ視覚」を、カメラを通して見れるし、マイクを通して、その人が聞こえているものが聞こえるし、味覚も、臭いも、体のかゆい所から、体調からの、あらゆる医療情報が「伝わる」と想定しよう。
その機械を装着している人は、その相手側に対して、自分の「お願い」を伝えられる。

  • 俺、内村選手のような体操の選手になって、オリンピックに出たいんだよね

と、もしも、その人が言ったとする。すると、相手側の人は、それに対して、その人に「応答」してくれる。

  • まず最初に行うことは、生活習慣の改善だろうね。
  • まず、そういったトレーニングをしてくれるジムを探そう。
  • それを実現できる、金銭的な余裕はあるのか?
  • ひとまず、一日考えてみたら? それでも変わらなかったら、それからでもいいんじゃない?

この「パターナリズム」システムの特徴はなんだろう? それは、この機械の向こう側にいて、いつも、その人と同じ「経験」をしている人は、次第に、

をしてくれるようになる、というところにある(まさに、パターナリズムだ)。

  • こんなに天気がいいんだし、どこか、外に散歩に行ったら?
  • あの女の子なんて、君のタイプなんじゃないかな。思い切って、声をかけてみたら?
  • おい。今の奴。オレオレ詐欺じゃなかったか。ダメだよ。あいつの言うことを聞いて、振り込んだら。

これを、私は「オバケのQ太郎」方式と呼ぼう。第一巻第一話で、Q太郎の名セリフ「言いたかないけど、面倒みたよ」というわけである。

例えば貯蓄率を高めるための介入や、不健康な食事を避けるための介入は、かえって個人の判断力を幼児化し、社会の進化をはばむかもしれない。合理的とみなしうる選択は試行錯誤から生じる。その過程を制限してしまうと、人は社会に適応するための実践知(道具箱)を豊かにすることに関心を寄せず、自身の誤りを修正することに投資しなくなる。結果として、長期的にみれば誤りの割合が増大してしまうかもしれない[Wright and Ginsburg 2012: 1071-1072]。重要な意志決定において、個人が自由に選択して誤ることは、経済厚生の観点からも自由権の観点からも価値がある。そのような自由の価値を、リバタリアンパターナリズムは無視してしまう。

さて。なぜパターナリズムは、評判が悪いのか? それは、本当は自分のことに「無関心」であり、面倒くさいと思っていて、まったく「やる気」がないのに、いきがかり上、「やらなきゃいけなくなった」から、自分の面倒を見ようとしている態度が、不快だと言っているわけである。
つまり、

  • マジ

じゃないのだ。ここには間違いなく「固有名」問題がある。そいつの「パターナリズム」は

  • だれでもいい

わけである。他ならぬこの人でなければならない、という理由がない。つまり、これは「一般法則」であって、その人でなきゃならない、という「他者」性がない。
こういった一般的パターナリズムには、もう一つの欠点があって、つまり、「あなたのためだから」と口では言っても、本当の心の奥底では、その人を「バカ」にしているかもしれない。つまり、無意識では、この仕事を思いっ切り、手を抜いているのかもしれない。それは、認知的不協和と言われていて、そもそも「関心」のないことに、無理矢理、関心をもたせようという態度が無理だ、と考えることもできるわけなのである。
それに対して、上記の究極のパターナリズムが、一般的なパターナリズムと何が違うかというと、父親や母親や兄弟や友達に「近い」。友達は、世の中の友達という概念が、一般にどう使われているのかに関係なく、学校に行って、同じクラスに行けば、会うし、会えば、いつもの感じで話をするのだろうが、その「文脈」は、お互い「固有」の文脈に依存するわけで、

  • 他人には分からない(=一般的なルールに還元できない)

固有性を帯びる(パターナリズムが一般性に還元される限り、究極的な完成はありえないし、むしろ、そういった「一般」的なものは、逆に、「見える化」や「アカウンタビリティ」といったような、別の担保によって、正当性を模索するしかない)。まあ、その辺りは単純な話なんで、とにかく、「自分のことを考えてくれる」人がいるだけで、私たちは、嬉しいし、その声に耳を傾けよう、という気持ちになる、というわけである...。

思想 2016年 09 月号 [雑誌]

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